第30話 小説家のクリスと出版エージェントのアイヴィー
20時12分
今や、このサルーンでは、酔っ払っていない人を見つけるほうが難しかった。
ぼくは、人がアルコールを求めるのは、大胆になるためだと思っていた。
こうしてぼく以上に酔っ払っている人達を見ると、その考えも変わってくる。
酔っ払って上機嫌になっている人は、とても話しやすかった。
ぼくは、この短い時間ですでに新しい友人を十人も作っていた。
映像作家が三人、画家が二人、脚本家が二人、小説家が二人、詩人が一人。
映像作家の一人は、ヘルシンキのテレビ局に務めているらしく、冬に放送される新作テレビドラマについてのネタバレをしてくれた。
もちろんフィンランド語で放送されるので、フィンランド語がわからないぼくが楽しむにはチャーミングな女優たちや演出について注目する以外に無いわけだけれど、フィンランド語や、映像のあれこれについて深く理解をしているペトリには違うようだった。
ペトリは、映像作家の彼に自己紹介をした。
映像作家の彼はペトリを知っていて、そこから二人の会話は盛り上がっていき、映像作家の彼は友人を呼んだ。
ペトリは、映像作家の彼やその友人たちとの会話を楽しむべく、ウォッカの瓶とヘスバーガーのセットを手に、彼と屋上の縁に歩いていった。
今となっては、ぼくもペトリのお守りが必要ない程度には場の空気に打ち解け、酔っ払っていた。
時折、ナタリアがやってきては、テーブルや椅子を持ち込んで、場を快適にしていた。
今では、屋上の一角にスクリーンが張られ、映像作家たちや女優や俳優の作品の鑑賞会を始めたり、その対角線上にあるもう一方の一角ではレコードプレーヤーがレトロな音楽を流し、その周辺でダンスが始まったりしていた。
焚き火の周りではビールの回し飲みをして話をする人たちや楽器の演奏をする人たち。
屋上の様子を、一歩引いたところで撮影したり写生したりしているのは映像作家やカメラマン、画家やイラストレーター、YouTuberだ。
パーティの参加者は、愛美やウルシュラ、ペトリたちによって呼ばれた芸術家や表現者たちばかり。
それだからか、みんな各々のやり方でこの時間を楽しんでいるようだった。
芸術家は個性が強く、我が強いと思っていたので、てっきり協調性もなにもないと思っていたのだけれど、みんな気の合う者と一緒に話をしたり、一人で静かに過ごしたりしていた。
ぼくは、ドリンクを求めて、屋上の隅のテーブルへ向かった。
そこには、大量のドリンクやお酒、軽食が置かれている。
ぼくは、コーヒーを入れ、ハンバーガーのパンを持ち、そこにパティを三枚と、スライストマト、オニオンとピクルスとレタスをたっぷりと載せ、パンを載せて蓋をした。
食材の減るペースが遅くなっている。
みんな、お腹が膨れてきたのかも知れない。
ぼくは、ハンバーガーをかじり、皿に載せた。
フレンチフライとナゲットも皿に載せ、ぼくは、三十六あるテーブルの中の一つに向かった。
四つの椅子のうち、埋まっているのは一つだった。
「座って良いですか?」
テーブルに着いている男性は、ぼくを見て、コクリとうなずいた。
彼は、ノートに向かってなにかを書き込んでいた。
小麦色の肌に、堀の深い顔立ち、チョコレートブラウンの髪と髭は、短く揃えられている。
ヴィンテージ風のジャケットを着ていた。
「なに書いてるんですか?」
男性は、ぼくを見た。「小説だよ。こういう場所は好きなんだ。想像力が刺激される」
ぼくはうなずいた。「一志です」
男性はニッコリと微笑んだ。「クリスだ。一人かい?」
「いえ、このパーティの主催者側です。休憩中で」
「そうか。この度は、このような場所を提供してくれて感謝するよ。ちょうどタリンにいたんだが、アイミからご招待を頂いてね。恋人とのデート中だったもんで、ヘルシンキに足を運ぶ良い口実が出来た」
「良かったです。タリンっていうと、エストニアですね」
「美しい街だ」クリスさんはうなずいた。「訪れたことは?」
ぼくは首を横に振った。「バルト三国はリトアニアのヴィリニュスだけなんです」
「そうか。ヘルシンキにいるのか?」
「ええ。夏休みの終わりまで」
クリスさんはうなずいた。「是非とも訪れてくれ」
その時、テーブルに背の高い女性がやってきた。
ほっそりとしたスタイル。
黒のパンツスーツが様になっていた。
灰色の瞳に、ゴールデンハニーブラウンの輪が二つかかっている。
ブロンドの髪をセミロングにまとめていた。
雰囲気が、どことなくヴィーラに似ているのは、灰色の瞳故か、堀の深い小さな顔故か。
その目の下にクマがあるのも、ヴィーラと似通った雰囲気の要員の一つかもしれない。
彼女が右手に持つ皿には、ハンバーガーが二つ載っていた。
どちらも、肉たっぷり、ベーコンたっぷり、チーズたっぷり、野菜たっぷり。
左手のトレイには、フルーツと野菜の入ったボウルと、コーヒーの入ったカップが二つ載っていた。
「あぁ、アイヴィー」クリスさんは立ち上がると、女性の手からお皿とトレイを預かった。「ありがとう。こちらはヒトシ。此度のパーティを開いてくれた方々の一人だ。ヒトシ、こちらはアイヴィー。ぼくのフィアンセだ」
アイヴィーさんは、ニッコリと微笑んだ。「よろしく」彼女は、右手を差し出してきた。
ぼくはその右手を握り返した。「はじめまして」
「あなたも、なにかを書くの?」アイヴィーさんは椅子に腰を下ろした。
「いえ、ぼくは翻訳だけです」
「そう。わたしはクリスの出版エージェントをやってるの。アイミからいくつか作品を紹介されたわ。アマチュアだらけのネット作家たちの中にも、才能ある人達がたくさんいるってこと知れて良かった。契約する作家は多いほうが良い」
「翻訳とかもするんですか?」
「場合によってはね。でも、あなたたちほど幅広くやってはいない」
「翻訳のコツってあります? ぼくまだ大体の翻訳しか任せてもらえてなくて、最終チェックはアイミがやってるんです」
「アイミは器用だからね。あなた、翻訳はどれくらいやってるの?」
「半月くらいです」
「最低でも半年はやらないと」
「そうなんですね」ぼくはコーヒーを啜った。「アイヴィーさんは、今のお仕事はどれくらいやられているんですか?」
「十一年。わたしらが十八の頃からだから、それくらいね」
「同級生なんだ」
「学園のね」
また学園の関係者だった。
「きみは学園の生徒じゃなさそうだね」クリスさんは言った。
「どうしてそう思うんですか?」
クリスさんは咳払いをして、口を開いた。「きみの英語に日本語訛りがあるからだよ」クリスさんは、流暢な日本語で言った。
「来年から転校しようかなって思ってます」
「そうか。それなら、英語の勉強をもっと頑張らないとね」
「学園の授業は英語で行われるの」アイヴィーさんは日本語で言った。
「色んな国から生徒が集まるんですよね」ぼくは、事前の知識を元に言った。
「提携している国と地域の間で、生徒たちを交換留学させてるの。わたしも若い頃は、まあ、今も若いけど」
クリスさんは小さく笑った。「ぼくたちもう29だぞ」クリスさんは英語で言った。
アイヴィーさんはクリスさんの脇を肘で突いた。「学生の頃は色んな所に行ったわね」アイヴィーさんも英語に戻った。
「日本にも行ったし、オーストラリアとか、中東とか、中南米、カナダや、スウェーデンやノルウェー、フィンランド、ウクライナにも行ったな」
ノルウェーといえば、留学でオスロに行った久志は今、なにをやっているんだろう。
SNSのチェックもしたけれど、更新はされていなかった。
「ぼくたちはフランス出身なんだ。ぼくはイギリス人なんだけど、小さい頃からフランスに住んでた」
「わたしたちはそこで知り合ったのよね」
「学生の頃は、見向きもしなかったろ」
「そうでもないわ。なんだかんだで一緒にいたじゃない?」
「まあね、でも、学生の頃はどうやってきみに話しかけようかって、そればかり考えてた。話しかけた後はどうやって会話を続けようかとか」
アイヴィーさんは鼻を鳴らした。「わたしのオタク、バカで可愛いでしょ」
ぼくはなにも言わず、曖昧に笑っておいた。「いや、でもわかります。会話が途絶えたら怖いですよね」
「要するに、当時はわたしを知りたかったわけじゃなくて、ただヤリたいだけだったんじゃない?」
「そりゃ、小さい頃から知ってたし」クリスさんはビールを啜った。「そういえば、十五の頃から三年間連絡がつかなかったのはなんで?」
「三人で旅行してたの」
「そっか。いつか本当のところを教えてくれよ」
「本当だっての」アイヴィーさんはビールを啜り、グラスを空にすると、タバコを取り出した。火をつけて煙を吐くと、彼女は立ち上がった。「お替り取ってくる。ヒトシも飲む? 飲むわよね。飲みそうな顔してる」
ぼくは笑った。「もらいます」
アイヴィーさんは微笑むと、屋上の隅にあるテーブルへ、ドリンクを取りに行った。
17歳のインターンシップ Arkwright @Arkwright
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