第6話 境界

 F女学院に行った次の日、毬恵は通学の途中で、誰かが自分の後をつけているような気がして、何度も後ろを振り向いた。

 電車の中でも誰かが自分を監視しているような気がして、周囲を見回したが誰も毬恵のことなど見てなかった。


 授業を受けていても、顔の分からない誰かの目が、じっと自分を見ているイメージが心に浮かぶ。

 実態がない強迫観念だけで毬恵の心は蝕まれ、ただ座っているだけで尋常ではない疲れに襲われる。


「どうしたの? 目に隈ができてるよ」

 授業間の休憩で、カフェで一緒にお茶を飲んでいた一志が、毬恵の異変を指摘する。

 昨日の晩、毬恵は寝ようと努力したが眠れなかった。目を閉じると殺される自分のイメージが浮かぶので、思わず目を開けてしまう。それを何度も繰り返すうちに朝になってしまったのだ。


「ねぇ、一志? 鏡さんってどんな人?」

 毬恵は心に押し寄せる恐怖に耐えきれなく成って、膨れ上がる鏡への不信を一志にぶちまけようとした。


「悪を憎んで淘汰しようという思いが強い人だよ」

 一志は言葉を選びながら慎重に鏡を評した。


「悪を倒すためなら、犠牲など厭わないように私には思えるの」

「うーん、そういうところもなくはない」

「私はF女学院に行ったとき、鏡さんによって、悪を摘発するための囮にされた気がしたわ。昨日から怖くて眠ることもできない」


 なぜか、毬恵の言葉に一志の顔色が変わった。

 顔色だけではなく、全体の雰囲気が暗く重くなった感じだ。


「だから言ったじゃないか。これはとても危険なことだって。F女学院に行く前にも僕は止めたよね。正義を執行するには、血が流れることを躊躇してはいられない。でもね、ネットを見てごらん。血も流さずに正義と称した攻撃が溢れている。君は正義をしたいけど、自分が危険に晒されるのは嫌だという感情は、そんなネットの後ろにいる人たちとさして変わらないんじゃないか」


 普段は物静かな一志の激しい口調に、毬恵は怯んだ。今まで自分と同じ世界にいると思っていた一志が遠く感じた。


「何だか気合いの入った議論をしているね」


 ただならぬ雰囲気の二人の間に割って入る声がした。

 声のした方向を見ると、慎也が立っている。


「匿名で意見を述べることに、覚悟が足りないと決めつけるのは、僕は反対だなぁ。問題なのは匿名であること以上に、述べている内容なんじゃないかな」


 穏やかな顔で諭す慎也に対し、一志の顔には反発の意思がありありと浮かんでいた。


「もちろんです。でもやはり自分の身を安全な所において、人を攻撃するのは潔くない。そんな行動は正義を貶めると思うんです」


 慎也を相手にしても、一志はまったく引く気はないようだ。


(慎也、余と代われ)

 信長は告げると同時に慎也と入れ替わった。

 何が信長の琴線に触れたのか分からないが、久々に信長が登場し、慎也は生き霊となって宙から自分の姿を見下ろす。

 その体制で、信長が何か意図を持っていると感じて、慎也は少しずつ緊張を感じ始めた。

 信長は一志の正面に座る毬恵の隣に腰を下ろした。


「そなたは正義と言うが、そなたの中での善悪の定義とはどういうものか?」

「僕の中での善悪の定義?」


 信長は何も言わずにじっと一志を見た。

 驚くべきことに、誰もが怯む信長の眼光を、一志は正面から受け止めていた。


「人を悲しみに追い込む者が悪。裁く者が善」

「それは曖昧だな。例えば両親の期待に応えぬ息子に、両親は失望し悲しむことになるが、世間は息子を悪とは言わぬ」


 信長の反論に、一志はフッと笑った。

「付け加える。そう僕が判断した者が悪。僕が善だ」

「そうか。そなたは法律を学ぶ者で有りながら法には従わぬのか?」

「法の精神は学ぶに値するが、所詮は人が作ったものだ。欠陥が多くて従うに値しない」

「なるほどな。ではもう一つ聞く。ネイルズマーダーをそなたはどう思う?」


 信長はこれが訊きたかったのだと、慎也は理解した。最近は信長の感情が僅かであるが伝わってくるようになった。今の質問のときだけ、信長の心に軽い興奮が生じていた。


「最高の審判者だ」


 きっぱりと言い切った一志に、信長さえ軽い驚きの表情を見せた。

 信長は、呆然と自分たちのやりとりを聞いていた毬恵の方を向いた。


「聞いたであろう。そなたの欲しかった答えを。悪いことは言わぬ。その男と行動を共にすることはやめた方がいい」


 信長の圧倒的な説得力に、毬恵は言葉もなく頷いた。

 毬恵は、信長が席を立つのに合わせて、慌てて席を立った。

 無言で立ち去ろうとする毬恵の背後から一志が呼びかける。


「今、ここで席を立っても、君は逃れられない。君は絶対的な正義の使途になるしか、救われる方法はない」


 毬恵は振り向いて何も言わず一志を睨み、再びきびすを返して立ち去っていった。



 一志のもとを離れた途端に、再び慎也は自分の身体に戻った。

 信長が再び無言になるかもしれないので、慎也は慌てて訊いた。


(信長は一志のああいう考え方が分かっていたの?)

(いや、カフェで二人の話している様子を見て、かまをかけてみただけだ)

(そうか、でも彼の考え方はとがってたね。聞いてて鳥肌が立ちそうだったよ)

(考え方自体はそう珍しいものではない。問題はあやつの場合行動が伴うことだ。そなたもあの娘の身辺に関しては気を配った方が良い)

(分かった。ところで、あいつは信長と正面から目を合わせても平気だったね。そういう人間がいるんだ)


 信長はシミュレーションゲーム上のキャラで例えるなら、統率力の取り得る最大値二五五が設定されている。普通の人間ならその眼差しを直視するまでもなくひれ伏すはずだ。


(普通の人間ではないかもしれぬな)


 それってどういうことか疑問に思ったが、慎也は聞けなかった。

 信長が憑いていることで、慎也は同じ時間だけ本来ある寿命が縮んでいる。だから、大抵のことは聞く権利があると思っているが、なぜかこの質問には二の足を踏んだ。

 理屈ではない、本能が訊いてはいけないと告げていた。

 慎也は話す余地がなくなり黙ってしまった。


「佐伯さん」

 後ろから自分を呼ぶ声がするので、慎也は振り返るとそこには毬恵が立っていた。


「先ほどはありがとうございました。おかげさまで一志や鏡さんの考え方が分かりました。まだ不安はありますが、彼らと一緒に行動するのはもうやめます」

「亀淵君の件はどうする?」

「それについては、佐伯さんに相談に乗って欲しいんです」


 毬恵の目は少し潤んでるようにも見える。

 慎也に対し相談という名目で、熱くなった気持ちをぶつけてきている感じがする。

 二人は言葉なく見つめ合った。

 次の一言で恋が始まりそうな雰囲気だ。


「慎也」

 毬恵の背後から聞き慣れた声がした。顔を上げるとやはり梨都がいた。

 梨都にはこの雰囲気にも動じない女王の貫禄がある。

 慎也と二人で過ごしてきた時間の濃密さが自信となり、毬恵の存在すら二人の間のスパイスぐらいにしか感じていない。


 梨都は振り向いた毬恵の顔を見て、自分がゼミ長をしているゼミの後輩だと気づいた。

「あら、浜野さん。こんにちは、慎也に何かご相談? 法律のことなら何でも訊いてね。これでも慎也は現役の弁護士だから。ゼミのことなら私も相談に乗るわよ」


 逆に言えば、それ以外では慎也に関わるなという警告にも取れる。

 案の定、毬恵はそう受け取ったようだ。


「そうですね。佐伯さん、また相談させてください」

 毬恵は逃げるようにその場を立ち去った。

 いつの間にか梨都は慎也の隣に並んで、毬恵の後ろ姿を見送っていた。


 梨都は意味有り気な表情で、毬恵の後ろ姿を見送る。

 それから、慎也の方を振り向いて、輝く笑顔で言った。


「行きましょう。今日のゼミの討論テーマについて相談があるの」

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