第28話 ルーフトップガーデン

6月18日 10時12分



 この日は、オフィスの内装を変えることから始まった。

 ソファを壁際に寄せ、空気で膨らませるソファを物置から引きずり出し、それに空気を吹き込む。

 折りたたみのテーブルを取り出し、それらを壁際に並べる。

 あまり使っていないテラスは、掃除をして、テーブルと椅子を拭くだけだ。

 フィンランドは空気が美味しいし、晴れた日は暖かい。

 これからはここで作業をしても良いかも知れない。

 そう思いながら、テラスからヘルシンキの街を眺める。

 ここは六階で、建物の最上階だった。

 向かいや通りの左側も同じ高さだったが、右側は下り坂になっているので、遠くまで伸びる景色を望むことが出来た。

 街中を走るトラムが、駅の方に進んでいく。

 ふと、通りを見下ろしてみれば、違和感を抱いた。

 歩道を歩く人々は、足取りを止めることなく右へ左へと向かうが、その中に一人だけ、動きがかくかくしている人がいた。

 ロボットダンスの練習をしているのかとも思ったが、そうでもなさそうだ。

 むしろ、バグによって動作不良を起こしたロボットのように見える。

 黒のパーカに、黒のブーツ、濃紺のデニムという格好だった。

 その男性は、こちらを一瞥して、通りの向こうへ歩いていった。

 そう、彼は、間違いなく、こちらを見たのだった。

「どうした?」

 ぼくは、ペトリを振り返った。「いや、なんでもない。男性がこっちを見上げてたんだ」

「どいつ?」

 ぼくは男性を指差した。

 ペトリは、目を細めて男性の背中を見た。「知らないな。たぶん、ここに住めたら良いなって思ったんだろ。立地も良いし」

 ぼくはうなずいた。その時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、ヴィーラと酔っ払った帰りに、アパートの下にいた人影だった。

 そのことをペトリに話すと、彼は顔をしかめた。「ヘルシンキにも変なヤツはいるからなー……。一人のときは、大通り以外あんまり歩くなよ」

 ぼくはうなずいた。



13時12分



 ぼく、愛美、ヴィーラ、ナタリア、ペトリ、そして、ナタリーちゃんは、キッチンに立ち、料理をした。

 立って飲み食いをするカジュアルなパーティなので、用意するものは、気軽に飲み食い出来る軽食に限られた。

 ペトリが言うには、こういったパーティで出す料理としてふさわしいものは、和食なら寿司、イタリアンならパニーニやピザやサラミ、フレンチなら生牡蠣やキッシュやソシソン・セック、スカンジナヴィア料理ならオープンサンドやヘスバーガーといったところらしい。

 愛美は寿司を握り続け、ぼくは手巻き寿司の材料を作った。

 ナタリアとヴィーラはパニーニやピザを焼いたり、白身魚をソテーにしたり、スープの仕込みをしたりしている。

 ヴィーラは、ヴィリニュスで振る舞ってくれたピンク色のスープをかき混ぜていた。

 ペトリはライ麦パンを焼いたり揚げたりし、そこにニシンの酢漬けや、シュールストレミング、サルミアッキを載せて味見したりしていた。彼は、オープンサンドはタパスに似ていると言っていたけれど、ぼくにはどっちがどっちでどう違うのかさっぱりだった。

 ナタリーちゃんは、ナタリアとヴィーラのそばで、お皿の盛りつけや、食材を切り分けたりといったことをしていた。

 ちなみに、料理スキルがないウルシュラは、タイ料理やインド料理のデリバリーを注文することで一仕事を終えた。

 彼女は、ソファの上でぐで〜っとしていた。

 初対面の人と話さない主義のウルシュラは、初対面の人と話すために記憶のアップデートをする必要がある。

 つまり、初対面の挨拶をしたあとで一眠りする必要がある。

 彼女は今、レッドブル断ちをしていて、力が出ないようだ。

 初対面の挨拶をしたあとで仮眠を取ってからパーティに参加するらしい。

 招待客たちが来るのは十八時からだった。

 ソファの上でぐで~っとなっているエンジニアが招待した人数は千人にも登るらしい。

 見せてもらった招待状には、飲み放題食べ放題の記載もあった。

 つまり、数時間後には千人近い空腹の芸術家の群れがこの部屋に押し寄せて来るというわけだ。

 愛美は新たなる出会いの数々に思いを馳せてバカみたいに心を躍らせていたけれど、来客が多ければ多いほど用意しなくてはいけない料理の量もバカにならないわけで、つまり一番馬鹿なのは料理のスキルもないのに千人近くのアーティストに招待状を送ったレッドブル中毒者だろう。

 そんなことを思いながら、ぼくはソファの上で虚脱状態になっているウルシュラの胸をちら見した。

 ちょいちょい、と、肩を突かれたのはその時のことだった。

 ヴィーラだった。

 彼女は、シンクの上にある棚に手を伸ばしていた。彼女の控えめでささやかな胸がTシャツの生地を張り詰めさせていた。「届かないわ。手伝ってくれる?」

「良いよ。なにを手伝おうか」というのも、ヴィーラはぼくよりも六cmも背が高かった。シークレットブーツでも持ってこいということだろうか。

「脚立を取って」

「わかった」

 ぼくは、すぐ傍にあった脚立を取って、ヴィーラの足元にひざまずき、そこにセットした。

「ありがとう」ヴィーラは脚立に乗って、棚からツナ缶を取り出した。

 ぼくは、脚立を畳んで元にあった場所に戻した。

 サーモンの身の塊を切り分けた。

 イクラがあれば良かったのだけれど、それはすでに摘出されたあとだった。

 摘出の手間を省いて貰う代わりにイクラをタダでくれれば良いのに。

 イクラは高かったので、今回は買うのをやめておいた。

「ほとんどのお客さんは、みんなお腹を空かせてる」愛美は言った。「創作で食べていくっていうのは厳しいからね」

「じゃあたくさん作ってやらないとな」ペトリは、オープンサンドの乗ったトレイを冷蔵庫に入れた。「今んところ、確定してるのは何人だ?」

 ウルシュラはPixelを見た。「三百七十二人」

「四百人か」愛美はオフィスを見渡した。

 ここは教室二つ分ほどの広さだが、確実にスペースが足りない。

 ペトリは冷蔵庫を見た。「間に合わないな」ペトリは、愛美を見た。

 愛美はうなずいた。「サンドウィッチやハンバーガー、大量のパスタのそばに小皿を添えよう。料理係が一人欲しいな」

「わたしがやるわ」ナタリアは言った。「ウルシュラは、適宜デリバリーを取って」ナタリアは愛美を見た。

 愛美はうなずいた。「予算は千二百ユーロで」

 ナタリアは、愛美を見て、天井を指差した。

 愛美はうなずいた。「一志、ペトリ、ウルシュラ。家具を屋上に運んでくれるかな。会場は屋上にする」愛美は、鍵をペトリに投げた。「延長コードとランプ、中央に焚き火のスペースがあるから薪の準備もよろしく。手すりにイルミネーションのロープライトもくくりつけておいて」

「芸術家は情緒不安定だからな」ペトリはニヤリとした。

「飛び降りたら大変」ウルシュラはニタリとした。

 二人はニチャニチャと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。

 


14時12分



 ぼく、ペトリ、ウルシュラは、アパートの屋上にいた。

 屋上は、教室の12倍ほどの広さがあった。

 ここなら、1000人のゲストも余裕で収容出来そうだ。

 底が抜けてお隣さん達のお家に飛び込む羽目にならなければ良いけれど、ゲストのほとんどが巨漢でなければ、その心配も必要ないだろう。

 屋上には鍵がかかっていたが、愛美がその鍵を持っていたことからも察せられるように、ここには人が頻繁に出入りしているようだ。

 それを裏付けるかのように、屋上の中央にはキャンプファイアーでそうするように、薪が積まれていたし、その周囲には椅子やテーブルが置かれていた。

 ぼくは、周囲にクリスマスツリーに巻きつけるようなライトをくくりつけていた。

 ペトリは、屋上のあちらこちらに椅子やデスクを置き、その上にランプを設置している。

 ウルシュラは、延長コードを屋上の隅に張り巡らせていた。「良かった。こうすれば屋上でも仕事が出来る」

「ここからなら良い画が撮れるな」

 ぼくは深呼吸をした。

 良い空気だった。

 日当たりも良い。

「観葉植物を置こう」

「良いアイデアだ」ペトリは指を弾いた。「空気が綺麗になる」

「学園の屋上にはルーフガーデンがある」ウルシュラは言った。「自動販売機とか、カフェとか屋台も」

「それ良いな。グリルも持ってこよう。バーベキューだ」

「あるかな」

「買ってくる」ペトリは屋上を出た。

 三十分後、屋上に戻ってきたペトリの脇には、大量の木材があった。「下にあるから、持ってきてくれ」

 ぼくとウルシュラは、通りまで降り、そこに止まっていたトラックから、大量の木材とダンボールを下ろし、屋上までの往復を繰り返した。

 屋上に戻る度、そこの景色は変わっていた。

 夕方、日が沈む頃。

 そこには、屋根のあるくつろぎ空間が生まれていた。

 ペトリは、撮影以外にも趣味を持っていたようで、その一つがDIYだった。

「これなら雨が降っても平気だろ」ペトリはウルシュラを見た。

 ウルシュラは、小さくうなずいた。「これからはここで作業をするわ。陽の光と新鮮な空気が脳の働きを活発にしてくれる」

「喜んでくれたようで良かった」ペトリは、早速調達したバーベキューグリルで、ソーセージとステーキを焼いていた。彼は、シンプルなデザインの腕時計を見た。「あと一時間ってとこか」ペトリは、テーブルにコーヒーミルを載せ、豆を挽き始めた。

 屋根にはモバイルタイプのソーラーパネル、屋上の隅には家庭用風力発電機もあった。

 いつの間にやら掃き掃除もしたらしく、屋上には木屑や埃の一つも転がっていなかった。

 ペトリは、ただの飲んだくれではなく、仕事の早い飲んだくれだった。

 そういえば……、「ペトリ、きみって、なんで酔っぱらいのスナフキンなんて呼ばれてるの?」

 ペトリは、驚いたように目を丸くし、声を上げて笑った。「月イチで休肝日を作ってるんだ。その時になればぼくの新しい一面を見せてあげられるよ」そう言うと、彼は、皿にステーキを載せ、こちらに差し出してきた。「もうすぐゲストを迎えなくちゃいけない。それまでに腹ごしらえを済ませちゃおう」

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