第20話 世界地図

6月12日 10時2分


 

 ぼくたちがリトアニアに行っている間に、オフィスは少し変わっていた。

 楕円形のテーブルとソファに囲まれたローテーブルはそのままだったが、テラスには観葉植物が増えていたし、壁には世界地図が貼られていて、そこに、カラフルなピンがいくつか刺さっていた。

「あなた達がリトアニアに行っている間に、成果がいくつか出た」愛美は言った。「可視化しやすいように、世界地図に、色分けしたピンを指したわ。オレンジはイラスト、赤は小説、ピンクは脚本、緑は絵本、白は写真、黒は動画、透明は曲とかの音声。出版社とかエージェントが買ってくれたものと、十ユーロ以上の収益を上げたものを成果に数えてる」

 ぼくはうなずいた。

 見れば、ウルシュラのChromebookが変わっていた。

 サイトとアプリの制作を終えたウルシュラは、成果に対する報酬として、新しいPCを求めたらしい。

 つまりは、HPのハイエンドのChromebookだ。

「エントリークラスとハイエンドの比較レビューも役に立つかなって。あたしたちのサイトに貼った広告から、現時点で千五百七十二台のChromebookが売れた。ペトリの動画と、ヴィーラの写真と、一志のコラムのおかげね。でも、やっぱりアフィリエイトの収益が一番少ない」愛美はコーヒーを啜り、HPのChromebookを操作した。「ペトリにはMacBook ProとiPad ProとiPhone12 Pro MaxとApple Watchを考えてるんだけど、どう? もちろん新品だよ」

 ぼくは、内心羨ましいと思いながら、ペトリを見た。

 ペトリは、肩をすくめた。「今月はいらないよ。来月くれ。安っぽいChromebookでどの程度の動画が出来るか試したい。考えてみたんだけれど、MacBookとChromebookを、動画の編集にかかった時間やクオリティで比較するっていうのはどうかな」

 愛美はうなずいた。「良いと思う。SNS見たけど、一志も写真とか動画を始めたみたいね。写真のセンス結構良いと思う。翻訳に慣れてきたら、そっちも毎日やってみて欲しい。ヴィーラとペトリは後で画像と動画の編集を教えてあげて。一日三作の翻訳をやってもらって、残った時間はそれらに当ててもらうっていう形でも良いかな?」

 ぼくはうなずいた。「わかった。コラムの方も進めてる。チェックしてもらってオーケーだったら投稿するよ」

「チェックするから送信お願い」

 ぼくは、言われた通り愛美にテキストを送信した。

 ぼくは、横目でウルシュラを見た。

 最近、彼女にPCの操作を教えてもらおうと思っていた。

 彼女はPCの達人だし、サイトとアプリの制作を終えたなら、時間を取ってもらうことは出来るかも知れない。

「現時点では出費のほうが多いけど、予算の範囲内で出来てる。来月からは収益も入ってくるから黒字よ。現時点の見込み利益だけでそうだから、少なくとも与えられた予算は返せそう。一番利益を上げてるのはペトリで、次はヴィーラね」

 ペトリはヴィーラに向かって手の平を向け、ヴィーラは、ちらりとその手の平を見てうなずいた。

 ペトリは笑った。「ハイタッチだよ」

「あぁ、そういうことだったのね」ヴィーラは、ペトリとハイタッチをした。

 愛美はナタリアを見た。「いとこはいつ来るの?」

 ナタリアは、PCを見た。「今月末って言ってたけど、中旬になった」

 愛美はうなずいた。「オッケー。じゃ、共有することはこれくらい。今日も頑張ろ」

 ヴィーラはいつものソファに向かい、ナタリアはキッチンからドリンクを持ってきた。

 彼女は、ウルシュラの前に瓶ビールとレッドブル、ぼくとペトリの前にコーヒー、愛美の前にミネラルウォーターを置き、ヴィーラにはウィスキーの入ったアールグレイを渡した。

 ぼくはコーヒーを啜り、ウルシュラを見た。「ウルシュラ」

「なに?」ウルシュラは、PCモニターを見ながら言った。

「PCの操作について教えて欲しいんだけど」

「どんなこと?」

 どんなことって言うか……、「なにもかも」

「わたしに教えてもらって、どうなりたいの?」

「すごい速さでキーボード叩いてるだろ? それってどうやるのかな。ショートカットとかそういうの?」

 愛美はウルシュラを見た。

 ウルシュラは愛美を一瞥した。

 ウルシュラはうなずいた。「そうね」

 ぼくはうなずいた。「指の上手い動かし方とか」

 ウルシュラは肩をすくめた。「現状に至るまでの過程を忘れた。慣れていくしかないわ」彼女は、カタカタとPCを操作した。

 ぼくのPCに、ウルシュラからメールが届いた。

 URLが貼り付けられている。

「これは?」ぼくはウルシュラを見た。

「前に、IT関連の情報を集めたページを作ったの。そこにPC操作のコツとか、コーディングのコツとかも載ってるから参考にして」

 ぼくはうなずいた。「ありがとう」

 ウルシュラはうなずいた。彼女は、耳にイヤフォンをはめた。瞼を閉じ、天井を向いてコキコキと首を鳴らす。

 ぼくとペトリと愛美は、ウルシュラの胸が服の生地を押し上げる光景を目に焼き付けた。

「あー……」ウルシュラは、今にも絶頂に達してしまうんじゃないかというほどに官能的なソプラノの声を絞り出した。「神よ。ノイズキャンセリングを創造してくださったことに感謝いたします」ウルシュラは、ビールを啜り、かっ! と目を見開くと、タタタタタタタッ! とPCを操作し始めた。

 その音は、彼女がゾーンに入ったことの証拠だった。

 セクシーな変人だ。

 ぼくとペトリは小さく笑った。

 ペトリは、Pixelを見て、立ち上がった。

「撮影?」

 ぼくの言葉に、ペトリはうなずいた。「来るか?」

 ぼくはニヤリとした。「いや、エキストラと楽しむんだろ?」

 ペトリはニヤリとした。「行ってくるよ」

「あぁ」ぼくは、Chromebookに届いた短編映画の脚本の翻訳に取り掛かった。

 


12時



 一作と二作目の半分の翻訳を終えたぼくはキッチンでランチの準備をしていた。

 作業を始めてすぐに気が付いたけれど、英文を読む速度が上がっていたし、理解も進んでいた。

 今のぼくは、イギリスで生まれ育ったネイティヴスピーカーも同然だ。

 少なくとも、気分はそんな感じだった。

 この調子なら、作業は十四時に終わる。

 残り二時間で、SNSにアップする動画の編集をしたいところだが、可能ならペトリの助けが欲しいところだった。

 奴はまだ外に出ている。

 おそらくは、フィンランドの女の子とよろしくやっているのだろう。

 その時、キッチンに背の高い女性がやってきた。ヴィーラだった。「なに作ってるの?」

「今日はジェノヴェーゼと目玉焼きとサラダ」

「手伝うわ」ヴィーラは、冷蔵庫からオレンジを五つ取り出し、フルーツナイフで切り始めた。

「ありがと」

「仕事終わったら、みんなで飲みに行くけど、来る?」

「どこに?」

 ヴィーラは首を傾げた。「ナタリアが、良いバーを見つけたんだって。わたしたちがリトアニアに行ってる間に、仕事終わりに外で一杯やることにしたみたい」

 ぼくはうなずいた。「行こっか」

 ヴィーラはうなずいた。いつの間にか、切り分けられた大量のオレンジが五枚の皿に載せられていた。彼女がナイフを握ってから、まだ一分も経ってない。

「きみって、マジシャン?」彼女は、初日も耳の後ろからウィスキーの小瓶を取り出していた。

 ヴィーラは小さく笑い、オレンジを口に含んだ。「どうかしら」

 ぼくは笑った。

 十分後、ぼくは、出来上がった料理とともにテーブルに向かった。

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