第5話 鏡の素顔
前を行く一志が建物の扉を開ける。その先には、毬恵の大好きな大学のエントランスを思わせる、窓の大きな建物特有の光が多い空間があった。
今日は優の件でお世話になったお礼と、鏡がライフワークと称して運営に心血を注ぐ、希望の光を見学する日だった。
優のことに無償で対応してくれた鏡だったが、裏口入学の不正でF女学院に同行したとき、陥れられるような不信感を感じた。
その後で相談した一志の態度にも悪魔的な雰囲気を感じた。それは柴田の死に際しても同じように感じて、毬恵の中で警戒が一気に高まった。
しかしその後は。入学時に知り合ったときの優しい一志に戻っていた。
鏡も中途半端な裁定に終わった大学側と違い、諦めずに何度も涌井に交渉し、ついに南野は優へ謝罪し、嫌がらせもピタリとなくなった。ここ最近は毬恵たちの前に、南野はまったく姿を現わさなくなった。
優は鏡に対して大きな感謝を示していたし、時間というのは恐ろしいもので、毬恵ももしかしたら、鏡に対して感じた不信感は自分の勘違いだったのでは、と思うようになっていた。
そんなときに一志は、毬恵を希望の光に誘った。
最初は興味がないと断っていたが、亡くなった柴田も参加していたと聞いて、毬恵の気が変わった。
自分たちが頼んだ事件がらみで亡くなった柴田に対し、多少の罪悪感を感じていたし、一志や鏡の本当の姿を知りたいと思ったからだ。
毬恵はボランティア団体と接するのは初めてだったので、入り口の前で少しだけ入るのを躊躇ったが、一志の優しい笑顔に誘われて、思い切って足を踏み入れた。
エレベーターに乗って四階まで上がる。
「ここだよ」
と、教えてくれる一志の言葉に
「ようこそ希望の光へ。こちらは会をサポートしてくれている清水綾さんです」
「こんにちは、浜野毬恵です」
鏡の声は今日も穏やかなバリトンで、荒んでいた毬恵の心にも優しく響いた。
綾の笑顔はとても魅力的で、自分もあんな風に素敵に笑えればと、毬恵は思った。
「素敵な女性ね」
綾が毬恵を褒めると、一志はめずらしくはにかんだような表情を見せた。
「世の中の被害者のための活動というと、怪しげな印象があるでしょう。テレビドラマなら、まず間違いなくそこには悪者がいる」
鏡はこうしたボランティア団体に対して、世間の人々の持つ印象を冗談風に毬恵に話した。毬恵もまったくそう思わないことも無かったので、愛想笑いが引きつり気味になった。
それでも鏡は、まったく怪しさのない爽やかな顔を崩さず話を続けた。
「そんなイメージがあることを私はよく知っています。我々の活動は、まずそれを正すことから始めなければならない。どうすればいいか、私は真剣に考えました」
お父さんみたいだ――挨拶もそこそこに会の説明を始める鏡に、毬恵は今は亡き父の姿を重ねていた。
一志はここに来る車の中で、鏡は検事を辞めて弁護士になったと言っていた。まだ三十代半場に見える鏡が、なぜそういう経歴を経たのか、理由は分からなかったが、鏡は弁護士の方が似合うと、毬恵は思った。
「私がまずやったことは、テレビドラマや映画、小説に出てくるボランティア団体の徹底研究でした。それは実に興味深い研究でした。最初に気づいたのは、ボランティア団体が出てくるこれらの創作物は面白いものが多い」
毬恵はガクッと身体が傾く音を、心の中で聞いた。顔には出さないが、心の中で笑顔が生まれた。
「私は法律家に成るために勉強ばかりしてきて、これらをあまり鑑賞する機会がなかったんです。ですから最初は嵌りました。目的を忘れて暇があれば純粋にフィクションとして楽しみました。ただ当然ですが当初の目的を思い出し、これではいかんと思って研究活動を再開しました」
「あの、鏡さんはそこで何か気づかれたのですか?」
長い前置きに毬恵は堪らず結論を急いだ。それを見て一志がクスリと笑う。
「発見したんです」
鏡はまじめな顔で毬恵を見つめた。その迫力に予期せぬ期待が高まった。
「活動に際して絶対に金を絡ませてはいけない。NPOであっても金が絡むと関係する人間に欲が出ます。だから、私たちの団体は、ボランティア団体であって、NPOではありません」
「何が違うんですか?」
「いろいろ定義がありますが、簡単に言えば我々の団体は、ここで働いても一切給与の出ない、無報酬の団体なんです。当然被災地に行く交通費なども自腹に成ります。もちろん大災害のような場合は、現地を取り仕切るNPO法人などから宿泊や食事を手当てされることはありますが、基本的に無報酬です。ですから、うちを手伝ってくれる人たちは、基本的に定職を持っています」
「では、このビルの家賃のような運営資金はどうしてるんですか?」
「ここは基本的には、私の法律事務所です。ただ私は企業法務はやってないので、そんなに儲かってないから、いつもぎりぎりです」
そう言って、鏡は綾と顔を見合わせる。
鏡を見守るような綾の目を見て、毬恵はもしかしてこの二人と、軽い疑念を抱いた。
「寄付金などは募ってないのですか」
「一志君のような個人が少額納めてくれるぐらいです。だからいつまで続けていけるかは正直分かりません」
鏡はまじめな顔で情けない言葉を口にした。
「でも、正直なことを言うと、今はSNSがあるから、こういう事務所は、必用ないかもしれません。確かにデリケートな相談はこういう事務所の方がいいですが、その気に成れば喫茶店などのオープンスペースでも面談はできます」
「活動はどんなことをやってるんですか?」
「最近は犯罪被害者の支援が多いですね」
「具体的にはどんなことをしてるんですか?」
「まず、精神的ショックや、そこから来る身体的不調の回復支援です。これはカウンセリングが主な活動で、基本的にはもう一度人間を信じてもらえるように、真心を込めて話すだけです」
綾が頷きながら、鏡を見る。
「次に、被害者家族に多いのですが、経済的困窮に対する支援です。様々な支援金の紹介や手続き代行、それに最近は会のネットワークが広がっているので、職の斡旋などもしています」
なるほど、八千人の会員がここで活きるわけだ。
「三番目は裁判時の支援です。裁判自体は検事が進めますが、被害者の精神的ケアは、私たちが支えます。また二番目の経済的支援のために、刑事裁判後の民事訴訟を受け持ったりもします。」
これは検事経験もある鏡ならではの役割なのだろう。
「そして最後はマスコミ対策などです。心無い記事を書くマスコミは多いですから、対抗策を提示したりします」
「聞いただけで大変そうですね」
「ええ、実際持ち出しが多くて、私自身は未だに結婚もできない甲斐性無しです」
毬恵はそう言って苦笑する鏡に、熱い眼差しを向ける綾が再び気になった。
「鏡先生は金銭的には儲けてないですが、仕事は忙しいんです。毎日すごい数の相談がきます。それに冤罪事件の勝訴率はすごく高いんです」
綾が鏡の有能ぶりをアピールしようと、口を挟んできた。
「まあ、私が有能なわけではないですが、八千人のネット会員が、証拠集めとか手伝ってくれるんで、割と勝てたりします」
鏡は謙遜するが、八千人の会員がまじめに手伝ってくれるなんて、それだけでもたいしたものだ。それもひっくるめて能力だと、毬恵は思った。
「あの、柴田さんのことを訊いてもいいですか?」
和やかな雰囲気が毬恵の心を解放し、思い切って今日知りたかった話を切り出すことができた。
「もちろん。なんでも訊いてください」
鏡は話題に不釣り合いなにこやかな表情を浮かべたままで、毬恵の願いを承諾した。
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