第3話 優の悩み
由香から依頼を受けて三日後、毬恵は優のための飲み会を、新宿東口の個室居酒屋で開催した。
最初は大学のある武蔵境を考えていたが、優が大学の近くは絶対に嫌だと言うので、わざわざ新宿まで足を延ばすことにした。
幹事である毬恵は当然のように真っ先に来店した。
次に現れたのは朱音で、男女交互に座ろうと提案し、相向かいの席に座った。
三番目に現れたのは一志で、当然のように毬恵の隣の席に座ったが、朱音の顔に軽い失望の色が表れたのを、毬恵は見逃さなかった。
最後に優が現れた。
いつもはこの同級生三人の飲み会を、楽しみにして来る優だが、今日はどことなく元気がないように見える。
「今日の特別ゲストの朱音さんから、この会の乾杯をお願いします」
毬恵が卒なく朱音を立てると、恐縮しながらも元気よく「乾杯」とビールジョッキをあげた。
会は朱音が会話を主導した。
情報通らしく、大学内の話題は豊富だ。
ゼミの准教授の国木は、お嬢さんが名門高校に今年入学したらしい。国木と飲むと必ず自慢げにその話題ばかりだと、朱音は笑った。
「ところで、亀淵君は何か悩みがあるんじゃないかな」
場が温まったところで、朱音がいきなり直球を投げてきた。
ど真ん中に投げて来たので、毬恵は思わず動揺してフォローしようか迷ったが、隣の一志が平然としているので口を紡いだ。
「いえ、特には……」
優は浮かない顔で歯切れが悪い。
「ホント? 最近の亀淵君を見ていて、何か調子が悪そうだなと思って――話せば楽になるかもしれないよ」
朱音は持ち前の面倒見の良さから、真剣に聞いている。毬恵は自分も優の悩みに真剣に向き合おうと思いなおして、黙って優の言葉を待った。
それを見計らったかのように一志が口を開いた。
「僕たちはいつも仲間のことを気にかけているよ。だから隠さずに話して欲しいな」
一志の声音は静かで優しくて引き込まれそうな響きだった。その優しい雰囲気に、毬恵迄引き込まれて思わず泣きそうになった。
「今年の夏にゼミ研究で南野君と組んでから、何もかも狂い始めたんだ」
優は下を向きながら低い声で話し始めた。
「最初は自己主張の激しい人だなぐらいに思ってたんだ。それが国木准教授の指示で、かれのレポートを手伝ってたら、いつの間にか僕の論文テーマを横取りされて……」
そう言えば、優の卒論テーマは、夏に一回変わった。一年生のときから情熱を持って取り組んでただけに、意外な気がしたのを覚えている。
「その上、今まで集めていた資料やデータを全部盗られたんだ」
「国木にはそのことを伝えたのかい?」
酷い話だが、一志は取り乱すことなく冷静に、指導教官への釈明を確認した。
「伝えたさ……。でも全然信じてくれない。それどころか南野君と一緒に、僕が盗用しようとしてると疑うんだ」
「そんな、酷い話じゃない」
朱音が激高している。
「でも、どうして南野君はそんなことするのかしら」
毬恵は南野の行為が不自然な気がして、思わず呟いた。
「人間は意味もなく人を傷つける。そこには他人が聞いて納得できる理由はない。法と倫理から解放された者は、本能のままに行動するから」
一志が整然と言い放った言葉に、毬恵は圧倒されて何も言えなかった。
朱音と優もただ一志の端正な顔を見るだけだった。
「だから僕は信じるよ。南野さんが理由もなく君を陥れたことを」
「でも国木准教授はおかしいわ。なぜ優のことを信じないの?」
毬恵は指導教官にあるまじき行動を指摘した。
「そう、国木准教授は本当のことがばれたら、職を失いかねない危険を冒している。誤解してるとしても、ちゃんと調べないのはおかしい。そうしないところを見ると、南野君が暴挙に出た背景になってるのかもしれない」
「どういう意味?」
「何らかの理由で、国木准教授は南野君の行動を容認せざる事情を持っている。だから南野君の本能を縛る法と倫理が消滅した」
「そんな……」
言葉が続かない毬恵だけでなく、優と朱音も一志の推測に何も言えずに、ただ顔を歪めた。
「僕らは法と倫理のしっかりした世界が、当たり前だと思って生きている。だから時折それを超えた思考を持った相手を、ただ理不尽だと思うだけで無力になりがちだ」
「どうすればいいの?」
毬恵はやがて自分にも、そんな理不尽が来るような気がして、一志に縋るように訊いた。
「大丈夫だよ、毬恵に手を出す者は、僕が許さないから。優、君はここで闘う決意をしなければならない。もし君が闘いたいと願うなら、僕は君をサポートするよ」
一志は優に戦いを促したが、その言葉には怒りや気負いはなかった。優は目を泳がせながら、しばらく沈黙したが、
「闘うよ。このままじゃあ、ゼミにいられなくなる」
と、何かを振り切ったような表情で答えた。
「よし、では優は明日は学校を休め。君には休息が必要だ。毬恵、明日学校で一時間ほど時間を作ってくれ」
「分かったわ」
「ねぇ、ところで何をするつもりなの?」
朱音がもどかしそうに聞いてきた。
「南野に天誅を加えるのさ」
なぜか最後の一志の言葉には悪魔的な響きを感じた。
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