第3話 謎の男

「まったく何があったんだ」

 慎也は愚痴のように一言発して、グラスの中のウィスキーを一気に飲み込み、フーっと深いため息をついた。


 心を悩ませてるのは、最近の毬恵の変貌だ。以前は太陽の光に輝く、ひまわりのような美しさだった。それが、南野の事件以降はすっかり影をひそめてしまい、代わりにふと気が付くと、こんなに綺麗だったのかと心が痺れるような美しさに変わったのだ。


 毬恵をそういう風に変えてしまった原因を考えると、気が滅入ってしまう。


「なに溜息ばっかりついてるのよ。ため息の数だけ幸せが逃げるわよ」

 カウンターの隣に座る朱音が、慎也の落ち込んだ姿を見てあざとく笑う。今日はゼミ会の終わりに、慎也の方から朱音を誘って、吉祥寺のバーにやって来た。そうでもしないと一人では、持て余してしまう感情が胸の奥に渦巻いていた。


「朱音は浜野さんが変わったと思わない?」

 ウィスキーが全身に染み渡って、こんな質問も抵抗なく口から出る。


「もう、酔っぱらったの? 気になるんだ。そんなのみんな気づいてるよ、もちろん原因もね」

「やっぱりそうか、浜野さんは岬君に恋してるんだな」

 慎也は切なくなって、お代わりのウィスキーダブルを、また一息で飲む。


「まったく、学生弁護士ともあろう者が思春期の小僧みたいに飲むのは止めなよ、みっともない。心配しないでも毬恵が好きなのは一志じゃないよ」

「ええっ、どうして。浜野さんは誰か他に好きな人がいるの?」

 朱音の意外な言葉に、慎也は慌てて訊き返す。


「頓珍漢だなぁ、毬恵が好きなのは一志よりもあんたの方だよ」


 思ってもみない言葉だった。

「僕ってことはないだろう。そんな風に接したことはないよ」

「慎也は毬恵を大切にしてあげてる。少なくとも私より。今の毬恵はそれで十分。梨都のことは知ってるから、自分のものにしたいとは思ってない」


「ちゃんとつきあってないのに、なんで浜野さんは変わったんだろう?」


「毬恵の心が切り替わったんだよ。女は求められることで、相手の愛情度合いを測ろうとするところがあるけど、毬恵は優の件で深く傷ついて、あんたに救われたの。だから今はあんたにただ優しく接してもらうだけで、十分満足できるんだ」


 慎也は眉を寄せて首を捻った。朱音の話がちゃんと理解できないからだ。


「そんなことがあるのかなぁ?」

「おそらく間違いない」

「なんでそう思うんだよ」

「毬恵と梨都がどこか似てるとこがあるからだよ」


 朱音の自信たっぷりの言い方に、慎也も認めることにした。


「ふーん、それは長く続くの?」

「そうねぇ、梨都がいるからねぇ。よっぽどのことがない限り、今のままで同じ状態が卒業するまで続くと思う」

 慎也はただ待つだけって女性は初めてだったので、朱音の言うことが理解できない。


「それは本人にとってはいい関係なのかな」

「分からない。私は毬恵じゃないから」


 毬恵が変身した原因の目星がついたところで、慎也は今日朱音を誘った目的を切り出した。


「ところで、岬君はどういう人なの?」

「あれ、今日は毬恵じゃなくて一志のことが聞きたかったの?」

「実はそうなんだ。僕はてっきり浜野さんは岬君とつきあい始めたのだと思って、彼のことが気になったんだ」

「どうして一志が気になるの?」

「はっきり理由はないんだけど、彼と知り合いの誰かがつきあうのは、見過ごせないというか気になるんだ」

「ふーん。一志は頭のいい男だよ。いろいろ分かっているのに、自己アピールを一切しない男。学内に同期以外では特に親しい者はいない。柴田は意外だったけど」


 朱音は熱の籠らない様子で、すらすらと一志について語る。


「いや、そういうんじゃなくて、冷たいやつとか親切なやつとか主観的な意見が聞きたいんだ」

「ふーん、珍しいね。慎也が人物評を他人に求めるって。そうね、一番特徴的なのは、他人を絶対踏み込ませない、自分だけの世界があるってことかな。」


「自分だけの世界?」

「そう、一志を見ているとそんな感じがするの。あいつは他人に親切な方だし気配りもできる。だけどある一定の距離が常にあって、決してそれ以上踏み込んでこないし、踏み込ませない。それは心だけじゃなくて、肉体的にも物理的な距離がある」


「肉体的には、思い切って手を握ったり、肩に触れたりすればいいじゃないか」

 慎也は朱音らしくないと、あっさりと言い切った。


「じゃあ、あなたやってみたら」

 朱音がカウンターに肘をついて、覗き込むようにして慎也を見上げる。


「なんだ、そんなこと誰でもできるだろう」

 朱音にからかわれてる様に感じて、慎也は不快気に答えた。


「できないのよ。私も何度か触れようとしたけど、押し返されるような感じがしていつもあきらめてしまう」

「警戒されてるんじゃないの」


 オカルト的な響きを朱音の言葉の中に感じて、慎也はわざと笑い飛ばした。


「私だけじゃない。学内で一志に触れたことがある者は、私が見てる限り毬恵を除いておそらくいない。みんな何かに気づいたように、手を引っ込める。その毬恵にしても、一志の方から触れられたことはないはず」


「朱音さんよく見てるな。岬君のことが気になるのかな?」

 場がどんどん暗くなるのを感じて、慎也は和ませようと冗談っぽく言って、再びがははと笑ったが、朱音の表情は一向に栄えない。


「怖いのよ。私は南野なんて怖いと思ったことはない。あいつは無茶をやるけど、基本的には弱い奴だから。だけど一志は怖い。あまり触れてはならないもののような気がするの」

「なんか人間じゃないみたいだな」

 何気なく言った慎也の言葉に、朱音はようやく笑顔を見せた。


「そうね。おそらく人間じゃないわ、あいつは……」

 不意に慎也は背後に一志が立っているような恐怖を感じた。恐る恐る振り向くと、そこには誰もいない。


「何してんの?」

 朱音が怪訝な顔をして訊く。

「いや、何でもない」

 慎也は心が冷えて、話題を振るだけの気力が衰えた。


「そう言えば、柴田に対する一志の態度凄かったわね」

 朱音はまだ一志の話を続けるつもりだ。

「南野の処分を聞いた日か?」

「そうよ、何だか死刑宣告のように聞こえた」


 相変わらず朱音の表現は大げさだった。


「あの二人は先輩後輩の仲で、それなりに信頼関係もあったんだろう。それなら仕方ないんじゃないか」

「あなたにはそう聞こえたの? 私は違った」

「どう思ったの?」


 急に朱音がどう感じたのか興味が湧いてきた。


「なんかねぇ、信頼している人間に裏切られて、腹を立てたという感じじゃないのよね。まるで裏切ることを予期していて、その上でそれを指摘して、罰を受けなさいと宣告しているような感じがした」


 説明しながら朱音のグラスを持つ手が震えている。

「朱音の考えすぎじゃないの。僕は全然そんな風に思わなかったぞ」


 慎也が記憶を思い出しながら言ったら、朱音が呆れたような顔をした。


「それはそうよ。あなたは毬恵のことばかり気にしながらあの場にいたから、他の人間の言葉は言語として理解していても、感情の媒体としては捉えてないわ」

「難しいこと言うな」

「悪いわね。私はこう見えて頭はいいの」


 冗談ともつかない言葉を口にして、朱音はようやく笑った。


「お見それしました。でも柴田は特に変わったようには見えなかったぞ。言ってることも変わらなかったし」

 今度は、本当に呆れたような顔をして、朱音が少し大きな声で言った。


「だから、毬恵の顔しか見てないって言われるのよ。あの時、柴田の顔は確かに歪んで、一志の視線から顔を背けたわ。その後の声には恐れが混じってたように聞こえたもの」

「そんなに毬恵の顔ばかり見てるって言うなよ。確かに心配していたけど」

 慎也は自分が朱音に対し完全に劣勢に立ったと理解した。

 毬恵のことは気になるが、別に好きだと思ったことはない。


「まあ、いいわ。私にとってはそんなに重要なことではないから。柴田も苦しかったんでしょう。私立の大学にとって国からの助成金は大きな財源だし、文部科学大臣の口利きの影響も大きいって聞いてるから」

「そうなのか。それで南野サイドも強気になったのか」

「そうね。毬恵は鏡という弁護士と、向こうの秘書と会ったとき、南野に謝罪させる約束をとったと言ってたけど、案外向こうが反故にしたんじゃなくて、うちから忖度してあの決定になったのかもね」


 朱音は吐き捨てるように言って、顔を歪ませる。


「もし、そうなら柴田も辛いだろうな。学内の不正撲滅に対して、一番旗を振ってた男だからな」

「やっぱり、あなた優しいわね。でも仕方ないわよ。あいつも所詮宮仕えだから」

「朱音は凄いな。僕なんかよりよっぽど的確に状況分析できてる」

 慎也が心から感心すると、朱音は勝ち誇ったように言った。

「梨都をとって私を逃したことは大きいわよ」

 慎也は思わず苦笑した。

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