第7話 異世界の住人
明峰大の学食は大きな窓から見える花壇が自慢だ。初夏にはアジサイの花が一面に咲き誇り、憂鬱な雨がやんだ後で、花びらがこぼれるしずくが、なんとも言えない優美な世界を感じさせる。
今はアジサイに変わって椿の赤と白の花が咲き乱れている。椿は愛にまつわる話が多く、毬恵にはそれが男ではなく女の情念を表す気がして、自分の奥底に眠っている狂気を引き出されそうな恐怖を覚える。
きっと中学生のときに読んだ、アレクサンドル・デュマの小説『椿姫』のイメージが強いのだろう。
女は愛のためなら、自分の身を焦がすことも厭わない。そんなに愛する人に出会うことは、今の毬恵には恐ろしくもあった。
毬恵は一志と優と三人で、低めのパーテーションで仕切られたゾーンの四人席に陣取った。ここなら周りに気を使わずに話せるし、長居をしても目立たない。何よりも窓の外の椿を見て、恋の辛さを思って悩まされることはない。
「最近の食堂のカレー少し味が変わったようだね」
前までは同級生同士で食事しても、自分から話題を振ることがなかった優が、積極的に話題を振ってくる。
悩みを話してから優が少し明るくなった感じがする。まだ問題は何も解決してないけれど、自分の苦しみを他の人が知ってくれたという事実は、明日を迎える上で活力になるのだろう。
「少し辛くなった感じ」
「そうそう、前は辛いけどちょっと甘さが残る複雑な味だったけど、今は辛さだけが舌に残る」
「まったく優と毬恵はカレーが好きだなぁ」
深刻な問題を抱えているにも関わらず、のんきにカレーを食べてる二人を、一志は呆れたように見ている。
「一志だって蕎麦ばかり食べてるじゃない。なんか年寄り臭いよ」
毬恵はこの他愛もない会話ができる雰囲気が好きだった。できることなら卒業するまでずっと、この関係を保っていたい。だからこそ、仲間を傷つける相手は絶対に許さない。
「ところで、優の悩みの件なんだけど」
一志が本題を切り出した。今日昼食を一緒に取ろうと言い出したのは、一志だった。
「みんなに迷惑をかけてすまないと思っている。でも、解決しなくても大丈夫だ。論文なんて新しく考えればいい話だし、何より仲間の存在が今は凄く心強く感じる」
優は本当に強くなった。こんな風に変われた原因が、自分たちの応援する気持ちだとすると、なぜ早く優の悩みに気づかなかったのか悔やまれる。
朱音が指摘しなかったら、まだ話せてなかったかもしれないし、もしかしたら優の気持ちが折れてしまって、大事な仲間を失ったかもしれない。
「解決できないわけじゃないと思うんだけど、覚悟しなきゃならないことはある」
一志は先ほどまでの優しい目ではなく、少し厳しい目に変わっている。
「南野の行動を調べてみたが、かなり危険な男だ。高校生のときから、六本木のハングレ集団との付き合いがあり、架空コンサートのチケットや違法ドラッグの販売、気に入らない人間への暴力行為や器物破壊、下級生を学内でレイプするなど、彼の犯罪行為はたくさんの人間から証言が上がっている」
毬恵は思わず息を飲んだ。
それはもう犯罪ではないか。そんな人間が何食わぬ顔をして、同じキャンパスを闊歩している事実に衝撃を受ける。
「そこまでやって、罰せられないなんてどうかしている」
毬恵は怒りで吐き捨てるような口調になった。
「ああ、確かにどうかしてる。何とかしようとする者が、いないわけじゃなかった。何人かの義憤にかられた生徒が、教師に相談した」
「どうして退学に成らなかったの? それ以前に逮捕されてもおかしくないじゃない」
大学でも教育学部の学生にレイプ事件を起こしながら、示談に収めてのうのうと学生を続けている。でも、違法販売や暴力行為は親告罪ではない。
「今回の国木准教授と同じように、学校に訴えてももみ消されたからだ」
「……」
「しかも訴えた者全員が、数日中に暴漢に襲われてるんだ。中には三カ月も入院した者もいる」
「まさか教師が南野に誰が訴えたか教えたの?」
「関与していることは間違いないだろう」
「警察に言うべきじゃないの?」
「警察には届けたさ。でも犯行時刻に南野には、完璧なアリバイがあったらしい。それに、どうもそれ以降の調査が進んでないようなんだ」
「おかしいじゃない。南野が仲間に命じたに決まっている」
「仲間って誰だ。それが特定できない以上、事件との関係は証明できない」
「そんな……」
理不尽さが身体を貫く。
これまでの生活の中にはない、異常な世界が存在している感じだ。
「もういいよ、僕のことでこれ以上みんなに迷惑はかけられない。それに僕はもう大丈夫だ」
一番辛いはずの優が、気丈に言い放つ。
「何も南野を罰することをやめるとは言ってない。どんなに危険でも屈してはいけないことはあるんだ。ただ、言いたかったことは……」
一志は言葉をとめて、毬恵をじっと見つめた。
「私のことを心配してるの?」
「そうだ。毬恵は女性だ。怪我する以上に傷を負うこともある」
毬恵は躰を汚される感覚で、おぞましさが身体を覆い、一時言葉を失ったが、それでも気を取り直して一志を見つめた。
「心配してくれるのはありがたいと思うわ。でもここで引いちゃったら、私自身が困難に遭ったときに、立ち向かうことができなくなる」
一志は目を閉じて、しばらく無言になった。
毬恵も黙って、一志の言葉を待った。
自分自身、いい放った言葉に迷いが残っている。
「分かった。でも気をつけてくれ。もし毬恵が酷い目に遭ったら、僕は自分が犯罪者に成るのを抑える自信がない」
一志は蒼白な顔で、異様な雰囲気を醸している。
こんな表情は出会って初めて見た。
毬恵は少しだけ一志が怖いと思った。
「ありがとう。でも一志と優も気を付けてね。二人が入院することになったら、私だって辛いから」
三人は食事を済ませて、食堂を後にした。
エレベーターホールで、上に登るエレベーターを待っていると、背後から聞き慣れない声がした。
「優ちゃんじゃないか。論文が書けなくて毬恵ちゃんと一志に慰めてもらってるのか」
振り向くと南野が立っていた。
下卑た笑顔に吐き気を覚える。傍にいるだけで悪臭がしてきそうだ。
「返事がないな。お前にあらぬ疑いをかけられた同級生に、もっと謝罪の気持ちを表せよ」
黙ったまま何も言わない優に、傍若無人な言葉を投げかけてくる。
「あなた、何を言いたい放題言ってるの」
怒りが抑えきれずに、毬恵は言い返した。
毬恵の怒った顔を見て、南野の下卑た笑いに好色が加わる。
「同級生の姫様は何か勘違いをしてる。俺は優ちゃんの面倒を一生懸命見てるだけだ。そうだ。一度二人で飲みに行こう。俺がゆっくりとどんなに面倒見がいいか教えてやるよ。だからそのときはその可愛い声をたっぷり聞かせてくれ」
全身を舐めまわすように見る南野に、毬恵は気持ち悪さで吐きそうになった。
気を取り直して、言い返そうとしたとき、一志が割って入った。
「いい加減にしろよ。それ以上毬恵に絡んだら、生きているのが嫌になるよ」
静かだが凄味のある声だった。一志の心に悪魔が宿った感じがした。
南野の顔から薄ら笑いが消えた。
言い返そうとしても口がうまく動かないように見えた。
南野は一志を睨むのを止めて、チッと舌打ちして食堂に消えて行った。
毬恵は力が抜けてその場にへたり込みそうになるのを、必死に堪えた。
隣の優も同じような感じだった。
一志はいつもの優しい表情に戻っていた。
「お願いだから毬恵、あまり意地を張らないでくれよ。あいつは普通じゃない。毬恵がいつもいるのとは違う世界の住人なんだ」
ごめんなさいと謝りながら、毬恵の心にふと疑問が生まれた――それじゃあ一志はどうなの? 私たちと同じ世界にいないの――と。
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