第23話 いいねを求めるゾンビたち
6月14日 9時3分
「撮影に協力して欲しいんだ」
月曜日。
オフィスに顔を出せば、ペトリからそんなお誘いを受けた。
二時から四時の間に、近所のカフェでやるらしい。
百ユーロのチップと、三百ユーロ分の料理を頼み、ペトリのYouTubeチャンネルとヴィーラのSNSで店の紹介をして、ディナータイムの準備を手伝うことを条件に、そのカフェを借りることが出来たようだ。
ぼくは了承した。
今日は、中編の小説の翻訳をすることになった。
文字数は、約五万四千文字。
短編脚本の三倍ほど。
それでも、この二週間で英語を扱えるようになったぼくにとって、これはあまり難しいチャレンジではなかった。
始業時間までは三十分ほどあったが、ぼくはコーヒーとチーズトーストとポテトチップスを手に、作業を始めた。
アプリを使って、英語の文章を日本語に一括翻訳する。
「トドは空中を歩いた」などという、わかりにくい文章は、その前後も含めて一度元の文章に戻し、翻訳を試みてからチェックを入れる。
こうすれば、後でチェックしてもらう際に、後任の人がわかりやすい。
翻訳は、十二時前には終わった。
物語は、ドイツの科学者が、変わり者の詩人とルームシェアをするコメディだった。
今までいくつかの作品を翻訳してきたけれど、楽しく翻訳にとりかかれたのは、この作品が始めてだった。
ぼくは、原文とぼくの翻訳を愛美のアドレスに送った。
「速くなったね」愛美は、Chromebookを見ながら言った。
「午後からペトリを手伝うから、それまでに終わらせようと思って」
愛美はうなずいた。「今日はあと一作短編をお願い。明日は中編を一作と短編を二作ね」
「わかった」ぼくは、Chromebookに送られてきた短編映画の脚本の翻訳に取り掛かった。
14時10分
ぼくとヴィーラ、ペトリ、そして、クリスティナは、オフィスから徒歩二十分ほどのカフェにいた。
ヘルシンキサウスハーバーのすぐそばで、人通りが少なく、時折トラムや自動車が通り過ぎる。
ヘルシンキサウスハーバーは、隣国エストニアへの玄関口であり、安いアルコールを求めてエストニアへ向かうフィンランド人たちが列を作る光景は、ここでは毎日見ることが出来る。
カフェは、こじんまりとしていながらもクラシックでおしゃれな雰囲気だった。
通り沿いの壁はガラスになっていて、開放感があり、日差しを豊富に取り込むことが出来る。
撮影機材は、すでにセットされていた。
ペトリは、カフェのオーナーや従業員と挨拶をした。
撮影はすぐに終わり、その後は、カフェの料理を楽しむ時間。
ぼくはホクホクの気分で、ヴィーラたちとともにアパートへ帰った。
ペトリは早速動画の編集。
今晩のアップを目指しているらしい。
ぼくは、デスクで作業を始めた。
ぼくのそばにカップが置かれた。
紅茶が入っていて、スコッチの香りもする。
見上げてみれば、ヴィーラだった。
ヴィーラは、照れたように笑うと、いつものソファへ向かった。
ぼくは、ペトリを見た。
ペトリはニヤリとして、ぼくも同じような笑顔で応えた。
21時3分
ぼくたちは、オフィスにいた。
ソファを一列に並べて座り、目の前には大きなスクリーンが貼られていた。
愛美はバケツくらい大きな容器に入ったポップコーンを持っていたし、その隣に座るウルシュラはその容器からポップコーンをつまみ、コーラを飲んでいた。珍しくPCやPixelに触っていない。
ナタリアはナチョス、ペトリはホットドッグ、ぼくはハンバーガー、ヴィーラもハンバーガーを頬張っていた。
しばらくすると、スクリーンに動画が映し出される。
YouTubeの画面だった。
動画の下には、各国の言語で書かれたコメントが、下から上に流れていく。
数秒して、動画が始まった。
ペトリフィルムズという白い文字が、真っ暗な画面に出て、徐々に消えていく。
〜
ある晴れた日。
カフェが、正面から映し出される。
車が左から右に流れていき、通行人が左から右に歩いていく。
カフェの店内には、たくさんの客。
ランチの時間だ。
窓際のテーブルでは、ぼくとヴィーラがランチを楽しんでいた。
そこにやって来る客。
『ヴィーラさんですか?』
『そうよ』ヴィーラはぼくを見ながら言った。
『一緒に写真を撮っていただいても良いでしょうか?』
画面の中のぼくは笑った。『人気女優は大変だね』
ヴィーラは笑いながら立ち上がり、自分に声をかけてきた客を見て、悲鳴を上げた。
どこかバカバカしさを感じる顔で悲鳴を上げるヴィーラの顔がアップで映し出される。
画面が切り替わり、代わりに映し出したのは、ヴィーラの視線の先。
そこにいたのは、ゾンビだった。
ゾンビは、手にスマートフォンを持っている。
ヴィーラは叫びながら、店内を見た。
店内では、映えそうな料理を運ぶ人や、おしゃれな料理を撮るゾンビや、店内でブレイクダンスをするゾンビを撮るゾンビ、大食いチャレンジをするゾンビ、調理をするシェフの手際を、楽しそうな声で解説するゾンビ……。
ヴィーラは悲鳴を上げながら窓の外を見た。
そこには、窓に手をついて、ヴィーラにスマホのカメラを向ける無数のゾンビたち。
ヴィーラは、悲鳴を上げながらテーブルの向かいを見た。
すると、さっきまで人間だったぼくがゾンビになって、ヴィーラにスマホを向けていた。
悲鳴を上げるヴィーラに詰め寄るゾンビたち。
ヴィーラは、徐々に壁際に追い詰められていく。
ゾンビたちは、悲鳴を上げるヴィーラに向けてシャッターを切り続ける。
画面は、悲鳴を上げるヴィーラの顔とスマホのフラッシュに切り替わり続ける。
ヴィーラは、一際大きな悲鳴を上げると、声を張り上げた。『Enough!』ヴィーラは、近くのテーブルにあったワインボトルを握りしめた。
ヴィーラは、近くにいたゾンビの手の中にあるスマホを、ワインボトルで砕いた。
ゾンビは、困惑のうめき声を上げて、手の中にあるスマホの欠片とヴィーラの顔を交互に見た。
次の瞬間、ヴィーラの体が灰色の煙に変わる。
ヴィーラは、ワープでもしたかのように、店内にいるゾンビたちの懐に、灰色の煙とともに現れ、ワインボトルでスマホを破壊すると、灰色の煙とともに消え、再び店内の別のところに現れる。
為すすべもなく無力化されていくゾンビたち。
ヴィーラが最後に破壊したのは、ぼくのスマホだった。
ゾンビだったぼくが、人間に戻る。
ヴィーラは、ぼくの手を取ると、店の外に飛び出した。
街はゾンビで溢れていた。
ぼくとヴィーラは、街の中を走り続け、ゾンビから逃げ続ける。
気がつけば、ぼくとヴィーラは森の中にいた。
パチパチと燃える焚き火を見ながら、ぼくたちは寄り添い過ごしていた。
『ゾンビになったりして悪かった』ぼくは言った。英語だ。
ヴィーラは、ぼくを見上げた。『ここなら、ゾンビは来ないわ』
ぼくはうなずいた。
そして、ぼくとヴィーラはキスをした。
画面は暗転し、切り替わる。
舌を絡ませるぼくとヴィーラを、遠くから撮影するカメラの画面。
カシャ、というシャッターを切る音がして、画面は灰色になり、どぅーん……、と、不穏を漂わせる効果音。
真っ暗な画面に、【いいねを求めるゾンビたち】と、英語のタイトルが映し出される。
〜
三分の短い映画だった。
脚本は、ぼくたちのサイトに送られてきたもののうちの一つだった。
カメラワークや効果音、そして、ヴィーラの演技が、映画をコメディに仕上げていた。
愛美はぼくの脇を肘で突いた。
ウルシュラはヴィーラの脇を肘で突いた。
ナタリアは、ニヤリと、ペトリに笑いかけていた。
ヴィーラは、ワインを啜っていた。
ぼくは、ヴィーラとのキスの思い出に浸っていた。
コメント欄に、無数のコメントが流れていく。
『感動した』
『これからは、スマホを向ける先は選ぶよ。買ったばかりのiPhoneをワインボトルで砕かれたくないからね』
『CG、アクション、カメラワーク、そして脚本、すべてこの一言に尽きる。クールだ』
『月曜日の朝は自殺したくなる。火曜日にアップされるお前の動画のお陰で思い留まれる。動画のおかげで次の月曜日の朝まで頑張れる。感謝するぜ相棒』
『ヴィーラ様に踏まれたいです』
『この無名の俳優は、一生分の運を使い果たしたな。羨ましいぜ』
ぼくたちは、流れるコメントを読み上げながら盛り上がった。
動画の閲覧数はあっという間に数万になる。
プロジェクトのリーダーである愛美はその動画の成功に大はしゃぎだった。「明日、ポーランドの脚本家呼んだから、みんなでインタビューね。ペトリは映画監督、ヴィーラは主演女優、一志は助演男優。三人はプロジェクトの代表として出て。ペトリのチャンネルに載せるから」
ぼくは愛美を見た。「顔出しするの?」
「もう動画公開したじゃん」
「メイクがあればぼくだってわからないだろ。でも」
「じゃあ、メイクしなよ」
ぼくはナタリアを見た。
ナタリアは、昼間の撮影の際にぼくのメイクを担当してくれた。
ナタリアは、ニッコリと微笑んだ。「任せて」
勤務時間外になると途端に表情が豊かになるのが彼女の魅力だった。
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