第5話 取引
S女学園は太陽の下で緑が映える、健康的で美しい学校だった。そこに学ぶ女学生たちも、華美に化粧することなく、自然な美しさの中で知性を輝かせていた。
毬恵はこんな素敵な場所で、大人たちの思惑で汚れた裏口入学が行われていることが信じられなかった。
女性の花園に少しばかり気後れしている鏡に、さあ行きましょうと声をかける。
鏡からS女学園へ行こうと誘われたのは、昨日の夜だった。鏡の主催する犯罪被害者の救済団体に、S学園の裏口入学に関係する人がいた、ということだった。
鏡は大勢で行くと相手が警戒するので、一志や柴田には遠慮してもらい、女性の毬恵がいいと言った。一志は強く反対したが、毬恵としても南野を排除できるのならと、喜んでお供をすることにした。
受付で名乗ると、紹介者からの根回しは的確に行われていたらしく、すんなりと事務長の部屋に通された。
事務長は神経質そうな顔つきの初老の男だった。交換した名刺には神崎利通とある。神崎は二人の名刺を見ながら、穏やかに話し始めた。
「早速ですが鏡さん、今日いらしたご用件を教えていただけますか?」
神崎は忙し気にこちらの目的を尋ねてきた。
よく見ると額に薄っすらと汗を掻いている。
「電話でお伝えした通り、御校の裏口入学についてです」
鏡はストレートに本題を切り出した。
学内を歩いて来る間に、綺麗なキャンパスですねとか、真面目そうな生徒さんたちですねと、挨拶代わりの賛美の言葉を考えていた毬恵は、早急な展開に慌ててしまった。
それ以上に神崎のダメージは大きかったようで、すぐに返答できずに両手はブルブルと震えている。
「下口さんがお渡ししたリストの件ですね」
下口は鏡の主催する会の会員だ。以前は都内にいくつもの文具ストアを展開する経営者だったが、強引なM&Aで会社を奪われ困っていたところを、鏡に救われた人物だ。
S女学院の裏口入学では、窓口の一人と成っていた時期もあるらしく、鏡の要請に応えてその全容を教えてくれた。
「はい、下口さんは、御行への文具の卸に関わる中で、御行の裏口入学の客斡旋をしていたそうです。五百万円の寄付金と引き換えに、御校への入学の便宜が図られた人たちのリストを私に渡してくれました」
面と向かって悪事を追及することは、意外と精神的に負担があるものだ。ましてや初対面の相手だと、その負荷は相当なものだが、鏡は澱むことなく堂々と追及している。鏡の精神力の強さに毬恵は目を見張った。
「裏口とはどういう意味でしょうか?」
神崎も必死で防戦する。
「公開してない手段で入学の便宜が図られることです」
鏡は手綱を緩めない。
「下口さんが何か勘違いされていると思いますが、当学院の理念に共鳴された方から寄付を受け取ることに、何等問題はないと思います」
「ただ、現文部科学大臣が関わっていることになると、話が違ってきます。助成金の問題もあるんじゃないですか」
「南野大臣は何も関係していません」
大声で否定した直後に神崎は我に返って、ここで感情を見せるのはまずいと、口を固く閉じた。
「神崎さん、私たちは御校の不正を糾弾したいわけじゃありません。何も知らずに学校生活を送っている生徒の皆さんを、いたずらに不名誉な事態に巻き込むことも本意ではない。ただ、裏口入学に関わったばかりに、大臣の息子さんから不当な脅しを受けている人物がいます。それを止めるのが目的です」
トントン、事務長室がノックされた。
神崎の承諾がないにも関わらず、扉が開いてスーツ姿の中年の男が入って来た。
「お話し中、申し訳ありません。南野健三の秘書をしている涌井と申します。南野について、F女学院の入試への関与を疑う方がいると、事務長から連絡を受けて、参った次第です」
恐るべき手際の良さだった。このタイミングで入って来るということは、おそらくこの部屋での今までのやり取りを、盗聴器などで聞いていたのだろう。
毬恵は今まで自分が接して来た世界とは全く異質な感じがして、ここに来て初めて怖いという感情が芽生え始めた。
しかし鏡はまったく臆することなく、冷静にこの事態を受け入れているのを見て、私もしっかりしないと、と自らの心を叱咤した。
「なかなか話が早いですね。少なくとも、私たちが裏口入学の是非を、話しに来たのではないということは、ご理解いただいたと思っていいですね」
「裏口入学は南野とはまったく関わりない話ですが、武史さんが何かご迷惑をおかけしてるということは理解しました。鏡さんの要求はどのようなことでしょうか」
涌井はにこりともせず能面のような顔で話を進める。
毬恵はこの場の速い展開に何を言えばいいのか分からず、目で鏡に託すと告げた。
「武史さんは浜野さんの同級生の男性に対し、許すことのできない嫌がらせを続けています。そしてF女学院への裏口入学をネタに、指導教官である国木准教授をこの嫌がらせに加担させています。恥知らずにも自分たちの不正を、脅しに使っているのです」
淡々とした表情は崩さないまま、鋭い言葉で鏡は南野の罪を告げた。それを受けて、涌井の顔が歪んだ。
「あなた方が今日の話を記憶から消していただけるのでしたら、私から先生にお話しして、武史さんが学内で不適切な行動を取ることをすぐにやめさせます」
涌井の決断は早かった。鏡にいろいろ動かれては、健三の政治生命に関わると判断したのだろう。
「我々は武史さんから被害者男性への謝罪を要求します。加えて今回は学内で公式に彼を処罰しますが、それでもよろしいですね」
鏡は健三のスキャンダルと、武史の学内処分をバーターにした。
涌井はすぐに同意した。
「それでは、我々は帰ります。くれぐれも約束は破らないようにお願いします」
鏡はこれ以上この場の空気を吸っていたくないと言いたげに、毬恵を促して退出した。
厳しい表情を崩さない鏡に、S女学院の校門を出たところで、毬恵は思い切って訊いてみた。
「これでうまく治まるでしょうか?」
「難しいところでしょうね。これで引くような相手なら、南野はもうとっくに明峰大にはいないでしょうから」
「でも、涌井さんは約束してくれました」
難しい顔をする鏡に、毬恵はこれで終わったと信じたくて、涌井の約束を持ち出した。
「彼にとって大切なのは、南野大臣の立場を守ることです。あの場では、約束することが最善なのでそうしただけです。しかし、南野親子にこの話をすれば、最善の条件が変わるかもしれない」
「どういう意味ですか?」
既に自分が理解しうるキャパシティを、超えた話になっていると毬恵は思ったが、それでも諦めずに訊いてみた。
「南野健三は将来的に、今迄築いた政治基盤を、武史に譲ろうと考えているのでしょう。だから、彼の経歴に傷がつくことは必至で庇っている。だけど彼の暴挙は健三自身の政治生命を脅かしかねないところに来ている。だから涌井は取引に応じた」
鏡は今毬恵が理解しうる範囲の仮説を話した。
毬恵はそこまでは分かると、大きく二度頷いた。
「しかし、我々は健三のスキャンダルを握ったままだ。証拠のリストだって持っている。そして、将来武史を代議士に立てたとき、このまま学内処分をされてしまっては、いつでも彼を破滅させる爆弾を握られることになる」
毬恵は切れ長の目を大きく見開いたまま、そんな馬鹿なと言いたいのに声が出ないので、ただ口をパクパクとさせた。
「彼らは闇の力の手を借りるかも知れない。今後私だけじゃなく、浜野さんも身辺にはしっかり気をつけてください」
ここに来て毬恵は初めて、一志が自分を関わらせないようにした理由に気づいた。
そして、危険が分かっていながら、自分を指名した鏡の真意が分からなく成ってきた。
生命の危機があると聞かされて、毬恵の心の中は本能が差し込む不安の雲で覆われた。
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