第7話 イントロダクション
食堂でランチを取りながら、毬恵はしっとりとした優しい瞳を一志に向ける。
「ねぇ、一志は今日希望の光に行くの?」
希望の光に初めて行った日から、何もかも変わった。南野が招いた恐怖と怒りが心から消え去って、代わりに世の中に対する信頼と期待が生まれた。
「今日は別の用事があるんだ」
「そう、じゃあ一人で行ってくる」
一志と一緒に行けないのは心細かったが、希望の光に行くことは躊躇わなかった。一人で行っても希望の光は楽しい。心が安らぎ明日への期待で胸が膨らむ。
「気を付けてね」
不意に背後に視線を感じた。振り向くと愼也がランチプレートを持って立っていた。
「お邪魔していいかな」
愼也は毬恵ではなく一志に向かって相席を頼んだ。
「どうぞ」
一志が承諾すると、愼也はわざわざ毬恵の向かいと成る一志の隣の席に座る。
毬恵が怪訝そうな顔をすると、すかさず笑顔で話しかけてきた。
「最近は楽しそうだね。いいことがあったのかな」
愼也が愛想よく話すの見て、毬恵は何らかの意図を感じとった。
「そう見えますか、そんな何もないですよ」
警戒して本心を隠して答えると、一志が意外そうな顔をして口を開く。
「そんなことないだろう。希望の光に行って良かったと言ってたじゃないか」
毬恵の警戒に反して一志が種明かしをしたので、急に腹立たしく感じた。このことは、一志と二人だけの秘密にしておきたかったからだ。そんな毬恵の気持ちにおかまいなく、愼也は畳みかけるように話を続ける。
「希望の光って何?」
「僕が所属しているボランティア団体です。前に手伝ってくれた鏡弁護士が主催しています。先週、毬恵に紹介したんです」
「ああ、鏡さんが主宰しているあれか。良かったの?」
「良かったです」
毬恵はこれ以上この話を続けたくない様子を敢えてアピールしようと、つっけんどんに答えた。
だが、愼也はそんな毬恵の態度を意に介さず、厚かましく頼んできた。
「僕も行ってみたいな。連れて行ってくれないか?」
毬恵の顔色が変わるが、一志は気にせずに言った。
「いいですよ。そうだ、今日毬恵が行くから、一緒に行ってみてはどうですか?」
毬恵は一志の言うことなので、不機嫌そうな顔のままで承諾する。
「あら、じゃあ私もご一緒したいわ」
いつの間にか隣に朱音が立っていた。毬恵は愼也の存在に気を取られて、朱音の来ていたのに気づかなかった。
「朱音さんもぜひ」
また一志が毬恵の代わりに答えた。
「ありがとう」
礼を述べながら愼也が一志の肩に手を置こうとしたように見えたが、なぜか手は背中の後ろで止まってそのまま下ろされた。
愼也は難しい顔で自分の手を見ている。
その様子を見て、朱音がクスリと笑った。
「じゃあ毬恵、お二人をよろしくね」
一志の意味深げな笑顔が毬恵に注がれる。その顔を見て毬恵の心拍は激しくなった。
乗り換えがめんどくさいからタクシーで行こうと、主張する朱音の意見を却下して、三人は電車で鏡の事務所がある不動前に向かった。
それでも帰宅時間なので、それなりに多い乗客にめげずに、一番話すのは電車に反対していた朱音だった。
「ねぇ、希望の光ってどんな感じなの?」
「普通のボランティア団体ですよ」
「どんな活動してるの?」
「犯罪被害者の方を中心に、心のケアや裁判中の支援なんかをしてます」
朱音の顔に明らかに会の活動に対する不信の色が見えた。
愼也がとりなすように言葉を続ける。
「ふーん。主催者はどんな人?」
「優の件で力になってくれた、鏡さんという弁護士です」
弁護士と聞いて朱音が再び興味を持ったのか、愼也との会話に横入りしてきた。
「えっ、弁護士さん、どのくらいの年の人? 独身?」
「年はそうだなぁ、四十歳まではいってないかな。独身ですよ」
「うわーすごい。付き合ってる方とかいないの?」
「知りません」
毬恵と朱音の会話は、いつもながら半分シンクロして、半分反発する。それでも結果的に意志疎通できているから不思議だ。
愼也は女性二人の会話を半分だけ聞きながら、別のことを考えているようだった。時々意味ありげに自分の手をじっと見ている。
「なーに、思いつめたような顔をして」
朱音が黙っている愼也に絡んでくる。
「別に何でもない」
面倒くさそうに顔を背ける愼也を見ながら、朱音は楽しくて溜まらないような表情で囁いた。
「言った通りでしょう。あなたも感じたの? 恐怖を」
愼也が朱音を睨みつけた。
毬恵には何の話かまったく分からない。
「君が言うような恐怖は感じなかったが、確かに触れることができなかった。実はこれで二度目だけど、何が原因かは僕にも分からない。ただ――」
「ただ何?」
朱音はこの話題を終わらせようとした愼也に、しつこく追求をかけた。
毬恵は二人だけの共通の話題なんだと思って、何の話か訊かずに黙って聞いていた。
「違うかもしれないけれど、あれは古武術の一つかもしれない。以前その道に詳しい人に、古武術の技の中に、敵の手を身体に触れさせない、気を使う技の存在を聞いたことがある」
オカルト的な理由を期待していた朱音は、興味なさそうに愼也の見解を流した。
「このことは、私やあなたのように意識している人間には分かるけど、他の人はほとんど無意識にそうなってるみたい。だから気づかない」
朱音はどうしてもオカルトの線でこの問題を続けたそうだった。
毬恵は二人の性格の違いがおかしくて、思わず笑いそうになった。
そんな毬恵の表情を歯牙にもかけず、朱音は続けた。
「仕方ないわよ。誰だってライオンやトラの頭を撫ぜようなんて思わない。意識して撫ぜようとしたら、恐怖で手が竦む。そういう感じでしょう」
愼也も論理的な話で朱音を納得させるのを諦めて、渋々頷く。
「あの私にも話の内容を教えてくれませんか?」
毬恵が堪えきれなくなって二人に訊いたとき、電車は不動前に着いた。
希望の光に着くと、今日も綾が迎えに出てくれた。
「綾さん、今日は大学の先輩を二人連れてきました」
毬恵が慌てて三人で来たとことを伝えると、綾は微笑んだ。
「一志さんから伺っています。初めまして、清水綾です。時々希望の光を手伝っています」
愼也は思わぬ美女の登場にはにかんだ顔をした。
朱音が不満そうに愼也の脇をつつく。
「綾さん、この二人は私の先輩で佐伯慎哉さんと、篠田朱音さんです。綾さんはラジオ局でDJをやってるんです。私たち友達なんですよ。」
毬恵はやや誇らしげに胸を張った。
突然、それまで沈黙を保っていた信長が話しかけてきた。
(気をつけろ。この建物からは欺瞞の匂いがする。心の目で見ることを忘れるでないぞ)
(欺瞞って?)
(まだ具体的には分からぬ。ただ匂いがするだけだ)
注意だけ促して、再び信長は沈黙した。
愼也が信長と意識を交えている間に、女性三人は楽しげに会話を続けていた。
「へー、二人は年は近いの?」
朱音が興味津々という風に二人を見比べる。
「そんな、私の方が四つも上ですよ」
「じゃあ私と一つ違いね。いいわぁー、なんか美人三姉妹って感じ」
朱音はここでも会話をリードする。
毬恵は自ら美人と言う朱音に思わず失笑した。
でも確かに自分はともかく、二人ともタイプは違うが美人であることは間違いない。面白いのは一番下の妹役の自分が、背の高さでは一番ということか。
綾の案内で四階の鏡の事務所に向かう。エレベーターを降りると、右奥の個室から、テレビに出てくるアイドルのようなルックスの女性が出て来た。
「綾さん、こんにちは、これでお邪魔します」
その女性は顔見知りなのか、綾に挨拶をしてから、エレベーターに乗って降りて行った。
愼也はその後ろ姿を、ポカーンと口を開けて見送っている。その様子を朱音が目ざとく気づいた。
「あれあれ、またまた美女登場で、ついに壊れちゃいましたか」
愼也は朱音の軽口は無視して、驚きが残った顔で綾に訊いた。
「清水さん、もしかして今すれ違った人、浅野水絵さんですか?」
浅野水江はグラビアアイドルで、殺された芥川聡の『サプライズワールド』のアシスタントをしていた女性だ。
それ以上に芥川のスキャンダルの元ネタになった、暴行されて妊娠、そして流産の告発者として一躍有名になった女性だ。
「そうです。彼女は元々泣き寝入りするつもりでしたが、写真週刊誌の記者に産婦人科に行った写真をスクープされて、開き直って告発したんです。元々レイプされた時の精神的ショックでうちを訪ねてたんですが、今は芥川が殺された事件で、ネットやマスコミの干渉が酷くて、鏡さんがずっとサポートしてるんです」
「すごーい、芸能人までここに来るんだ!」
少々気遅れ気味の愼也と対称的に、朱音と毬恵のテンションは、かなり盛り上がっていた。
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