第五章 拡がる制裁
第1話 警察の失態
捜査本部は、珍しく静まり返っていた。緊張の糸が張りつめた中で、捜査員たちの心臓の音が聞こえてくるようだ。
担当管理官である峰岸が外された。
代わりにやって来たのは、加藤清磨(かとうせいま)という名の元公安所属の刑事だった。
昨夜未明に、芥川に続く六件目の被害者が誕生した。
今度は与党幹事長の娘が殺された。
この事件については過去の五件と比べると少々内容が複雑だった。
この娘は深夜取り巻きを引き連れて、飲酒運転で都内を爆走したあげく、早朝ジョギングをしていた二十代の男性をひき殺して逃走したのだ。
警察は目撃証言から、ひき逃げした車両が国内に少ない輸入車であることを割り出し、Nシステムから運転手がこの娘であることを確認した。
普通だったらここで娘は逮捕され、この捜査本部とも無関係で終わったはずだった。
ところがここで、お粗末な隠蔽が行われた。Nシステムにはっきりと、運転者としての娘の顔が映っているにも関わらず、ひき逃げ犯には取り巻きの一人が仕立て上げられてしまった。
事件の経過を聞いていた遺族はひき逃げしたのは女性だと知っていた。
当然ながら替え玉が仕立てられたことに、憤慨して納得しなかった。
遺族の一人が弁護士に頼んで検察に抗議したが、肝心の警察内で証拠が次々に書き換わっていくので、どうすることもできなかった。
遺族に頼まれた鏡という弁護士は奮闘したが、結局ひき逃げ事件は、自首した替え玉が起訴されて終了となった。
ところがこの娘はネイルズマーダーの手によって、六人目の犠牲者となる。
当然、マスコミは違和感に気づく。
これまでのネイルズマーダーによる被害者は、全てネット上で裁けない犯罪者として噂される者たちだったのが、今回はそういう意味では全く無名だったからだ。
ネイルズマーダーによる犯罪という話題性を背景に、マスコミが一斉に被害者について調べ始め、鏡弁護士に行きついた。
ここでまた、鏡とネイルズマーダー事件の関係性がクローズアップされる。
ネイルズマーダーの犯行の前後で、必ず被害者が過去に犯した犯罪の被害者が、鏡の主催する希望の光の会員となっているのだ。
過去の事件を含め、一挙にネイルズマーダーの事件が世間の関心を集めた。話題の中心は警察が最も触れられたくない、現与党幹事長の娘の事件の隠ぺい疑惑だった。
政府権力によって秘匿した娘の存在が、被害者となることで一挙にクローズアップされた。これまでのネイルズマーダーの徹底した殺人対象条件から、被害者に犯罪的事実があることは、容易に想像される。
真相は別の方面から広がった。
この娘は運転した日に、ホワイトドリームという薬をやっていたというのが、売人の証言により明らかになった。
この売人はテレビ局のレポーターから、隠蔽に加わるとネイルズマーダーの標的にされるかもと示唆され、命が惜しくなって真相を告げた。
一夜にしてネットから火が付き、三流週刊誌、テレビ等の大衆報道、そして大手新聞社の順に拡散された。こちらの情報拡散のスピードは、政府が手を打つ間のない驚異的なものだった。
この一件で別の見方をすれば、まるでネイルズマーダーの存在が、犯罪への加担の抑止力に成っていると言える。
そして今は検察、警察両庁だけではなく、司法全体の機能に対する不信感が国民全体に拡がりつつある。
ネットでは、警察はネイルズマーダーに協力するべきなど、殺人者を擁護する過激な意見が散見され始めた。
青木は不機嫌だった。担当事件の捜査が進まないことよりも、自分たちが行動の拠り所にしている法が、権力者によって捻じ曲げられている事実を、見せられたせいだ。
「遅いな」
捜査会議の開始時間になっても、新管理官の加藤の姿が見えない。捜査に行きたくても、捜査方針が決まらないことには、動くことができないから、じりじりしながら待つことになる。
「おそらく、六件目の事件の取り扱いで揉めてるのよ」
隣の席の静香は達観したような口ぶりだった。管理官交代にあたって、加藤はプロファイラーである静香を、アドバイザー的なポジションから外した。その背景には、峰岸色を消したい思いが透けて見える。
この決定に対し、静香自身が強く希望したことと、峰岸の交代にあたっての強い依頼から、一捜査員として捜査本部に残ることになった。
それに伴って管理官の隣の席から、他の捜査員と同じ席に移動になったわけだ。
「これだけ、隠蔽が公開されて、今更揉めることはないだろう」
「そんなことはないわ。まず警視庁が事件隠ぺいの事実を認めるかどうか、そこがまだ決まってないわ」
決まってないって、青木はこの期に及んでもまだ、事実を隠そうとする自組織に呆れてしまった。
「決まってないって、殺人対象と成った理由を捻じ曲げたら、捜査なんて進まなくなるぞ」
「そうね、それは加藤さんを始めとして、刑事部長や公安部長たちも困ると思う。でも政府は捜査圧力をかけた事実を公式発表されると困るから、そこは圧力をかける。すると警視庁が一人悪者になる可能性がある。だから簡単には結論は出ないわ」
静香の話を聞いて、今度は坂本が頭を掻きむしっている。前後の席の刑事たちも、何気に静香の見解に耳をそばだてていた。
「どうなると思う?」
聞いても仕方ないのだが、それでも青木は訊かずにはおれなかった。
「そうね、この殺人事件は、犯人がどうやって殺害対象者を選んだのか、という謎が残ったままで進んでいるでしょう。すでにマスコミでは警察の隠蔽と書かれているけど、警察自体は正式に発表したものではない。でも事実と違う情報に基づいて捜査方針が決まると、実際の捜査には支障が出る。そこまでは同意見よね」
青木は静香の目を見て頷く。
「そうなると、警察の隠ぺいを隠すことはできなくなる。警察は間違った犯人を検挙した理由が必要になるわ。最終的には、交通捜査課の課長の首が飛ぶことに、なるんじゃないかしら」
「酷い話だな」
「ただ、これだけで済むわけじゃないと思う」
「どういうことだ?」
静香の瞳が伏せられた。
「有力政治家に対する警察の隠蔽が、この事件だけじゃない可能性があるからよ」
「まだあるのか」
青木は興奮して叫んでしまった。周囲から唾を飲む音が聞こえる。
「それは分からないけど、もしあると仮定すると、また同じ失態が生じる可能性がある」
「じゃあ、全部正直に公表するしかないじゃないか」
青木はだんだんめんどくさく成って、乱暴に意見を言った。
「馬鹿ねぇ。事件に成るかどうかも分からないのに、今更公表できるぐらいなら隠蔽しないわよ」
確かにその通りだが、そう言い切られると腹が立つ。
「馬鹿は警視総監だ」
青木は悔しそうに言い放った。
「乱暴ねぇ」
静香は青木の暴言に呆れた顔をした。
「ところで、もしまた政府関係者の隠蔽事件が発覚したら、どうなると思う?」
「警視総監がクビに成る」
青木は意外にも即答した。
「それはあるかもしれないけど、警視総監よりもっと、大衆に顔が売れている人の方がダメージ大きいわ」
「もっと顔が売れてる……政治家本人?」
「正解」
青木はその瞬間、ネイルズマーダーが事件を起こせばいいと思って、慌てて首を振った。
捕まえる人間が犯人を応援したら、秩序など永遠に失われる。
「そうか、そうなったら政府が倒れるかもしれんな」
「そう、だから今頃上は同じケースについて、再確認をしていると思うの。そしてそれがあった場合は――」
「それがあったらどうなるんだ?」
「おそらく捜査はいったん全て中断して、加害者の身辺警護に全捜査員を投入するでしょうね」
フー、四方の捜査員が一斉に溜息をついた。
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