第19話 ヴィーラのご両親

6月11日 12時



 英語の上達、新しい友人との出会い、初めてのダンスクラブ、ヴィーラとのキス……。

 楽しかったリトアニア旅行も今日で滞在最終日。

 夕方には、飛行機に乗ってヘルシンキに帰らなくてはいけない。

 ぼくたちは、ヴィリニュス郊外にあるアパートの一室にいた。

 ヴィーラの実家だ。

 2LDKで、寝室もダイニングもキッチンもこじんまりとしている。

 おそらく、バスルームやバルコニーを合わせても、ぼくたちのオフィスの四分の一ほどのサイズしかない。

 だが、よく考えてみれば、教室二つ分ほどもあるぼくたちのオフィスの方が大きすぎるのだ。

 二つある寝室のうち、一つはご両親のもので、一つはヴィーラとそのお兄さんと弟くんのもの。

 今は、二人とも学園の寮にいるらしい。愛美やヴィーラたちの通う学園は、世界中に校舎があり、このリトアニアにもあったが、校舎はカウナスにある。カウナスまでは片道で数時間ほどかかるためため、お兄さんと弟くんは来れなかった。

「ヒトシ、ペトリ」

 やったっ! と、ぼくは思った。

 古い仲のペトリを差し置いて、ぼくの名前を先に呼んでくれたぞ。

 ヴィーラもキスのことを覚えているのかもしれない。

「こちらは、わたしのパパのマティアスとママのアウグステ。パパ、ママ。こちらはヒトシとペトリ。二人は、わたしと一緒に働いてるの」

 マティアスさんは、背が高く、ほっそりとしている。

 街路樹のようなたくましさだと思ったけれど、ウドの大木っていう悪口もあるくらいだし、それは少し失礼かも知れない。

 ブロンドの髪を短く揃え、銀縁のメガネをかけている。

 レンズの奥では、琥珀色の瞳が輝いており、虹彩には淡褐色の輪がかかっていた。

 デニムにセーターというラフな格好。

 柔らかな笑顔が温かい人だ。

 アウグステさんは、ブロンドのセミロングを無造作に垂らしている。

 大きな瞳は灰色で、金色の輪がかかっていた。

 マティアスさんやヴィーラと同様に、背が高く、ほっそりとした肩幅、細く長い首に、小さな顔。

 黒のデニムに、黒のシャツという格好をしていた。

 柔らかな笑顔だが、目の下にあるクマが儚い印象を醸し出している。

 ヴィーラはお母さん似だった。

 ぼくとペトリは、ヴィーラのご両親と握手をした。

 お二人は、ぼくたちをランチの場にご招待してくれた。

 小さな丸テーブルには、五つの席とカトラリーが五セット。

 アウグステさんは、ぼくたちの前に置かれた皿に、カルパッチョを載せた。

 オードブルから始まり、スープ、ポワソン、ソルベ、アントレ、デセール。

 シャコティスという、トゲトゲのケーキを食べたぼくは、すでにお腹いっぱいだった。

 そんなぼくの前に置かれたのは、手作りクッキーの乗ったお皿とコーヒー。

 まだ食えってか。

 アウグステさんは中々にサディスティックだった。

 美味しいクッキーを食べ終えたぼくは、口元をリネンのナプキンで拭った。

 アウグステさんは、ニッコリと微笑んだ。「美味しかった?」

 ぼくは、微笑むので精一杯だが、もう少し頑張ってうなずき、言葉を絞り出した。「最高でした。特にスープが良かった」

 アウグステさんの出してくれたスープは、リトアニア初日にヴィーラが作ってくれたスープの冷たいバージョンだった。

 アウグステさんは微笑んだ。「我が家だけでなく、リトアニアの伝統の味よ」

「わたしのスープとどっちが美味かった?」ヴィーラは、コーヒーを啜りながら言った。

 墓穴を掘ったと気が付いたのはこの瞬間だった。

 アウグステさんのスープだと言えばヴィーラの機嫌を損ねてしまうし、かと言って、招かれている立場で、スープを振る舞ってくれたアウグステさんのスープよりもヴィーラのスープを褒めれば、ここには一生呼んでくれないだろうし、もし、将来ヴィーラと深い仲になれたとしても、スープの件を根に持ったアウグステさんは反対をするだろうし、娘が可愛いマティアスさんも当然反対するだろう。ご両親から結婚を反対されたヴィーラは悲しみに暮れ、この世の中に絶望し、ぼくに向かってこう言うのだ。「死ぬまでお酒を飲みましょう。吐いてもやめさせてあげないわ」ぼくは、ゴクリとつばを飲んだ。「ヴィーラ。きみはぼくとペトリの希望を聞いて、温かいスープを作ってくれただろう。アウグステさんの作ってくれたスープは冷たいものだった。冷たい方も美味しいけど、きみが作ってくれたスープも同じくらい美味しかったよ」

 ヴィーラはアウグステさんを見た。

 アウグステさんは、朗らかに笑った。「ありがと。温かいのも良いわよね」

 ヴィーラはうなずいた。「二人がいなければ、いつも通り冷たいスープを作ってた。珍しい味わいで、悪くなかったわ」

「ペトリ、あなたはどう?」アウグステさんはペトリを見た。「気に入ってくれた?」

 ペトリはうなずいた。「もちろんです。ミートローフが最高でした。ソースには何を使ったんですか?」

 ペトリは墓穴を掘ることもなく、ぼくの掘った墓穴をスラリと軽やかに躱して、アウグステさんの料理をそれはもう流暢な英語で褒め称えた。

 ふと、視線を感じてそちらを見れば、マティアスさんが微笑んでいた。

 なんだか怖かった。

「やあ、ヒトシだね」

「はい、ヒトシです」

 マティアスさんはコーヒーを啜った。

 彼は、いつの間にやら袖をまくって、その脈打つたくましい腕を見せつけていた。

「きみは、普段は何をやっているんだ?」

「高校生で、勉強をしてます。プロジェクトでは、短編の脚本や小説を日本語に翻訳しています」

 マティアスさんはうなずいた。「立派だね。楽しんでいるかい?」

 ぼくはうなずいた。「とても」

「良いね。私も経験があるが、遠く離れた場所で働くのは大変だろう」

 彼は、若い頃は通訳として世界を飛び周っていたらしい。

 今は、市役所で働きながら、のんびりとした日々を過ごしているのだとか。

「文化の違いも、目新しく、日々が楽しい刺激で溢れています。日本から離れると言っても、三ヶ月ですので、それほど寂しくもありません」ぼくは、拙い英語ながらも、はっきりと受け答えをした。おそらく、マティアスさんは、娘の周囲にいる男がちゃんとしたやつかどうかを知りたいのだから、ぼくのこの姿勢は、おそらく間違いじゃないだろう。

 マティアスさんはうなずいた。「そうか。バスケットボールは好きかい?」

 ぼくはうなずいた。「あまり上手くはありませんが好きです。見るのも」

 マティアスさんは、笑顔を濃くした。「そうか。試合があるんだ。ビール飲むかい?」

「マティアスっ!」「はいっ!」

 椅子の上で飛び跳ねると同時に反射神経抜群の返事をしたマティアスさんは、大きく開いた目でアウグステさんを見た。

 ぼくもマティアスさんに続けば、そこには、怖い顔をしたアウグステさんがいた。

「ヒトシも十七歳だって言ってたでしょ?」

 マティアスさんは、ゴクリとつばを飲んだ。

 ちゃんと尻にしかれているようだった。

 彼はぼくを見た。「コーラで良いかい?」

 ぼくはうなずいた。「いただきます」これは、ゲップを免れることは出来なさそうだ。

「ペトリ、きみもどうだ?」マティアスさんは言った。

 ペトリは笑顔を浮かべた。「いただきます」

 ぼくたちは、リビングのソファに移った。

 ぼくは、ペトリの脇腹を肘で突いた。「ぼくが先に誘われた」ぼくは小声の日本語で言った。

 ペトリは失笑を漏らした。「未来のお義父さんに気に入られたってか?」

 マティアスさんはぼくを振り返った。彼はぼくを睨みつけていた。「娘はやらないよ」彼は小声の日本語で言った。

 ぼくは、背中を伝う汗を感じながら、マティアスさんを見た。

 なんだか、とんでもなくでかい墓穴を掘った気がする。

 マティアスさんは微笑んだ。「今はね。働き始めてから、きみを一人の男として認めてやろう」

 ぼくは笑った。「誤解です。キレイだなって思ってるだけで、ところで、お義父さん、日本語お上手ですね」

「お義父さんって呼ぶな」

「はい、ごめんなさい」また睨まれてしまった。

「コーラは抜きだ」

「え〜」

「冗談だよ」マティアスさんは笑った。

 ぼくは、乱れた脈拍を抑え込みながら笑った。

 


18時



 ぼくたちは、ヴィリニュス国際空港にいた。

 お酒と、ゲロと、インガとのひとときや、ヴィーラのご両親によるおもてなしが温かい余韻を残す、幸せに溢れた良い旅行だった。

 インガという新たな友人も出来たし、マティアスさんは暖かくも素朴な人で、アウグステさんはキレイでおしとやかながらも芯に強さを持った女性で、ここでの出会いは、どれもこれも良いものだった。

 手荷物検査を終えた先には、小さな土産物屋があった。

 ぼくは、そこでリネンのバッグを買い、それをお土産にすることにした。

 飛行機に乗れば、あっという間にヘルシンキ。

 ぼくは、三日ぶりに、自分の部屋に帰ってきた。

 シャワーを浴び、フィンランド用の服に着替えて、オフィスへ向かう。

 旅行の間に、翻訳の仕事をサボったことを謝ると、規定の労働時間を超えて行った今までの翻訳に使った時間と帳消しでも良いと言われた。

 つまり、今までの残業代はなしにしても良いかと言われたわけだけれど、旅行の間の食費などをすべて出してもらっていたので、まあいっか、と、ぼくは了承した。

 そもそも仕事が楽しくて残業をしているという感覚もなかったわけだし。

「じゃあ、残業代は十時間分削っておくね。それ以上は出しておくから」愛美は言った。

「ありがと」

「うちはホワイトですから」

 ぼくは笑い、キッチンでレッドブルウォッカを作ってテーブルに着き、PCを開いて、仕事を始めた。

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