第26話 ちびナタリア

6月17日 9時12分



 オフィスに出勤してみれば、様子がいつもと違った。

 愛美がトレッドミルの上で走っていたし、ナタリアはスクワットをしていた。

 ウルシュラは椅子の上でカタカタやりながら、テーブルの下で足を上げたり下げたりしている。

 ヴィーラもソファの上で足を上げ下げしていたけれど、ウルシュラと違って、彼女の顔には疲労が見えた。ヴィーラは、ソファのそばに敷いてあるマットの上に横になると、腕立て伏せを始めた。

 ちなみに、みんな、半袖のTシャツに、短パンと言う、非常に動きやすそうで、目にも優しい格好をしていた。

「おはよー」ぼくは言った。

 愛美はトレッドミルの上で全力疾走していたし、ナタリアはスクワットを続けていたし、ウルシュラはゆるい運動を続けていたし、ヴィーラはマットの上でハァハァ息を切らせて伸びていた。

 誰からも返事がなかったので、ぼくは、みんなに混じって運動をすることにした。

 反復横跳びだ。



10時2分



 オフィスには、良い香りが漂っていた。

 シャンプーやコロンの香りだ。

 あの後は最悪だった。

 愛美が、護身術の練習をさせて欲しいと言い出し、ぼくとウルシュラがその相手をすることになった。

 ヴィーラにも申し出をしていたが、彼女は腕立て伏せを三回ほど行ったところで今日の分の体力を使い切ってしまったらしく、お嬢様らしく丁重にお断りをしていた。

 愛美は、しばらくの間はぼくをカーペットに叩きつけることを楽しんでいたが、十分ほどでそれに飽きると、ウルシュラに飛びかかった。

 ぼくは、愛美に惚れた男は苦労するな……、と思いながら、二人の女性の戦いを見ることにした。

 ウルシュラは愛美と良い勝負をしたけれど、PC専門のキャラにしては出来すぎな気がした。

 無表情で愛美の手を叩き、攻撃を早々の段階で無効化する手際は、彼女が将来開発するであろうターミネーターを思わせた。

 予期せぬタイミングで汗をかいたぼくは、再びワンルームに戻ってシャワーを浴び、新しい服に着替える必要に迫られた。

 オフィスに戻ったぼくを待っていたのは、愛美による最高のマッサージだった。

 カーペットに叩きつけられた痛みやしびれだけでなく、体の芯でくすぶっていた疲労感や倦怠感まで揉みほぐされたぼくは、天国はここにあったんだと思いながら、よだれを垂らしそうになっていた。

 今は朝の会議の時間だけれど、夢心地なぼくの耳にはあんまり入ってこない。

 どうやら、今月末にある社員旅行の行き先の希望を出して欲しいとの事だった。

 出た案は、ペトリのストックホルム、ウルシュラのラップランド、愛美のスバールバル、ナタリアのコペンハーゲン、ヴィーラのパリ、そして、ぼくのローマ。

 ぼくたちは、それぞれが希望する場所へ向かうことにした。

 旅行は二十四日から月末までの一週間。

 愛美は、ローマにいる友人のアパートを教えてくれた。

 ぼくは眉をひそめた。「ヴァティカン?」

 愛美はうなずいた。

「あそこは、聖職者だけが住めるんじゃなかったっけ」

「よく知ってるね」愛美は言った。

「ローマは、前から行きたいと思ってたんだ。ヴァティカンも」

「グザヴィエと暮らしたらナンパ男になるな」ペトリの言葉に、ウルシュラは無表情で笑い、愛美は朗らかに笑った。

「グザヴィエ?」なんだかどこかで聞いた名前だと思い、記憶をほじくり返してみれば、ヴィーラが、ナンパナンパとうるさいペトリを嘆いているときに出た名前だった。

「ナンパ神父よ」ナタリアは言った。「主食はタバコとワイン」

 ぼくは笑った。「良いのかよそれ」

「ワインは神の血」ウルシュラは言った。ノイズキャンセリングを信奉する彼女は、このオフィスの誰よりも信心深かった。「パンは神の肉。タバコはタバコ」ウルシュラはほくそ笑んだ。「ふ、ふふ」

 不器用に笑うウルシュラに、ぼくは思わず鼻から吹き出してしまった。

 どこに笑いどころがあったのかわからないけれど、いつも一人で楽しそうにしているウルシュラを見ていると、こちらもなんだか愉快になるのだった。

「グザヴィエのアパートに泊めてもらえば、宿泊費タダだし良いんじゃないかなって」

 ぼくはうなずいた。

「あ、そうだ」ナタリアは言った。「いとこだけど、今日の夕方に来るから、みんなよろしくね」

 ぼくたちは、その言葉にうなずいた。



16時12分



 ナタリアは、いとこを迎えるため空港に行った。

 ぼくたちは、ナタリアのいとこのためにオフィスを飾っていた。

 みんなの手によって、洗練された内装のオフィスが、ピンク色のハートや、カラフルな星々によって、ファンシーに彩られていく。

「こんなこと必要なのかな」ぼくは言った。「ナタリアのいとこだから、こんなのを見てもふーんって反応しかしないんじゃないの?」

「言えてるな」ペトリは言った。「ちびナタリアのすまし顔をどうやって笑わせてやろうか」

 その時、なにかが宙を舞った。

 ぼくの腕の中に吸い寄せられるようにしてやってきたのはテディベアだ。

「それでもちらつかせておけば、大抵の女の子は懐くわ」そう言ったのはウルシュラだった。何故かニヤニヤしていた。その表情は、ウルシュラが何かを企んでいる時に浮かべるものだった。この間なんか、ぼくがオフィスに出勤するなり、ニヤニヤとこちらを見てくるものだから、てっきり無表情キャラに飽きて笑顔の練習でもしているんじゃないかと思ったのだけれど、その実、彼女はぼくが椅子に座ってブーブークッションを鳴らす醜態を晒すのを今か今かと待ち望んでいるだけだった。といっても、ぼくがいつも座る席には、いつもはないクッションが乗っているだけだったから、こりゃおかしいぞと、さすがのぼくも容易に気が付く事が出来たわけで、その後は、ぼくがウルシュラのニヤケ面にクッションを投げつけ、首謀者であるウルシュラは自分が仕掛けたおならを自分の鼻先に食らう羽目になったのだった。

 そんな愉快な思い出に浸っていると、チャイムが鳴った。

 部屋に入ってきたのは、ナタリアと、背丈が彼女の腰の辺りほどまでしか無い、小さな女の子。

 慎重は130cmほどだろうか。

 黒く、波打つセミロングの髪の毛は、セットもされず、無造作に垂らされていた。

 黒いワンピースドレスはスネの下まで覆い隠し、足元は、小さな白いローファー。

 手には小さなレザートランクを持っていた。

 琥珀色の目はナタリアと同じ。

 ナタリアが無表情な一方で、ナタリーちゃんはなんだか少し不機嫌そうだった。

 時差ボケで眠いのかも知れない。

「ナタリーよ」ナタリアは言った。「ほら、みんなにご挨拶は?」

 ナタリーちゃんは、ナタリアを見上げた。

 気のせいかも知れないけれど、なんだかその眼差しは睨みつけるような鋭さだった。

 ナタリーちゃんは、ぼくたちを見た。「ナタリーです。よろしくおねがいします」少し舌足らずな感じで、ナタリーちゃんはそう言った。か細いソプラノの声が可愛い。

 愛美はナタリーちゃんの頭を撫で、ヴィーラはナタリーちゃんのほっぺにキスをして、ウルシュラはニヤニヤしながらナタリーちゃんを高い高いした。

 ペトリはナタリーちゃんにクッキーをあげて、ぼくはナタリーちゃんにテディベアを渡す。

 ナタリーちゃんは、終始むっつりとしていた。

 ぼくと愛美は顔を見合わせた。

 愛美は、ニッコリと微笑んで、ナタリーちゃんと視線を合わせた。「ナタリーちゃん、お腹空いてる?」

 ナタリーちゃんはムスッとしながら、コクリとうなずいた。

「おねえさんもお腹ペコペコなのっ、なに食べよっか」

「……おすし」

「そっかっ、おすし食べよっかっ」

 ナタリーちゃんはコクリとうなずいた。

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