第18話 ヴィリニュスの1日

6月10日 7時5分



 最高の夜を過ごしたのはペトリとインガも同じのようだった。

 リビングに向かえば、裸の二人が、ソファの上に重なり合っていた。

 二人の上に毛布がかかっていたのは幸いだった。

 なにしろ、二人の下着と思わしきものが、スーツやドレスと一緒になって、カーペットの上に転がっていた。

 キッチンでコーヒーを飲むヴィーラは、無表情でペトリたちを見ていた。

 ぼくは、コーヒーを淹れ、ブラックで飲んだ。

 寝る前というか、気を失う前にたっぷり吐いたのが功を奏したのだろう。

 吐き気はまったくなかった。

 テーブルにはスクランブルエッグとソーセージ、ライ麦パン、フルーツが盛られたボウルとサラダの盛られたボウルが置かれていた。

 ぼくは、ヴィーラを見た。

 ヴィーラは、無表情でぼくを見ていた。

 透き通るような灰色の瞳が、ぼくの目を覗き込んでくる。

 なんだか、彼女にはすべてを見透かされているような気がする一方で、ぼくには無表情も相まって彼女がなにを考えているのかわからない。

 そして、ぼくには見透かされて困ることは、特になかった。

 強いて言えば、先日のキスによって、ヴィーラが気まずさを感じていないかどうかということが気になることくらいだろうか。

 ちなみに、ぼくは気まずかった。

 だが、そんな気まずさをヴィーラに感じさせてしまうようじゃ、彼女とキスやそれ以上のことをするなど夢のまた夢だ。

 ぼくは口を開いた。「ラーバス・リタス」ぼくはリトアニア語で言った。

「おはよ」ヴィーラは言った。「昨日のこと覚えてないでしょ」

 ぼくはほくそ笑んだ。「どうかな。ちらほらと覚えてる」

 ヴィーラは、その灰色の瞳でぼくを見据えた。「そ」灰色の瞳が、ゆらりと、揺れる水面のように輝いた。

 なんとも読みづらい表情だったので、キスのことは忘れたフリをしたほうが良いのか、覚えてると言ったほうが良いのかわからなかった。

 とりあえず、幸せな夜だったのは間違いない。

「良い夜だった。自分が踊ってハシャげるなんて知らなかった」

 ヴィーラは微笑んだ。「楽しそうにしてた」

 ぼくは笑った。テーブルに着き、ソーセージを切り分けて口に運ぶ。しこたま飲んだ翌日にも関わらず、こうして朝食を食べれている。これが成長かどうかは置いておくとして、ぼくの体はヨーロッパに順応しつつあるようだった。「今日は何をする?」

「実家に行くのは明日だから、今日はみんなと一緒にヴィリニュスを周りたいと思ってる」

「良いね」ぼくはコーヒーを啜った。「シャワー借りるよ」

 ヴィーラはうなずいた。「トイレ掃除しといた」

「え、ごめん。ありがと。アチュー」

「どういたしまして」

 ぼくは、着替えを持って、そそくさとバスルームへ向かった。



9時3分



 ぼくは、ゲディミノ通りを歩いていた。

 ここには様々なカフェやファストフード店、ファストファッションの店やデパートなんかが並んでいる。

 ぼくが足を運んだのは、ヘスバーガーだった。

 北欧にしかないハンバーガーショップで、メニューはすべて見慣れないアルファベットで書かれている。

 ぼくは、テキトーなものをセットで注文し、窓際の席に着いて、ポテトを食べながら、窓の外の景色を見た。

 この街が好きだ。

 漠然と、そんなことを思った。

 ぼくは、HPのChromebookを取り出し、仕事を始めた。

 短編の脚本の翻訳。

 これにも慣れてきたもので、二、三時間もあれば十分に終わらせることが出来る。

 お昼からは、インガも加わり、四人で街を歩くことになっていた。

 それまでに、仕事を終わらせてしまおう。



12時



 ぼくたちは、ピリエス通りの店を見て周り、ゲディミノ通りの店を見て周り、G09を見て周り、ヘスバーガーでバーガーのセットを食べ、カフェで買ったコーヒーを片手に歩き、パノラマというデパートにたどり着いた。

 そこにやって来るまでの間で、ペトリもヴィーラもかなりの撮影をこなした。

 インガがいるおかげで、ぼくが英語を話す機会も増えた。

 ライティングとリーディングはともかく、スピーキングとヒヤリングのスキルは上達してきたと思う。

 どうだろう、YouTubeの動画に日本語の字幕をつける仕事とか任せてもらえないだろうか。

 愛美の顔が頭に浮かんだ。

 彼女は、良い上司だ。

 素朴で、親しみやすいスタンスで、ぼくたちと関わっている。

 ウルシュラはITのプロフェッショナル、ナタリアはサポート、ヴィーラとペトリは宣伝。

 ぼくは、勉強中の新人だ。

 翻訳は、あくまでプロジェクト内の仕事の一つに過ぎない。

 ヘルシンキに戻ったら、愛美からは間違いなくノルマをこなせなかったことに関する追求が来るだろう。

 ぼくはすでにこの楽しい旅行の間に限って、翻訳に取り組む気を無くしていた。

 午前に一作片付けたとは言え、それだけで愛美からの追求を回避することは出来ないだろう。

 こうなると、良い言い訳を考えておいたほうが良いかも知れない。

 それに加えて、ここで過ごした時間がプロジェクトメンバーとしての自分の成長に繋がったと言える何かが必要だ。

 それは上達した英語のスキルでも良いけど、別の何かもあったほうが良いかも知れない。

 そんなことを考えたのは、川にかかる橋を渡っていたときのこと。

 ぼくは、スケートパークでスケートボードやローラースケートを楽しむ子どもたちを、動画に撮った。

 みんな、歯の生え変わりも済んでいなさそうなのに、上手に滑っていた。

 ぼくは、みんなと一緒に、日本食レストランで料理を待ちながら、ここに至るまでの間に撮影した写真や動画を、Instagramに投稿した。

 扱う言語は日本語と英語。

 英語はみんなに確認してもらった。

 Instagramを見せると、早速ペトリとヴィーラがフォローして、宣伝をしてくれた。

 すると、みるみるうちにフォロワーやいいねやコメントが付く。

 DMまで来る。

 しかも、知らない人からだ。

 Pixelのバイブが止まらないことに恐怖を覚えたのは初めてだった。

 震え続けるPixelを操作してミュートにすれば、バイブも通知音も止まったが、それでも、通知は次々と増えていく。

 ぼくは、Pixelをコートのポケットにしまい、無視することにした。

 あー、怖かった。

 しばらくすると、テーブルに料理が届いた。

 寿司を始めに、天丼や親子丼や牛丼や焼き鳥丼、うどんやそばやラーメンや味噌汁。

 みんな、コレは本場の日本食と比べてどうなのかと訪ねてきた。

 はじめはコレのこういうところがちょっと違うかなとかなんとか説明していたけれど、途中からはその説明も少し雑になってしまった。

 そもそも、ペトリとヴィーラは日本に来たことがあり、年単位で住んでいたこともあった。

 何を今更確認したいのだろうと、ちょこっと考えてみたが、インガが質問しやすいように、自分たちが先んじてそういう空気を作り出しておこうとでも思ったのかも知れない。

 ぼくたちは、テーブルの写真を撮ってから、食事を始めた。

 料理は、どれもこれも美味しかった。

 牛丼の肉が分厚い焼肉のようになっていたり、味付けが少しばかり濃い目だったりはしたけれど、米の硬さも麺の硬さもちょうど良く、寿司も美味しい。

 もしかすると、日本人が料理しているのかも知れない。

 料理の間、ペトリとヴィーラから、それぞれ動画や写真の撮影や編集について話を聞いた。

 帰り道では、二人の助けを借りながら、写真や動画を撮った。

 リトアニアの女性はヴィーラしか知らなかった。

 だから、明るくて気さくなインガと知り合えて良かった。

 彼女は、機会があればフィンランドに来て、一緒に仕事をしたいと言った。

 ペトリもヴィーラも、そしてぼくも、ぜひ来て欲しいと言った。

 その日は、夕方からみんなで酒を飲み、そして、ぼくはまた吐いた。

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