第5話 期待と非難
今回も清水綾が出迎えてくれた。
「こんにちは」
今日も元気のいい挨拶だった。
とてもあんな凄惨な事件を、経験したようには見えない。
「こんにちは、電話した相沢です。こちらは一度面識があるかと思いますが、同僚の青木です」
「ええ、存じてます。またいらしたんですね」
自分の事件の捜査員だった青木の顔を見ても、綾はまったく動じない。
四階に上がると、鏡が見知らぬ女性と二人で迎えてくれた。
「相沢さん、青木さん、よくいらっしゃいました。こちらが篠田愛実さんです」
鏡に紹介されて、愛実は品よく頭を下げた。
正面から愛実の顔を見て青木はハッとした。
篠田愛美は、清水綾の都会らしい洗練された美しさではなく、浅野水絵の芸能人らしい華やかさとも違う、強いてあげれば百合の花を思わせるような清楚な美人だった。
おそらく間の抜けた顔をしていたのだろう。静香に脇を突かれて、慌てて鏡に示されたソファに座る。
「今日お伺いしたのは、このビラについてです」
静香は、タブレットPCにビラの写真を表示した。
「これは私が鏡先生と相談して作ったビラです。弟が死んだ駅で配りました」
「このビラは既に報道されていますからご存じだと思いますが、大平清司さんが自殺ではなく、殺されたことをリークするメールに添付されたものです」
「知っています。私は弟が絶対に自殺などしてないと思っていました。だからこのビラを作って目撃者を探していたのです。でもネイルズマーダーが全てを暴いてくれました」
ネイルズマーダーに対する賛美の言葉が出ても、愛実は動じることなく落ち着いた声で話しを進める。
「そこまで確信されたということは、大平清司と弟さんの関係について、何か知ってることがあるんですか?」
静香の言葉に、愛実だけでなく鏡までが動揺を表した。
鏡はそのまま言葉なく愛美の顔を見ていたが、静香を見つめる表情が失望に変わったとき、口を開いた。
「やっぱり、知らないんですね。愛実さんは弟さんが自殺でないと証明する、決定的な証拠を既に警察に提出しています」
青木は一瞬耳を疑った。その言葉が本当なら、遺族から提出された証拠品を、警察が握りつぶしたことになる。
「どんな証拠を提出したのですか?」
さすがに静香も動揺したのか、声が昂ぶっていた。
「弟は死ぬ数日前から私にある相談をしていました。それは学部の先輩で大平という人が、自分の同級生たちに違法な薬を売っているというのです。弟はその薬を二錠購入して、工学部の友人に成分を分析してもらったらしいのです。結果はやはり、違法な成分が含まれていました」
「すぐに警察に届けなかったのですか?」
「同級生の多くがその薬を既に服用していたので、自分の手で告発するのは躊躇いがあったようです。それで大平さんに自首するように説得する、と言ってました。弟が死んだのはその数日後でした」
そこまで聞いて青木は、篠田誠治の死の真相が見えた気がした。誠治は間違いなく、大平清司に自首するように迫って殺されたのだ。
大平清司がどのようにして、薬の売人になったかは分からないが、ホームから突き落とすという稚拙な手段に出た時点で、組織的な殺人ではなく個人の衝動的な殺人の線が強い。
「それで薬を分析した結果はどうしたんですか?」
「弟の机の中にあったので、警察に事情を話しました。すると早見という刑事が来て、弟の死を捜査するためだと言って、薬と成分表を持って帰ってしまいました」
早見――青木には思い当たる刑事はいなかった。
「しかし警視庁には、大平清司と弟さんの関係を調査した記録はありません。あなたの渡した証拠品の記録もありませんでした」
「私はそれから何度も早見を訪ねて警察に行きました。でも早見と言う名の刑事はいないと言われ、私が提出した証拠品についても、預かった記録がないと言われました」
普通ならやり場のない怒りで肩を震わすような場面だが、愛実は意外に感じるほど、淡々と話していた。代わって鏡の眉間に深い皺が刻まれていた。
「困った愛実さんが、私のところに相談に来ました。私はすぐに押収物還付請求を行いましたが、該当する押収品はないと言うことで、取り合ってもらえませんでした。つまり証拠がないため押収した事実はないと突っぱねられたのです。正直なところ警察不信に成りましたよ」
鏡は警察の不正に対して、心底腹を立てている様子だった。だが、怒りが生まれる背景には、こうあるべきという期待があるからだと思う。気に成るのはもう全てが終わったような顔をしている愛実だった。
「先生、もういいんです。ネイルズマーダーによって、大平は罰を受けました。彼が殺されたニュースを見たとき、私はなんだか胸がスーっとしました。その日から私にとってネイルズマーダーは神のような存在に成りました」
愛実の言葉は青木の脳を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて、どろどろに溶かすぐらいの衝撃があった。
警察が信頼を裏切った被害者を、ネイルズマーダーは凶行によって救い、その結果神として賛美されている。
誠実さが滲み出るような女性だけに、警察よりもネイルズマーダーが信頼されている事実は、青木にとって大きな打撃となった。目を泳がせながら隣の静香を見ると、無表情で冷静な視線が返って来た。
その目は、「しっかりしなさい。この程度の不正があることぐらい覚悟していたでしょう」と、青木を叱咤しているように感じた。
そう、警察が不正を犯したのならば、自分たちで正せばいい。
短い時間で青木は新たな決意で心の動揺を抑えた。
「ところで、その早見という刑事の年齢や容姿の特徴など、思い出せることはありますか?」
静香は声のトーンを落として、冷静に質問を続けた。その声を聞いて、青木はごくっと唾を飲む。例え名前に心当たりはなくとも、容姿に特徴があれば、思い当たる者がいるかもしれない。
「男の人の年齢って、よく分からないですけど、四十代の後半ぐらいかしら。特徴は、男の人にしては長めの髪で、髪の毛が細くて少し脂っぽく見えたわ。背は私より少し高いけど、男の人にしては低い方かしら。やせ形で……そうだ、鼻の右側にそんなに大きくない黒子がありました」
あやうく声が漏れそうになった。愛実の言った特徴は、正に新しく捜査指揮をとることになった、加藤の特徴そのものだった。思わず声を上げそうになるのを懸命に堪えて無表情を保った。
「ありがとうございます。私の方でもその特徴に合った刑事を探してみます」
とんでもない精神力だ。
加藤に酷似した特徴を示され、動揺を顔に出さない静香に敬意を示さずにはおれなかった。
二人の動揺を知ってか知らずか、鏡が何か言いたそうな顔で二人を見た。
もしかして、まだ爆弾が飛び出すのか。
青木は覚悟を決めて鏡の言葉を待った。
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