第二章 新しい仲間

第1話 季節外れの復学者


 ああ、いつもながらなんて気持ちいいの――浜野毬恵まりえは二フロア分の高さがある事務棟のエントランスが大好きだった。ゆったりとした広い空間に、高さ八メートルの大きな窓から、柔らかい光が差し込まれる。


 最近は受験生に大学の施設を公開し、その大学に興味のある学生や家族が、大学のことを知ることができるオープンキャンパスというイベントがある。


 三年前に毬恵が東京明峰大学を志望した理由は、パンフレットで見たときに、十二階建ての事務棟のエントランスが気に入り、オープンキャンパスで実際に足を踏み入れて、その気持ちが代え難いものになったからだ。


 いつもは大学に来ると、このエントランスの来客用ベンチに腰を下ろして、エントランスの雰囲気を満喫するのだが、今日はいつもより早い時間に、マリエが所属するゼミの会合があるので、残念ながら時間がない。


 事務棟を抜けると校舎に囲まれた中庭が広がる。

 夏に成るとここで、夏フェスと呼ばれる学生による、ライブパフォーマンスが開かれる。


 今年の夏も良かったが、毬恵が受験勉強の励みにと、高三のときに見た夏フェスのステージは、既にこの大学の伝説に成ろうとしている。そのときに出演したバンドのメンバーの中には、卒業してすぐにメジャーデビューした人もいる。


 毬恵は、その年のラストステージを飾ったバンドに、心を揺さぶられた。特にギタリストのセクシーな音色に、恋に近い感情を感じたことは、今でもしっかり記憶に残っている。


 中庭を抜けると、法学部のある三号校舎だ。

 その建物は事務棟と違ってかなり古いが、それはそれで伝統を感じられて、毬恵は嫌いではない。


 エレベーターホールの前には、数人の学生がエレベーターを待っていた。その中には同じゼミの学生である、岬一志かずしもいた。


「岬君、おはよう!」


 今日は素通りだったが、それでも素敵な朝日をプレゼントされたので、気持ちが軽い。

 毬恵の爽やかな笑顔を見て、少し目を伏せ気味に、一志も「おはよう」と答えた。


 一志が自分に好意を持っていると、毬恵は同級生の女子から聞いたことがあった。その子も同級生の男子から聞いた話なので、またまた聞きなのだが、一志の顔を見ると、その時の言葉を思い出してしまう。


 一志は長い睫毛に細面の顔で、所謂優男と分類される顔だ。印象通りの優しくて、物静かな性格で、法律家を目指してまじめに学業をしている。


 ただ、身長は一七三センチと長身とは言えず、一六八センチと女性にしては長身の毬恵がヒールを履くと、僅かに一志の背を追い抜いてしまう。


 毬恵は自分の背の高さが好きではなかった。胸も隆起に乏しく、高校生のときはキリンなどと、不名誉な仇名で男子から呼ばれていたことを知っている。

 だから自分のコンプレックスを意識しなくて済む、長身の男性と付き合いたいと思っていた。


 エレベータから降りると真っ直ぐにセミ室に向かう。

 セミ室はこの建物の角部屋に有り、大きな窓で二方を覆われた解放感のある素敵な部屋だ。

 南側の窓際の一角には、コラボレーションエリアと呼ばれる、学生がリフレッシュしたり、ちょっとした情報交換をするための場所が設けられている。


 毬恵が窓際に目を向けると、指導教授の井坂とゼミ長の三枝梨都りつと、

三人でコーヒーを飲む見知らぬ男の姿が視界に入った。


 その男は背が高そうなところ以外は、一志によく似た優しそうな風貌だ。気の弱そうなところもよく似ている。

 そんな外見よりも、その男を見る梨都の目が気に成る。

 女の目に成ってると梨都は感じた。尊敬するゼミ長で、まるでこのゼミの女王のような梨都が、こんな目をして男を見るのだと、毬恵は初めて知った。


「ねぇ、あの人知ってる」

 毬恵は横にいる一志に、見知らぬ男について尋ねた。


「あまり、よく知らないけど、ゼミ長の同級生らしい。去年の十二月から一年間休学して、今月復学したんだって。ゼミは二年のときから井坂ゼミらしいよ」

「そうなんだ。留学でもしてたのかしら」


 留学にしては、十二月からというのは時期的に変だ。毬恵は違和感を感じながら、話を続けた。


「じゃあ、学年は?」

「僕たちと同じ三年生だって」

「そうか、同じ学年なんだ」


 毬恵がもう一度、その男の方を見ると、井坂教授の話してる顔が楽しそうだ。実はお気に入りの学生なのかもしれない。


 定刻になるとすぐにゼミ会は始まった。

 会の冒頭で、井坂教授から見知らぬ男の紹介があった。


「知ってる人もいると思うが、今日から我がゼミに復帰した佐伯慎哉君だ。佐伯君は二年生のときに司法試験の予備試験に合格し、三年生のときには本試験も合格して、その年に司法研修生に成り、今では第一東京弁護士会に所属する現役の弁護士だよ」


 現役の弁護士――毬恵の頭の中をその言葉が駆け回る。


「しかも事務所も決まっていて、私の父の事務所と契約済みなの。まあ、学生時代は特に担当を持たないから、名前だけだけどね」

 梨都が誇らしげに付け加えた。


 そんなハイスペックなら、ゼミ長が女の目になるのも分かる気がする。

 毬恵はつくづく人は見かけによらないと思った。

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