第21話 仕事終わりの一杯
16時8分
仕事を終えたぼくたちは、オフィスから徒歩十五分の場所にあるバーにいた。
アイリッシュバーで、客層は若かった。
中には大学生や、高校生くらいの人もいる。
ペトリにメッセンジャーを送ると、わかった、とだけ返事があった。
愛美とナタリアはパンツスーツにインテリメガネ、ウルシュラはデニムにシャツにコートという格好で、ヴィーラは黒のパンツにボルドーのシャツ。
ぼくはデニムとカジュアルジャケットを着ていた。
ぼくたちは、スタンドテーブルの周りに集まった。
テーブルは樽だった。
樽の蓋を開けてみれば、中に入っていたのはかぼちゃだった。
様々な料理がテーブルに運ばれてきた。
ウルシュラは、ここでもカタカタやっている。
Pixel4aに有線でキーボードを繋いでいた。
ヴィーラは、上品な手付きで、小さなアジのフライをもりもりと食べながらビールをグイグイやっていた。
人が多いから、飲まないと正気を保てないのだろう。
ナタリアはモヒート、愛美はビール、ぼくもビール。
愛美とぼくが飲んでいるのは、レフというベルギービールだ。
「次はクローネンブルグにしよ」
ぼくはうなずいた。「最近ビールに慣れてきた」
「ほどほどにね」
ぼくは笑った。「どの口が言ってるんだ?」
愛美は肩を竦めた。「あたしは慣れてるからね」
「また一本、翻訳した脚本が売れた。クロアチア人の脚本で、カリフォルニアの出版エージェントが買ってくれた」ナタリアはオリーブをかじった。「ヒトシが翻訳したヤツ」
「順調だね」愛美は嬉しそうだ。「コラム良かったよ」
「ありがとう」ぼくはビールを啜った。「もう少し英語の勉強をしたい」ぼくは、英語で言った。最近、英語ばかり話している。「チェックしてもらってるのはぼくだけだ」
「ペラペラになっても、しばらくはあたしが最終チェックを続けるよ。脚本も小説も絵本も、相応の、適切な文体がある。その感覚を身につけるには、今年の夏だけじゃ足りないから」
「そっか」
「まずは、翻訳アプリ無しでスラスラと作業が出来るようになって欲しい。そこが第一ステップね。まだ二週目が終わってもいない。その割には成長してる」
「よくやってるわ」ナタリアも言った。「英語の勉強なら付き合う」
「ありがと」
「今回の収益は、一応プロジェクトの予算に入れておくけど、余裕が出来次第、クロアチアの作家に送ろうと思う」愛美は、フライドチキンをつまみあげて口に放り込んだ。「ペトリとヴィーラのおかげで、予算は半年もあれば余裕で元が取れる。思ったんだけど、こちらの取り分を二十%から十二%にしても良いかも知れない」
「利益が出ないだろ」ぼくはフライドポテトをつまんだ。
ポットローストがテーブルに運ばれてきた。
愛美は、ポットローストのスライスを小皿に載せた。
ヴィーラは、空いた皿を片付けるウェイターに、ハンバーガーを注文した。
愛美もそうだけど、ヴィーラや、他のメンバーもよく食べる。
多分、ぼくの三倍は余裕で食べていた。
それも、卵や肉や魚や野菜や果物を好んでいるようだ。
大食いの動画でも撮れば良いのに。
「利益は求めてない。今回のプロジェクトは慈善事業よ」ナタリアは言った。「何人のアマチュアに機会を与えられたか、その結果次第では、今回のプロジェクトが今後同じような活動をしようとしている人たちの参考になる。作品を送ってくれている人たちは、プロジェクトに協力してくれているから、見返りがあって当然。わたしたちの見返りはデータ。学園に出資金を返して、収益の十%でもポケットに入ってくれば儲けもんって感じ」
「わたしたちのサイトは、将来手放すものだから、短期の視点でやりたい放題遊んでも良い」ウルシュラは言った。「フィンランド観光が楽しめて、サウナ付きのアパートに住めて、仕事終わりに一杯やれるしお小遣いだって入ってくる。ホント最高」
「ほんとソレ」ヴィーラは、フライドチキンをハグハグしながら言った。
愛美も大食いキャラだけれど、ヴィーラも負けていない。
彼女は、届いたばかりのハンバーガーをあっという間に食べ終えると、添え物のニンジンに取り掛かり始めた。
「なんか、すごいことやってるんだね。ぼくにはわからない話だ。翻訳とSNSいじりに専念させてもらうよ」ぼくはテーブルの上の写真を撮り、InstagramとFacebookとTwitterにアップした。「仕事終わり」ぼくはレフを飲み干し、テーブルの上にある新しいビールの栓を抜いた。
「おぉー」愛美は声を上げた。「やるねぇ。二本目」
「リトアニアで血液をアルコールに入れ替えてきた」
「ゲーゲーやってたけどね」ヴィーラは、ハンバーガーをかじりながら言った。
ふと、そちらを見れば、ナタリアが、背の高いスーツ姿のイケメンに声をかけられていた。
ナタリアは、笑顔を浮かべながら、髪を触り、身をよじって照れていた。
仕事中のナタリアはキレイで格好良いが、オフのナタリアは可愛かった。
ちなみに、ウルシュラにはイケメンの友達から声がかかっていたが、ノイズキャンセリングという名の神の恩恵にあやかっていた彼女は、Pixelに向けてカタカタやる手を止めることなく、声をかけられていることに気づいてもいなかった。
続いて声をかけられたのはヴィーラだったが、ヴィーラはニンジンまみれの舌であっかんべーをして、男性陣を引かせていた。
普通の男ならそれで引くところだったが、ぼくはすでにヴィーラに夢中になっていたので、良いぞヴィーラ、と、心の中でガッツポーズをした。
ナタリアと愛美は、イケメンとその友達のテーブルに移った。
ぼくは、ヴィーラと一緒にテーブルの上の料理と、柱の上のTVが流すニュースを楽しんでいた。
ウルシュラは、ピクッ、と動きを留めて顔を上げると、キョロキョロと周囲を見た。現地の男性にちやほやされる愛美とナタリアを見つけると、肩を竦め、再びPixelの画面に視線を戻した。
18時33分
ぼくとヴィーラとウルシュラは、パブから料理をいくつか持ち帰った。
ウルシュラは、通りを歩いている時も階段を上がっている時もPixelをポチポチやっていた。
彼女は、その全身で現代の若者の問題を表現するアートと化していた。
オフィスに戻れば、薄暗い中、ペトリが一人で、窓際に腰掛け、ウォッカを飲んでいた。
なぜか、上にはなにも着ていなかった。
バスルームから音が聞こえてくる。
ぼくはニヤリと笑った。
ヴィーラはうめき声を上げた。
ウルシュラはデスクに着いて、カタカタやり始めた。
ペトリは、少し考えるようにして、諦めたように笑った。「おいおい、困るよ」
「困るのはこっちよ」ヴィーラは眉をひそめた。「金持ちアピールで連れ込んだってわけ?」
「実際そこそこ持ってる」ペトリは両腕を広げた。彼は、今夜のために脇毛を剃ったようだ。「そうなんだ。ぼくの部屋だって言って連れ込んだ。すぐに戻ってくるから出てくれ」ペトリはウルシュラを見た。
ウルシュラはノイズキャンセリングのイヤフォンを手にして、早速作業に戻ろうとしていた。
ペトリはため息を吐き、首を横に振った。「友達が来たってことにしようか。そうしよう。口裏合わせてくれ」
「バカね」ウルシュラは言った。「わたしたちが住んでるんだから、カーテンとかクローゼットとかバスルームの歯ブラシで気づかれるわよ。もう気づいてるわ」
「嘘だろ」
「そこは真っ先に確認する」ウルシュラはヴィーラを見た。
ヴィーラはうなずいた。
ペトリは、手で顔を覆い、天井を見上げると、肩の高さに両手を上げて、にっこり笑った。「ま、いっか。正直が一番だ」
ぼくは笑った。「どの口が」
ヴィーラは肩を竦めた。「どこでやったにしろ、ちゃんと掃除しといてね」
「あいよ。良いさ。仕事手伝ってもらってるし、どうせいつか紹介するつもりだった」
ヴィーラは、キッチンでウォッカとレッドブルを混ぜた。「ヒトシも飲む?」
「あぁ」
「お嬢さんにも作ったほうが良いかしら?」
「クリスティナだ。物理学専行。二十歳で背が高い。赤毛で青目でスタイル抜群」
その時、数日前にトライアングル・メソッドでナンパした女性のうちの一人が脳裏に浮かんだ。「あぁ、あの人ね」
ペトリはぼくを指さし、うなずいた。「動画の字幕作成と翻訳を手伝ってくれる。酒はぼくが作るよ。ありがとう」
ヴィーラは肩を竦めた。
ぼくは、ヴィーラからカクテルを受け取り、飲んだ。
かなり効くが、酒に慣れてきたぼくにとってはなんでもない。
バスルームから出てきたクリスティナは、その美しい裸体をぼくらに見せた後で、肩を竦め、バスルームに戻っていった。
ペトリは、部屋の隅に転がっていた女性用の服を持って、クリスティナの後を追った。
「恥ずかしくないのかな」
ヴィーラは言った。「フィンランドだからね。サウナで慣れてるんでしょ」
その言葉に、どうにかこうにか、ヴィーラをサウナに連れ込む方法を考え始めたのは言うまでもない。
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