第8話 醜態
「何だか、圧倒されちゃったな」
愼也は鏡壮介との面談後、希望の光のSNSサイトの情報整理を手伝うと言う毬恵を残し、目黒まで足を延ばして朱音の案内でバーに入った。ここは酒だけではなく、軽く食事もとることができるが、今日二人が頼んだのは、酒のつまみばかりだった。
「何に圧倒されたの?」
朱音の頬はほんわかと桜色に染まっている。
大して飲んでないにも関わらず、なぜか二人とも酔いが回るのが早い。
「鏡さんの話だよ」
「ああ、あの人、ちょっと愼也に似てるね」
「どこがだよ、僕はあんなに立派じゃないよ」
愼也が否定すると、朱音は少しだけムキになった。
「立派かどうかは関係なくて、人間として似てるってこと」
「どうしてだよ、私財を投げうってボランティア活動してるんだぞ。僕にはとてもあんな真似はできない」
あくまでも鏡を称えようとする愼也に対して、朱音は分かってないわねと言うように首を大きく振る。
「あなただって人のために尽くすよ。佐伯慎哉は必要とあれば、命だって投げ出して人を助ける男だと、私は思ってる」
「よせよ、僕はそんなことしないって」
このままでは水掛け論になると愼也が危惧すると、朱音の口から意外な言葉が飛び出した。
「私が言いたいのはそういうことじゃないの。あなたと鏡さんって二重人格者っぽいと言うか、突然性格や雰囲気が豹変しない」
朱音が言ってるのは信長と身体を入れ替えたときの変化だ。
触れられたく話になったので、愼也は咄嗟に次の言葉が出なくなった。
愼也が口を閉ざしたので、朱音も話すことをやめた。
二人のペースが変わって、男と女の間に漂う妖しい雰囲気が生まれた。
店の中では低い音量でジャズのスローバラードが流れている。二人が無言になってから、突然流れ始めたかのように耳に飛び込んで来る。
「ごめん。自分の話をされると僕はどうもムキになってしまう」
心地よい音楽に癒されて、愼也は素直に謝った。
「思い出すね」
「何を?」
「愼也が司法試験に合格して、お祝いしたときのこと」
去年の話だが、愼也にとってずいぶん昔の話のような気がする。
大学を休学して司法研修を受けた一年間は、それまでの二十年の人生を上回る経験をした。いろいろな人の人生に触れ、その多様な考え方や感情を受け入れ、正直言って性格も変わった気がする。
おかげで、あんなにいろいろな経験をした夏フェスのステージさえ、子供頃の記憶と変わらなくなっている。
「司法研修より前の話って、あまり思い出せないなぁ」
正直に今の状態を打ち明けると、朱音が一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに真顔に戻った。
「そうなんだ。私は今でも思い出すよ」
この前二人で飲んだときからそうだが、朱音はときおり意味深な台詞を囁いてくる。
つきあってる梨都の親友だから、素直な気持ちを話せる相手として心を許してきたが、本来朱音は二人でいるには危険な相手だ。
特に大きく開いた胸の深い谷間は、普通の男なら心を惑わされる。
愼也自身は梨都や毬恵のようなスレンダーな体型が好みではあるが、朱音のような突起の激しい肉体を近くで見ると、やはり男として反応しそうになる。
「あ、あの、何を思い出すの?」
相変わらず話題を変えるのは苦手だ。深みに入りそうな質問を自ら発してしまう。
脳裏でくすっと信長の笑い声が響いた。
ここには二人ではなく、信長の怨霊も愼也の背後にいて、観察されていることを思い出した。少しだけ起伏が激しくなった感情が落ち着いてくる。
「本当に忘れたんだ。司法試験に合格した後に、梨都、研人、直道と五人で飲んだときのことよ。飲んでる間に梨都と愼也が喧嘩したじゃない」
「僕と梨都が喧嘩?」
何となく記憶にある。夏フェスでヒーローになっても、学生で司法試験に受かっても、あの頃の愼也は梨都に対してコンプレックスがあった。ときどきそれが変に暴発して、梨都の前で苛立っていた。たいていは言い負かされていた記憶がある。
「梨都ってホントに性格のいい子だけど、お嬢様過ぎてちょっとずれてるところがあるじゃない。あのときも結局愼也が折れて、ストレス溜まってそうだったから、梨都に内緒で二人で二次会したんだよ」
思い出した。二次会に行こうと誘われたが、疲れているからと断って一人で帰ったら、荻窪の駅で朱音が待っていた。
その後、二人で荻窪のバーに飲みに行ったのだった。
「最初は梨都に対する自分のふがいなさを責めるあなたを、私が否定して慰める感じで話をしていて、しばらくしたらあなたは同じ話を繰り返すようになった」
「酔っ払っちゃったんだね」
司法研修時代に、愼也は他の研修生のそういう姿を何度も見てきたことがある。
みんな司法試験に合格したエリートばかりだったけど、実際に司法の現場に立ったとき、人間の奥深い業に触れる感じがして、誰もが少なくとも一度は不安に成るものだ。
「もう限界かなって思って、終電もなくなりそうだし、帰ろうかなって思ったの。そのとき愼也は突然変わった」
「えっ、変わったって、何が・・・・・・」
聞くのが怖いと思ったけど、訊かずにはおれなかった。
「全部だよ。まるで違う人になったよ。顔はそのまま愼也なのに雰囲気は別人だった。それで・・・・・・」
「それで?」
「バーの中で私の胸をいきなり掴んだ」
「うっ」
信長だ!
そんなことをするのは信長しかいない。
酔って意識が朦朧とした自分に代わって、信長がこの身体に入ったんだ。
(どうしてそんなことをしたの?)
(うむ、この者がそなたのくだらぬ話を健気に聞いてくれたから、そなたに代わって礼をしたまでだ)
(礼って、失礼な話じゃないか。痴漢行為だよ)
(それは違う。少なくともその者はそれを望んでいた。その者はその立派な胸が自慢で、男がそれを触りたくなる気持ちが快感らしい。だからしてやったのだ)
愼也は心の中で大きなため息をついた。
信長以外の者がそんなことを話したら、性格異常の変態だと思われる。
「ねぇ気にしなくていいのよ」
朱音が信長との会話で黙ってしまった愼也に、気を使って話しかけた。
「本当にすまなかった」
愼也が罪を認めて謝ると、朱音は笑いながら首を振る。
「私も受け入れてたから」
「えっ?」
言葉の意味が分からなくて、もしかしてその日何かあったのかと、愼也の顔が曇る。
「愼也はその後もずっと私の胸を触りながら話してたわ。バーの中で他のお客さんもいたから恥ずかしかったけど、私は拒まなかった。でもあなたはそれ以上は求めなかった」
愼也はあまりに破廉恥な自分の姿を思い描き、耳まで熱くなった。
ただ、それ以上はなかったと聞かされて、そのことには安心した。
そう言えば信長は怨霊として取り憑いてから、女を抱いたことはない。
霊になると性欲はなくなるのかもしれない。
「話しを戻そう。僕は鏡さんにそういう二面性は感じなかったけど、朱音は何か感じることがあったの?」
朱音の表情が変わったような気がする。
少し空気が張り詰めた。
「いいわ忘れてるみたいだから、もう一度話してあげる」
愼也はただならぬ朱音の雰囲気に、ごくりと唾を飲みこんだ。
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