第6話 本当の敵
今回も清水綾が出迎えてくれた。
「こんにちは」
今日も元気のいい挨拶だった。
とてもあんな凄惨な事件を、経験したようには見えない。
「こんにちは、電話した相沢です。こちらは一度面識があるかと思いますが、同僚の青木です」
「ええ、存じてます。またいらしたんですね」
自分の事件の捜査員だった青木の顔を見ても、綾はまったく動じない。
四階に上がると、鏡が見知らぬ女性と二人で迎えてくれた。
「相沢さん、青木さん、よくいらっしゃいました。こちらが篠田愛実さんです」
鏡に紹介されて、愛実は品よく頭を下げた。
正面から愛実の顔を見て青木はハッとした。
篠田愛美は、清水綾の都会らしい洗練された美しさではなく、浅野水絵の芸能人らしい華やかさとも違う、強いてあげれば百合の花を思わせるような清楚な美人だった。
おそらく間の抜けた顔をしていたのだろう。静香に脇を突かれて、慌てて鏡に示されたソファに座る。
「今日お伺いしたのは、このビラについてです」
静香は、タブレットPCにビラの写真を表示した。
「これは私が鏡先生と相談して作ったビラです。弟が死んだ駅で配りました」
「このビラは既に報道されていますからご存じだと思いますが、大平清司さんが自殺ではなく、殺されたことをリークするメールに添付されたものです」
「知っています。私は弟が絶対に自殺などしてないと思っていました。だからこのビラを作って目撃者を探していたのです。でもネイルズマーダーが全てを暴いてくれました」
ネイルズマーダーに対する賛美の言葉が出ても、愛実は動じることなく落ち着いた声で話しを進める。
「そこまで確信されたということは、大平清司と弟さんの関係について、何か知ってることがあるんですか?」
静香の言葉に、愛実だけでなく鏡までが動揺を表した。
鏡はそのまま言葉なく愛美の顔を見ていたが、静香を見つめる表情が失望に変わったとき、口を開いた。
「やっぱり、知らないんですね。愛実さんは弟さんが自殺でないと証明する、決定的な証拠を既に警察に提出しています」
青木は一瞬耳を疑った。その言葉が本当なら、遺族から提出された証拠品を、警察が握りつぶしたことになる。
「どんな証拠を提出したのですか?」
さすがに静香も動揺したのか、声が昂ぶっていた。
「弟は死ぬ数日前から私にある相談をしていました。それは学部の先輩で大平という人が、自分の同級生たちに違法な薬を売っているというのです。弟はその薬を二錠購入して、工学部の友人に成分を分析してもらったらしいのです。結果はやはり、違法な成分が含まれていました」
「すぐに警察に届けなかったのですか?」
「同級生の多くがその薬を既に服用していたので、自分の手で告発するのは躊躇いがあったようです。それで大平さんに自首するように説得する、と言ってました。弟が死んだのはその数日後でした」
そこまで聞いて青木は、篠田誠治の死の真相が見えた気がした。誠治は間違いなく、大平清司に自首するように迫って殺されたのだ。
大平清司がどのようにして、薬の売人になったかは分からないが、ホームから突き落とすという稚拙な手段に出た時点で、組織的な殺人ではなく個人の衝動的な殺人の線が強い。
「それで薬を分析した結果はどうしたんですか?」
「弟の机の中にあったので、警察に事情を話しました。すると早見という刑事が来て、弟の死を捜査するためだと言って、薬と成分表を持って帰ってしまいました」
早見――青木には思い当たる刑事はいなかった。
「しかし警視庁には、大平清司と弟さんの関係を調査した記録はありません。あなたの渡した証拠品の記録もありませんでした」
「私はそれから何度も早見を訪ねて警察に行きました。でも早見と言う名の刑事はいないと言われ、私が提出した証拠品についても、預かった記録がないと言われました」
普通ならやり場のない怒りで肩を震わすような場面だが、愛実は意外に感じるほど、淡々と話していた。代わって鏡の眉間に深い皺が刻まれていた。
「困った愛実さんが、私のところに相談に来ました。私はすぐに押収物還付請求を行いましたが、該当する押収品はないと言うことで、取り合ってもらえませんでした。つまり証拠がないため押収した事実はないと突っぱねられたのです。正直なところ警察不信に成りましたよ」
鏡は警察の不正に対して、心底腹を立てている様子だった。だが、怒りが生まれる背景には、こうあるべきという期待があるからだと思う。気に成るのはもう全てが終わったような顔をしている愛実だった。
「先生、もういいんです。ネイルズマーダーによって、大平は罰を受けました。彼が殺されたニュースを見たとき、私はなんだか胸がスーっとしました。その日から私にとってネイルズマーダーは神のような存在に成りました」
愛実の言葉は青木の脳を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて、どろどろに溶かすぐらいの衝撃があった。
警察が信頼を裏切った被害者を、ネイルズマーダーは凶行によって救い、その結果神として賛美されている。
誠実さが滲み出るような女性だけに、警察よりもネイルズマーダーが信頼されている事実は、青木にとって大きな打撃となった。目を泳がせながら隣の静香を見ると、無表情で冷静な視線が返って来た。
その目は、「しっかりしなさい。この程度の不正があることぐらい覚悟していたでしょう」と、青木を叱咤しているように感じた。
そう、警察が不正を犯したのならば、自分たちで正せばいい。
短い時間で青木は新たな決意で心の動揺を抑えた。
「ところで、その早見という刑事の年齢や容姿の特徴など、思い出せることはありますか?」
静香は声のトーンを落として、冷静に質問を続けた。その声を聞いて、青木はごくっと唾を飲む。例え名前に心当たりはなくとも、容姿に特徴があれば、思い当たる者がいるかもしれない。
「男の人の年齢って、よく分からないですけど、四十代の後半ぐらいかしら。特徴は、男の人にしては長めの髪で、髪の毛が細くて少し脂っぽく見えたわ。背は私より少し高いけど、男の人にしては低い方かしら。やせ形で……そうだ、鼻の右側にそんなに大きくない黒子がありました」
あやうく声が漏れそうになった。愛実の言った特徴は、正に新しく捜査指揮をとることになった、加藤の特徴そのものだった。思わず声を上げそうになるのを懸命に堪えて無表情を保った。
「ありがとうございます。私の方でもその特徴に合った刑事を探してみます」
とんでもない精神力だ。
加藤に酷似した特徴を示され、動揺を顔に出さない静香に敬意を示さずにはおれなかった。
二人の動揺を知ってか知らずか、鏡が何か言いたそうな顔で二人を見た。
もしかして、まだ爆弾が飛び出すのか。
青木は覚悟を決めて鏡の言葉を待った。
第6話 本当の敵
青木と静香が耳を貸す様子を見て、鏡が口を開いた。
「大平清司についてですが、薬の売買の証拠を掴もうと、私なりに調べて分かったことがあるんです」
警察に対して諦めてしまった愛実とは対照的に、鏡からはまだ警察に対する期待を感じた。
「売買の事実があったのですか?」
「いえ、購買層と思われる男たちは、何も話してくれませんでした。ただ同じ学部の女性が、殺される三、四か月ぐらい前から、大平が見知らぬ女性とつきあい始めたと教えてくれました」
鏡に女?
青木はつくづく清に関する情報を知らされてないと思い知らされた。
それにしても、鏡の調査能力の高さには脱帽する思いがある。
会員からの善意の協力にしては、闇に斬り込みすぎている感がある。
青木の疑念にかまわず、静香のヒアリングは続く。
「同じ大学の女性ですか?」
「いえ、外部の、その、所謂水商売の女性ということでした」
「その女性に会ったのですか?」
「いえ、勤めていた店の名前までは分かったのですが、行ったときにはもう店にいないと言われました。いつ辞めたのかと訊くと、ちょうど誠治君が亡くなったころから店に来なくなったと言うことでした」
青木の脳裏に一瞬嫌な予感が過った。
「分かりました。それではその女性について、私たちの方でも調べてみます。名前と勤めていた店名は分かりますか?」
「名前はみゆきとしか分かっていません。勤めていた店は新宿のニューエルフというキャバクラです」
「新宿ニューエルフのみゆきですね」
静香はタブレットに情報をメモした。
「ご協力ありがとうございました。たいへん有意義な情報が多く、助かりました」
静香が話を切り上げたので、青木も礼を述べて頭を下げる。今日は何度も動揺してしまい、現場の先輩としては失態を演じた思いが強かった。
車に戻るまで、静香はずっと厳しい顔で一言も発しなかった。青木には静香の頭脳が高速でブンブン回っているように感じた。
車に乗りこんで、捜査本部に向かって発進すると、ようやく静香の口が開いたが、厳しい表情は変わらなかった。
「青木さん、私たちは覚悟を決めなければいけないわね」
「と、言うと」
「最初の三つの事件までは、典型的なシリアルキラーの犯罪だった。性的欲望と殺人動機がクロスしている。そういう犯人像を立てていた」
「確かに」
青木は最初の捜査会議で、静香が犯人像を説明してくれたことを思い出した。
今の青木たちは、無意識のうちにその犯人像に従って捜査をしている。
「この犯人だけが持つ特徴としては、殺人に用いたスキルが以上に高いこと、日中でも誰にも気づかれない気配を消すスキルや、釘を使った高度な殺人スキルです。ですが、他は一般的なシリアルキラー。例えば殺人対象を決めるのは、インターネットを活用していたから、次のターゲットを予測すれば、逮捕はできると考えてた」
「ああ、五件目は見事に的中した」
「ところが六件目の事件から、複雑さが加わってきた」
複雑さ――青木たちがあまり使わない言葉である。言葉が意味していることが分からないので、とりあえず次の説明を待つ。
「おそらく殺人に対して性的な興奮を覚えることは変わってないと思う。それに加えて、社会の理不尽さに対する怒りが加わっている」
「つまりテロリストになったということだな」
「そう、それはだんだん確信に変わっている。そして事件との関りが予想される希望の光と鏡弁護士が現れた」
青木は大きく頷いた。
今はネイルズマーダーに迫れそうな手がかりはそこにしかない。
「希望の光の人たちがネイルズマーダーを全面的に許容しているのは確かだ」
「予想外だったのは、大平清司殺しで見せた気配を消すスキルの進化。立ち入る人間を厳重に管理し、現職の刑事が何人も張り込んでいる現場で、ああも簡単に侵入するなんて、想像を超えています」
「しかも警視庁でも有数の格闘技のプロが一撃でのされたこともあった」
「それも完全に想定を外れていました」
静香の説明を聞きながら、青木はこのプロファイラーの頭の構造に畏敬の念を感じていた。自分は、愛美の話に感情のままに動揺して、事態を整理することに頭が働かなかったのに、彼女は一つずつ的確に整理していくことで、事件の全容を捉えやすい形に変えている。
小説やドラマに出てくる名探偵とは、静香のような人間を差すのだと痛感した。同時に自分のような人間は、静香の推理を進めるための手足に過ぎないと自覚した。
冷静な静香の顔に赤みが差してきた。そろそろ捜査の取り組み方を、話そうとしているのかもしれない。
「今後の取り組み方を話し合う前に、もう一つ重大な話をしておく必要があるわ」
それは、静香が自分自身に言い聞かせているように、青木には聞こえた。
「ネイルズマーダーは、警察に対して挑戦している」
「それは分かる。だから――」
「だから私たちがネイルズマーダーの逮捕に向けて行動することは、私たちが属する組織の不正を調べることと無縁ではいられない。その覚悟を決めなければならない。つまり警察組織とは、一線を画した捜査をすることになる」
青木は考え込んだ。今まで信じていた行動の拠り所は、法と法に裏付けられた組織の存在だった。その組織と離れて行動することは、正しいことなのか迷いがあった。捜査力についても自分と静香だけでは、やれることは限られる。
それでも、今更後には退けない。
なんだか本当の敵はネイルズマーダーではない気がしてきた。
「峰岸さんに相談してみませんか?」
「峰岸さんか――」
静香からの提案は一つの光明だった。峰岸は柔軟な頭脳を持っているのに加えて、捜査一課内でも人望が厚い。彼がリーダーシップを発揮してくれれば、あるいは今の状況を突破できるかもしれない。
「よし、じゃあまずは峰岸さんに会いに行こう」
青木は車の行く先を、捜査本部のある新宿署から、本部庁舎のある霞が関に変更した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます