第四章 逃れられない罠

第1話 理不尽な裁定

 もう付き合いを絶とうしようとした矢先に、柴田から会議招集のメールで送られて来た。

 議題は「南野武史のモラハラについて」だった。

 招集されたのは、この事件を知る全員だ。


 鏡とS女学院に行ってから、まだ二日しか経っていない。

 帰り際の鏡の言葉を思い出し、気の進まない思いを感じながらも、とりあえず毬恵は会議に臨んだ。


 法務部のある三号校舎の二階にあるハラスメント委員会専用の会議室は、学内では別名「お仕置き部屋」と呼ばれていた。制裁処分が下される教員や学生との、面談に使われる部屋だからだ。


 会議に呼ばれたのは、当事者の優を含め、毬恵、一志、朱音、そして慎也の計五名で、南野と国木は呼ばれてなかった。

 ロの字型にレイアウトされたテーブルの奥側に柴田と大学事務局長の長木が座り、柴田の指示で二人の右側に優が、左側に毬恵、一志、朱音、慎也が配置された。


「お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。それでは亀淵優さんへのモラスハラスメントについて、委員会の裁定結果をお伝えします。内容を共有いただき、本件に関わる一切について厳秘を誓約していただきます」


 この言葉の後で、会議内容の守秘誓約書が各自に配られた。

「では結果からお伝えします。亀淵さんに対し、モラハラに近いことがあったことは、調査により確認されました」

 柴田にしては、珍しくはっきりしない言い方だった。


「亀淵さんの精神的苦痛を除くために、南野さんには井坂ゼミをやめていただき、また指導教授の国木准教授は、明峰大所沢キャンパスの教養学部に異動してもらいます。しかし、明確な証拠がないため、減給などの制裁や社内への公表はしません。あくまでも異動による円満解決を目指すこととします」


 柴田は顔色一つ変えず、淡々と処分内容を話している。

「ちょっと待ってください。制裁はともかくとして、謝罪はないのですか?」

 朱音が手ぬるい処置に憤りを感じたのか、柴田に講義した。


「謝罪はありません。亀淵さんの苦痛に成った行為に、意図的なものが証明されないからです」

 柴田は無造作にそう言い切った。


「なるほどねぇ。臭いものには蓋的な対応だな」

 慎也はあまりにも見え見えの処置に半分苦笑を交えながらも、皮肉を言っただけに留めた。


「南野さんに誤解されやすい部分や、学業において要領の悪い部分があることは認めます。ただ、亀淵さんの論運盗用の疑いは、盗用を証明する明確な事実はなく、亀淵さんに対する強圧的ないたずらも若さゆえのことと、今後の反省に期待して不問とします」

 冷たく言い切る柴田に対し、優が血の気の退いた青い顔で睨みつける。


「じゃあ、国木准教授は何なんですか? 南野さんに弱みを握られていて、一方的に亀淵さんのせいにしたんじゃないですか」

 毬恵はついに我慢できなくなった。純粋に怒ってしまった。それは大学の裁定に対してよりも、約束を守らなかった涌井に対しての怒りだった。


「国木准教授が私生活で何をしていたかは、現時点では大学には関係ない話です。南野さんが、そのことで国木准教授を脅していたと、証明する事実はありません。ただ、国木准教授の指導がまずかったことは事実なので、彼には異動してもらいます」


「柴田さん、それがあなたの真実なんですね」

 それまで沈黙していた一志が言葉を発した。


 柴田は会議が始まってから初めて顔を歪めて、一志から視線を外した。

 その姿を見て、漸く優の口から言葉が出た。


「皆さん、もういいです。とにかく南野さんはいなくなります。もうこれ以上は望みません」

 優の痛ましい姿を見て、毬恵も言いかけた言葉を飲み込んだ。


「今日皆さんをお呼びしたのは、こうして会社の裁定が下った以上、皆さんが知っていることを決して、他言しないようにお願いしたいからです。誓約書にサインいただき、それをもって本件への関りを一切絶っていただきたい。違約する場合は、そのことに対し大学の裁定が掛かると自覚ください」

 優が何も言わず誓約書にサインしたのを見て、毬恵もしぶしぶサインした。これにより、国木の裏口入学の件も忘れざるをえなくなる。


 柴田を誓約書を回収すると、長木と共に会議室を出て行った。

 後に残った毬恵たちも無言で会議室を後にした。



 部屋を出ると廊下に南野が立っていた。

 部屋を出てきたメンバーから、憎悪の視線を送られても、平然としていた。


 毬恵は南野の視線が自分に向けられていることに気づいた。

 南野は亀淵ではなく、毬恵だけをじっと見ていた。それは粘りつくような何かの意図を感じる視線だった。

 気味が悪かったが、負けまいと毬恵も睨み返した。

 慎也が二人の睨み合いに気づいて、毬恵に声をかける。

「浜野さん、ゼミ室に行こう。ちょっと打ち合わせがしたい」


 慎也の言葉で、毬恵は視線を外した。そのとき南野は微かに笑ったように感じた。

 会議室に入ると、慎也が心配そうに切り出した。

「もう、南野に関わるのは止めた方がいい。あいつの目は既に犯罪に成れきった目だ」


 慎也は以前夏フェスのトラブルで関わった、長野という学生犯罪者の目を思い出した。

 南野の目は長野と寸分変わらない。


「分かりました。でも悔しい。あれじゃあ優が可哀そうです」

 毬恵が唇を震わせながら大学の裁定に抗議すると、慎也は諭すように優しい声で話した。


「しかし、亀淵は我慢した。理不尽に耐えて、明日をしっかり生きようと決めたんだ」

「でも、南野代議士の秘書は、裏口入学の話を黙る代わりに、南野さんにしっかり謝罪させると約束したんです」

「君はその言葉を信じたかったんだな。そう思いながらも、半分は守られない予感もあった。だから腹が立つんだ」


 慎也の言うことは正しかった。それでも毬恵は頷くことはできず、慎也の顔を睨むように見た。


「これは現実だよ。君だけじゃなく、みんなが悔しい現実だ。当の亀淵君はもちろん、僕だって悔しいし、朱音だって現実に失望したはずだ。だが何よりも柴田に信頼して託した岬君は、君よりもっと悔しいし、悲しいんじゃないかな」


 毬恵は会議の最後に一志が言った言葉を思い出した。言いたいことはたくさんあったはずなのに一言だけ、でもあの一言には怒りだけじゃなく悲しみも混じっていた。


「分かりました。もうこの件は忘れます」

「そうだよ。一番忘れなきゃいけないのは亀淵君だ。まだ未来の時間はいっぱい残ってるんだ。それを気持ちよく過ごせるように、あいつを応援してやろうよ」

 今度こそ、毬恵は心から頷いた。

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