第25話 SNS

6月16日 5時52分



 ぼくは、与えられたワンルームにいた。

 3kgの鉄アレイでシャドーボクシングをして、自重運動をして、本日二回目のシャワーを浴びる。

 ぼくは、ランニングウェアに着替えて早朝の街に繰り出した。

 フィンランドと言えば、雪とサンタくらいしかイメージが沸かなかった。

 そのため、酔っぱらいの頭の中のように年中クリスマスなんじゃないかと思っていたが、いざ早朝の街中を走ってみれば、そんなこともなかった。

 確かに気温は寒かったが、走ればすぐに吹き飛ぶ程度でしかなかった。

 七時になれば、街のあちこちでカフェが開き始める。

 ぼくは、以前から気になっていたカフェまで走った。

 開いていた。

 店内では、可愛いウェイトレスが、パンの入った木のバスケットをガラスのショーケースに入れていた。

 そのウェイトレスに、なんだか見覚えがある気がした。

 店内に入り、彼女の前に立つと、誰だかわかった。

「……クリスティナ?」

 ウェイトレスは、パチパチと瞬きをした。「もいもい」

「もい」ぼくは、フィンランド語で挨拶をした。「一志だよ。ペトリの友達」

「おぉー」クリスティナは目を輝かせてうなずいた。「覚えてるわ。彼の助手ね」

 ぼくはうなずいた。「ここで働いてるの?」

「うん。きみはどうしてここに?」

「ランニングだよ。このお店、前からちょっと気になっててね」

「おすすめはカレリアパイよ」

「もらうよ。コーヒーは、とりあえずブレンドで」

「ペトリの分も?」

「え? あぁ、うん」

 クリスティナは、紙袋にカレリアパイを詰めた。「彼は今、どんな映画を撮ってるの?」

「知らない。彼の助手以外にも、翻訳とか勉強とかあるから時間があるときだけ手伝うんだ」

 クリスティナはうなずいた。「翻訳と、映画への出演を頼むって言われたけど、この間の新作にはヴィーラを選んだみたいだし、早く出番頂戴って言っておいてくれる?」

「わかった」

「十ユーロよ」

 ぼくは、財布から五ユーロ紙幣を二枚取り出した。「高いね。みんなどうやって生きてるんだろ」

「外出するときはお弁当が基本」

 ぼくはうなずいた。サンドウィッチでも作ろうか。「バゲットももらおうかな」

「あーい」



10時2分



 始業の会議は、この日も少し長かった。

「アメリカの殆どの場所では、職務経験の必要な仕事にはまともな給料が出る。一方で、大学を出たばかりの人がそれに就くには、無給のインターンシップに付く必要がある」愛美は言った。「アメリカには、20代が約五千万人いる。25%は失業中、別の25%はパートタイムの仕事しか出来ないでいる。インフレ率を考慮すれば、現在の20代の収入は70年代の20代の収入より低い」

 ぼくは、コーヒーを啜った。「難しい話はわからないし、ぼくは職務経験なんてないけれど、こうして仕事をさせてもらえている。ぼくは幸運ってこと?」

 愛美はうなずいた。「最低賃金の給料しかあげられてないけど、このプロジェクトが成功すれば、新しいスタンダードタイプを示せる」

 ぼくはうなずいた。

「経験がないって言っても、翻訳の経験がないのは、ぼくやヴィーラやウルシュラも同じだ」ペトリは言った。「ぼくたちのこれは、起業と同じだ。クライアントに事欠かないのは、需要のあるところに目をつけたからだ。誰も収益をあげられると思ってないけど、才能はどこにでもある。ネットの海からスタニスワフのような脚本家を見つけ出し、磨いて宝石にする。採掘作業のようなものだな」

 ぼくはうなずいた。

「プロジェクトを始められたのは、学園から10万ユーロの出資金をもらえたからよね」ウルシュラは言った。彼女は、珍しくカタカタしていなかった。セキュリティやサイトの作製が一段落したらしい。彼女は数日前から翻訳に参加していた。「ヴィーラとペトリっていう広告塔と、わたしっていうエンジニアがいたからこそ、良いスタートダッシュを切れた。誰にでも真似出来ることじゃないわ」

 愛美はうなずいた。「強力な人材がいなくても、及第点の人材が100人集まれば、似たようなことは出来るんじゃないかな」

 ウルシュラはうなずいた。「そういった場があれば良いわね」

 愛美は、ウルシュラを指差した。「その通り。クレイグスリストやリンクドインのようなもの」

 ペトリは、グラスを持ち上げて透明の液体を啜った。それは水ではなくウォッカだった。「ぼくが映画を撮影したくなったら、その時は人員を探すか、ネットで募集する」

 愛美は、今度はペトリを指差した。「あたしたちのSNSアカウントは、千万人近くがフォローしてる。それも、そのほとんどがクリエイターや、クリエイター志望。これを利用しない手はない。各々がプロジェクトを投稿して、それに必要なスキルを提示する。プロフィールには各々が出来ること、免許や資格、特技レベルでも良いから、それらを記載する。参加したい人はそのプロジェクトに申し込める。新サービスね。月1ユーロ、年6ユーロで募集をかけられるようにする。応募する側は無料。創作したい人たちだけに向けたサービスにする。動画の撮影やバンドの結成、アプリ制作、プログラミング教室、現在のプロジェクトの指針をそらさないものならなんでも良い」

「じゃあ、翻訳はしなくて良いのね」ウルシュラは顔を輝かせた。

 愛美はニッコリと微笑んだ。「ページの制作に戻って良いよ。優秀な翻訳家が育ってる」彼女はぼくを指差した。

 ぼくはほくそ笑んだ。「そう言われちゃしょうがないね」

 ペトリはぼくの肩を叩いた。

「じゃ、会議終わり」愛美はポテトチップスをかじった。「仕事開始」

 ぼくはChromebookを開いた。「ペトリ。クリスティナに会ったよ」

「どこで?」

「カフェ。偶然。出番はいつかだって」

「良い脚本が来てれば良いんだけどな」ペトリは、Chromebookを操作した。「ウルシュラ。届いている脚本を見せてくれ」

「ドキュメントを見て。作品ごとに自動で仕分けされるようにしておいた」

「出来る女は違うな」

「ありがとう。ついでにレッドブルもくれる?」

 ペトリは立ち上がった。「誰か、なんか飲むか?」

「ワイン」と、ヴィーラ。

「ビール」これはぼく。

「お水」これは愛美。

「スコッチ」これはナタリア。

 ぼくはナタリアを見た。仕事中にお酒を飲むのは、お硬い彼女らしくない。

 ナタリアはぼくを見た。「ミステリーを翻訳中なの。主人公がウィスキーとタバコが好きな女探偵だから、主人公になりきりたくて。作家もそうやって執筆する」

 ぼくはうなずいた。今翻訳している短編脚本の主人公は赤ちゃんだから、ぼくもおしゃぶりをしたほうが良いかも知れない。

「ハードボイルドな女探偵か。クリスティナに合いそうだな」ペトリは、テーブルにレッドブル、ワイン、ビール、ミネラルウォーター、スコッチを置いた。自分の前にはウォッカだ。

「ありがと。でも、これ小説よ」ナタリアはスコッチを一口含んだ。

「小説が原作でも良い。後で読ませてくれ」

「良かったら代わる?」

「そうさせてくれ」

 ナタリアは、自分のスコッチをペトリの前に滑らせた。



12時



「日常ミステリーか……」ペトリは、Chromebookで脚本を読んでいた。彼は、愛美を一瞥した。「ほのぼのしてて、笑える。登場人物たちの個性も立ってるけど、犯人に共感出来ないな」

「良いことじゃん」愛美は言った。

「なんだよ、テラスにサンマを投げ込まれたから、仕返しに車のフロントガラスにイワシを投げつけるって。頭おかしいだろ」ペトリは鼻を鳴らした。「世も末だな」

 愛美は笑った。

「書き換えても良いか?」

「フィンランド語に翻訳するなら、ある程度は良いんじゃないかな。でも、アップルパイをカレリアパイに変える程度で、それが自然な変更である場合に限るけど」

 ペトリはうなずいた。「一応、クリスティナに送ってみるか。しかし、こうなるとあれだな。撮影の助手を増やしたほうが良いか」ペトリは、ぼくを見た。

 ぼくは小さく笑った。「やらせてくれるの?」

「興味ある?」

「無いって言ったら嘘になるけどね」ぼくは愛美を見た。

 愛美は、ぼくを見てうなずいた。「手伝うことになったら言って欲しいな。ノルマの調整をする」

「オーケーが出たな」ペトリは言った。「ウルシュラ。撮影クルーの募集をかけたいんだけど、ページは出来てるか?」

 ウルシュラは首を横に振った。「さっきの今で出来てるわけ無いでしょ馬鹿なの?」

「きみならちょちょっとやってるかと」

「そうね。でも、わたしの仕事が早くても、取引先は違う。だから外部と仕事するのは嫌なのよ。アカウントの登録には、メールアドレスと電話番号を求める。口座の登録も出来るようにするから、色々手続きがあるの。来週には出来てる」

 ペトリはうなずいた。「ヒトシ。来週にはお願いするかもだから、それまでに覚えておいて欲しい用語とか、後でメールで送るよ」

「今晩バーに行こう。そこで話そうぜ」ぼくは言った。

 ペトリはニヤリと笑った。「どんどんフィンランド人になっていくな」



18時6分



 ぼくとペトリは、オフィスから徒歩三分のパブに来ていた。

 フィッシュアンドチップスとギネスビールを楽しんでいると、ペトリのところに電話が来た。「よう、クレイグ。そっちはどうだ? ……。へえ? そう。そりゃお前好みだな」

 ぼくはビールを啜った。

「あぁ、ぼく達も一杯やってるよ。ぼくとヒトシ。あぁ、人間だ。あぁ、……」ペトリは笑った。「了解。伝えとくよ。そんじゃ」ペトリは電話を切った。「あったらビール飲み競争しようってさ」

 ぼくは笑ってビールを啜った。「どいつもこいつも、酒が好きだな」

「あいつの血管にはビールが流れてる。今は東ポーランドで最低賃金の生活をしてるから、奴には厳しい時かもな。愛美のプログラムの一環なんだ。週24時間の最低賃金で、三ヶ月暮らす事は出来るか。もしもクレイグが成功すれば、最低賃金の25%増しの給料で雇用を生み出すことの正当性を主張出来る」

「週24時間ってどうなの? 普通は40時間とかだろ?」

「作業の効率化については語られ始めて久しいけど、人間がどういう労働条件で最も生産性を出せるかについてはまだ答えが出てないんだ」

「今の労働環境は、その答えを出すための実験か?」

「その通り。一説によると、10時以前に仕事を始めると、脳が目覚めてないから生産性が落ちるらしい。また、別の説では、週25時間以上の労働はメンタルヘルスに影響が出るらしい。また別の話では、16時に終業することで、ワークライフバランスの充実を感じる従業員が増えたらしい。休日じゃなくてもプライベートの時間を確保出来るからな」

 ぼくはうなずいた。「たしかに。ストレスなく働かせてもらえてる」

「そこに、最低賃金に25%を割増した給料が出れば、週30時間分の時給が与えられるわけだ。別の10時間は、勉強や趣味に当てても良いし、別の所でバイトや副業をしても良いし、生産性の向上が認められれば時給を増やしても良い」

「それなら、週40時間労働の人と週24時間労働の人で比較したほうが良いんじゃないか? ぼくは嫌だけど」

「アイミがもうやってる。モニターを12人雇った。アパートを二つ借りて、オフィス兼家にしてる。夏休みを持て余した大学生たちが参加してるよ。週40時間労働のグループには、実験終了時に120ユーロが支払われるらしい。あとは、週一でカウンセラー立ち会いの下でメンタルチェックも行われるって」

「初耳だ」

「言う必要もないしな。その検証はアイミが一人で進めてるから。ぼくが知ったのは偶然だ」

 ぼくはアジのフライを頬張った。「なんだか、蚊帳の外って感じで寂しいな」

「ぼくたちがこうしてるのも、他のメンバーを蚊帳の外に置いてるってことになるだろ?」

「なるほど。面白い視点だ」

 ペトリは笑った。

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