第2話 蜘蛛の巣
南野武史は、学校から帰ってきて自室に引きこもった。
武史は父親に頼み、庭に完璧な防音処理を施したガレージを作ってもらい、そこを自室としていた。分厚いシャッターを下ろせば、外界と完全遮断されて、自分だけの世界が広がる。
もともとはギターを弾くことが目的で作った部屋だが、一週間でギターを諦め、今では家の者に気づかれずに悪さをするために使っている。
武史の遊び友達は六本木のハングレたちだ。武史は金にものを言わせて、リーダーにかわいがられていた。そのリーダーも代官山でネイルズマーダーに殺されてしまった。
最初にリーダーの死を知ったときは、頭にカッと血が上って、ネイルズマーダーに復讐したいとさえ思った。
リーダーの死によって、ハングレたちと遊ぶことも少なくなり、この部屋に攫ってきた女を連れ込むこともなくなった。
今は一人でただ酒を飲むだけだ。
ビールが尽きて、ウィスキーに切り替えた。
いくら飲んでも酔いが回らない。
屈辱感が身体を蝕んでいく。
今度ばかりは親父が激怒していた。怒りの度合はあの教育学部の女子学生をレイプしたとき以上だ。どんなに悪さをしても、政治家は清濁併せ飲むべきと言いながら、行動力があると褒めてくれた父親だったが、政治生命に関わるネタをつつかれて、それまで見せていた余裕が吹き飛んだ。
どんなに謝っても、親父の怒りは解けなかった。怒っているというよりも、武史の存在を恐れたのかもしれない。うかつなことに、ここにきて初めて、武史に好き勝手させるのは危険だと思ったらしい。
大学を卒業したら就職せずに、すぐに議員秘書に成るように言い渡された。
もともとは、父親のコネで国家公務員に成り、パワーエリートとして面白おかしく遊ぶつもりだった。
それが、大学卒業と同時に、退屈で堅苦しい秘書業務をしなければならなくなった。あのロボットのような涌井の下で修業させられるのだ。
それは生まれたときから決められていることだったが、そもそも武史は政治家という職業が嫌いだ。自分は政治家である父親から、限りない恩恵を受けているにも関わらずだ。
何よりも、選挙のときに普段馬鹿にしている地元民に、米つきバッタのように頭を下げなければならないのが我慢できなかった。
武史は涌井を子供の頃から知っている。そして親父以上に涌井を恐れた。涌井は親父を選挙に勝たせることしか興味がなかった。親父がどんな人間で、武史がどんな息子かなんて、涌井にとってはどうでもいいことだった。
それだけにもし武史が選挙にとって負の材料だと涌井が判断したら、考えただけでも恐ろしくなる。きっと涌井は、武史を容赦なく事故死に見せかけて殺すだろう。
選挙のためなら人殺しだって平気な男だ。
武史はそう確信している。
しかし今回は下手を打ってしまった。
もともと亀淵優には何の感情もなかった。他の同級生と楽しくしている様子が鼻についた程度だ。
むしろ国木が困る姿が、地元の選挙民を見てるみたいで楽しかった。国木が人間として最低な行為だと分かっていて、黙って従う姿を見ていると、際限なく貶めたくなる。
最も腹立たしいのは岬一志だった。自分は正義だという顔をして大して面白みもないくせに、ルックスだけで女から人気がある。
あいつを見ていると何か弱みを見つけて、悲しみの奥底に叩き落してやりたくなる。
だが、一志はどことなく不気味な感じがした。甘いルックスが突然悪魔に豹変して、逆に自分が地獄に送り込まれるような凄みを感じた。
あの食堂で優に絡んだときも、反発してきた浜野毬恵に脅しをかけようとした瞬間、岬一志は悪魔の片りんを見せた。武史は冷気が自分の身体を押し包むような気がして、口がうまく開かなくなった。逆らった瞬間に、内臓を抉り出されるような恐怖が走った。
こいつに食われる。生物としての防衛反応が、武史に別の感情を
その感情は、一志に守られ安心している浜野毬恵に向かった。
――俺がこいつを食ってやる。
――食わなければ俺は一志に食われる。
食堂のときの、言葉では説明できない感情が蘇ってきて、気分が悪くなった。
別のことを考えようとして、ベッドのサイドボードに立てかけてある母の写真に目がとまった。
笹本家の一人娘だった母は、祖父の膨大な地盤を引き継がせるために、祖父の有能な秘書であった父と結婚した。
母はお世辞にも美人とは言えず、婿養子の父に対して強く出るほどの才覚もなかった。
お前じゃあ選挙に顔を出しても、助けになるどころか足を引っ張ると、実の父にさえ言われたらしい。
しかし母が父のために尽くし続けたことを武史は知っている。夏場の選挙に備えて、馴染みのない男物のファッションを勉強して、父のためにスーツの素材は軽くて通気性のいい素材を厳選したこと、国会が長引いて疲れ切った父のために、少しでも食べやすくて栄養のある料理を研究していたことを――
だが祖父が亡くなると、父の女遊びには拍車がかかった。出張には愛人を帯同し、東京に居ても帰って来ない日が続いた。
母が四二才と若くして亡くなったのは、父のせいだと思った。
尽くしても尽くしても、一片の愛情も与えられず、それでも最後まで愛されようと努力した結果、心に破綻をきたして、ふらふらと車道に出てしまった。
もしかしたら自殺だったのかもしれない。
母が死んだとき父は愛人の家にいた。報せを聞いて帰ってきても、通夜で特に別れを惜しむ様子もなく、酒を飲んでいた。
自分はそんな母によく似ているから、余計にそんなみじめな人生を送りたくなかった。父のように奪う側に立ちたかった。
それなのに一志と対したときは、自分は母のようにみじめな負け犬になっていた。
一番嫌いなやられる側になってしまったのだ。
もう一度やる側に立ちたかった。一志に対して自分はやる側の人間であることを、証明したくて堪らなかった。
一志の一番大切なものを壊す――それしか証明の方法はないと思った。
だが、今すぐにはやらない。じっくりと機会を待って、確実にやる。
武史はどす黒い思いに浸りながら、じっくりと酒を飲み干していった。
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