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第16話 ヴィリニュス

6月8日 13時11分



 ぼく、ペトリ、ヴィーラは、ヘルシンキ・ヴァンター空港にいた。

 ぼくはリュックサック、ペトリはレザートランク、ヴィーラは手ぶらだった。

 ヴィーラは、サングラスをかけ、ボルドーのフェルトコートを身にまとっている。

 さすがモデルというかなんというか、格好良かった。

 翻訳の仕事は、リモートでも行うことが出来た。

 メールで送られてくるものを翻訳するだけだ。

 ペトリの映画撮影や、ヴィーラの撮影の手伝いも出来る。

「せっかくだから、観光も楽しんで来て」愛美は言った。「お土産待ってる」

 ぼくのノルマは、短編の脚本、小説、絵本の翻訳を一日に三作。

 リトアニアにいる間は、二日に五作で良いと言ってくれた。

 ぼくは、初めての成功を収めたことで、少しばかり気分が高ぶっていたので、一日に三作のノルマは今まで通りこなしていくつもりだった。

 先日のアルメニアの小説家は、十四歳の女の子だった。

 コロナでお父さんの仕事が無くなってしまい、厳しい生活の中で小説家という夢を実現出来たことや家族の助けになれたことを喜んでいた。

 ぼくは、今朝の会議で、会社の収益になる二百ユーロを、その女の子のために使ったらどうかと提案した。

 ちょうど株の発行を考えていたらしく、その株の一部と、Pixel4aとChromebook、お父さんの再就職に役立ちそうな情報のいくつかを書類にまとめた物を女の子に送ることにした。

 今朝、愛美は初めての仕事の成功のご褒美として、ぼくにHPの14インチのChromebookをプレゼントしてくれた。

 モチベーションも上がろうというものだ。

 空港構内の景色も、初日にやってきた頃より輝いて見える。

 やはり、何事も成果が見えると楽しくなってくるものだ。

 手荷物検査を終えたぼく達は、トランジットに足を踏み入れた。

 カフェでランチを食べていると、ペトリは「一服してくる」と言って、席を立った。

 ぼくはヴィーラを見た。

 サンドウィッチを食べ、ビールを楽しんでいる。

「一服って?」

 ヴィーラはビールのグラスを置いた。「タバコ」

「冗談だろ」

「他にも吸ってる人を知ってるわ」

 ぼくはうなずいた。「肺ガンが怖くないのかな」

「わたしだって肝硬変を気にすることはあるけど、体調が悪くなるまではお酒を控えるつもりはないわ」

「肝硬変になるまで飲むなよ」

「人である以上、社会生活は避けられない。つまり、アルコールの摂取も避けられないってこと」

 ぼくはうなずいた。その理屈は少しおかしいような気がしたけれど、ヴィーラのような対人恐怖症には、うなずける理屈なのかも知れない。「ヨーロッパの文化ってことかな」

 ヴィーラはほくそ笑んだ。「日本にいるとき、タバコを吸ってる中学生からナンパされたことがある」

「それは、多分良くない子達だよ」

「育ちが良くない感じはしたわ。そっち見たら、あわあわ言って引っ込んでった。かわいいなーって思った」

「モテる女は大変だね」ぼくは、うなずきながらニシンのオープンサンドを食べた。脳裏に浮かぶのは、先日、ヘルシンキの大学で新しいメソッドを発見したときの出来事。まさか、ペトリ。話したのだろうか。「コレ美味しい」

「デンマーク料理ね。せっかくフィンランドにいるんだからトナカイにしなさいよ」

「北欧に来たのなんて初めてだよ。全部新しくて、刺激いっぱいだ。どれがデンマークでどれがフィンランドかわかるようになるまでは、食べたいものを食べるさ」

 ヴィーラはうなずいた。「あっちについたら、リトアニアの美味しいものをたくさん教えてあげる」

 ぼくは微笑んだ。「楽しみだ」

 その時、アナウンスが響いた。

 そばにあった電光掲示板を見れば、ヴィリニュス行きの飛行機の搭乗手続きが始まるところだった。

「行こうか」

 ヴィーラは自分の前に置かれている皿を指差した。「まだ残ってる。急がなくても大丈夫よ」



16時20分



 ヴィリニュス国際空港は、ヘルシンキ・ヴァンター空港よりもこじんまりとしていた。

 空港を出ると、凍えるような春風が出迎えてくれた。

 爽やかで、湿気のない軽やかな空気に、緑の香りが乗っている。

 過ごしやすそうな空気だ。

 ぼくたちは、市内へと繋がるバスに乗った。

「懐かしいな」ペトリは言った。

「最後に来たのは?」

「三ヶ月前だったかな」

 ぼくは、ペトリとヴィーラの会話を聞きながら、スマホでヴィリニュスとリトアニアについて調べていた。

 一番はじめに目に着いた情報は、ヨーロッパでトップクラスの殺人件数を誇るという、ネガティブなもの。

 続いて目に着いたのは、アルコールの摂取量が高いというもの。

 大丈夫なのだろうかと思いながら、ぼくはリトアニア出身のヴィーラを見た。

「ヴィーラ、ヴィリニュスで気を付けたほうが良いことってある?」

 ヴィーラは首を傾げた。「平和な街よ」

「タクシーに乗るときは注意が必要だな」ペトリは言った。「エロい店に連れて行かれそうになっても、結婚してると言い張れ」ペトリはウィンクをした。

 ぼくはヴィーラを見た。「妻のフリしてくれる?」

 ヴィーラは、驚いたように目を見開いて、数秒置いて、声を上げて笑った。「ええ、良いわよ。新婚旅行中で、結婚に反対している人種差別主義者の両親を説得しに行くっていう設定ね。ペトリは仲介のために雇われた弁護士で行きましょう」

 ぼくは笑った。「なんだって? 人種差別主義?」

「古風な人が多いの。鎖国が終わったばかりの日本を思い浮かべてくれれば良いわ」

「思い浮かべろも何も、そのときはまだ生まれてない」

 ペトリは笑った。「そうだな。リトアニアは、物価は安くて、最低賃金はそれなり。でも、国外に出る人はそれほど多くないんだ。だから二種類の人がいる。一つは外国人に対してネガティブな偏見を持つ人、もう一つはポジティブな偏見を持つ人。後者はヒトシに対しても興味を示すだろうから、クラブなんかで出会ったら仲良くなれるぜ。前者は、君に対して何人だ? って聞いてくる。その時は、正直に本当のことを言えば態度が丸くなる。日本人で良かったな」

 ぼくはうなずいた。「その、さっき調べたんだけど、殺人件数が多いって」

 ヴィーラは暗い顔をした。「そうね。でも、ヴィリニュスは平気。貧しい地域だとそういった問題はある。でも、人口自体がそれほど多いわけでもないし、それに対する事件の発生比率が相対的に多いってだけ。発生件数で言えば、パリやロンドンやローマのほうが多いわ」

「それにキレイな街だ。ヘルシンキだと金曜の夕方から日曜の昼までは、街のあちこちにゲロが落ちてる」

「ああ、それはぼくも気が付いてた」

「ヘルシンキの方が過ごしやすいけど、数少ないうんざりする点ね」

「おいおい、きみだって前にぼくの故郷にゲロを吐いただろ」

「お黙り」

「はーい黙りまーす」

 ぼくは、二人の会話を聞きながら笑った。

 楽しい旅行になりそうだと思った。



19時50分



 ぼくたちは、ピリエス通りという、比較的賑やかな通りのアパート、その四階にいた。

 2DKの小さなアパート。

 カラフルな家具は、全部イケアだった。

 通りを行き交う人々の笑い声が聞こえてくる、良いエリアだった。

 通りのあちこちにはカフェやジェラテリアがあり、ヴィリニュス大学が近いこともあって、大学生たちが通りを行き交っている。

 ぼくたちは、コンパクトなダイニングで料理をしていた。

 ぼくとペトリはダイニングテーブルで野菜を刻み、ヴィーラはキッチンで撮影をしている。Instagramにアップするつもりらしい。

「ここからすぐの場所に、ゲディミノ通りがあるんだ。この国で一番のショッピングストリートさ。祭日は、ゲディミノ通りから駅の方まで屋台が出てる。良い街だよ」ペトリはニヤリと笑った。「女子大生のおねえたまたちは可愛いしね」

「こういう奴が刺されるのよ」ヴィーラは言った。「あなたは平気よ。ダーリン」

 ぼくは、小さく笑った。「了解ですハニー」

 ヴィーラは暖かく微笑んだ。

 彼女の表情が、少しばかり柔らかくなっている。

 こころなしかリラックスしている気がする。

 多分、故郷に帰ってきたからだろう。

 ペトリは笑った。「せっかくリトアニアに来たんだぜ? ナンパくらいさせてくれよ」

 ヴィーラはため息を吐いた。「グザヴィエの影響を受けすぎよ。二年前はもっと引っ込み思案でうじうじしてたのに」

「人は変わるもんだ」

「悪い方に変わってる気がする」

「意見が分かれるところだな」

「そうかしら。ヒトシはどう思う?」

「ぼくは……、そうだな……。巻き込まないで」

 ペトリは笑った。「なあ、ぼく達は何を作らされてるんだ?」

「シャルチバルシュチャイ」

「土着信仰の魔女が作るピンク色のスープだ」ペトリは、ぼくに耳打ちをした直後、背後から飛んできたニンジンを後頭部に食らった。「まずいとは言ってないだろ? ただ、牛肉は温かくして食べたい」

「このスープは冷たいものなの」ヴィーラは、考えるようにしてぼくを見た。「温かいのと冷たいのどっちが良い?」

「温かいほうが好きかな」

 ヴィーラはうなずいた。「じゃあ、そうしよっか。美味しく食べて欲しいし、暖かくするのもアリだから」

「ありがと」

「せっかくだから楽しんで欲しい。最終日には実家に行く予定だけど、良かったら一緒に来る?」

「良いの?」

「みんな歓迎するわ。友達と一緒に帰れば家族が安心するし」

 ぼくはうなずいた。「じゃあ、お邪魔するね」

 ヴィーラはうなずいた。「ペトリは?」

「ぼくも良いかな」

「うん」

「じゃあ行かせてもらう」

 その日のディナーは、ゆったりとした雰囲気で始まった。

 ダイニングのあちらこちらにはキャンドルが灯される。

 テーブルの上には、ライ麦パンとピンク色のスープ。

 スープにはゆで卵が浮かび、お皿にはポテトが添えられている。

 ペトリが魔女のスープと言ったけれど、その見た目はまるっきり言葉の通り、魔女のスープっぽかった。

 周囲で揺らめくキャンドルの明かりも相まって、魔女の集会のような気がしないでもない。

 ぼくは、ヴィーラに合わせてカトリック式の食前のお祈りをした。

 お祈りを終え、夕食の開始だ。

 ぼくはスプーンでスープをよそい、口に含んだ。

「どう?」

「美味しいよ。初めて食べる味」

「本当?」

「ああ」

「良かった」ヴィーラは微笑んだ。「ペトリは?」

「美味しいよ。牛肉はやっぱり暖かくないとな」ペトリは、瓶ビールを開けた。「そしてコレだよ。リトアニアに来たら、やっぱりタウラスビールだな」

「わたしは、リトアニアに来たらお酒は飲まない」

「なんで?」

「アル中に間違われたくないから」

 ぼくはうなずいた。

 どうりで、ヘルシンキを出る前にしこたまビールを飲んでいたのはそういう訳だったのだ。

 ペトリは、一息で瓶を飲み干すと二本目を開けた。「リトアニアのビールは美味いからな。アル中になってもしょうがない」

「しょうがないわけないわ。深刻な問題よ」言いながらも、ヴィーラはウズウズしていたし、先程からペトリのビールを目で追っていた。

「わかったよ。でも、ぼくは飲む。ヒトシもどうだ?」

「今は良いかな」ぼくはライ麦パンをちぎって口に含んだ。「美味しい。初めて食べるけど、どれもコレも美味しいんだね」

「ヴィーラ。料理を褒められたな」

 キャンドルの明かりしかないのでよくわからなかったが、ヴィーラの耳は赤く染まっていた。

 可愛い。

 好き。

「わたしは、明日は講演があるけど、二人はどうするの?」

 土日と水曜日はお休みという話だったけど、ぼくはそのどの日も、翻訳の仕事をしていた。

 一日六時間だけだし、始業は十時という眠気も飛んだ時間からで、終業は十六時という、まだまだ体力の有り余っている時間。

 リラックスした空気の満ちたオフィスで、レッドブルやビールを飲みながら作業をしていると、仕事をしているという感覚もなく、あまりストレスも感じなかった。

 正直言って、今の仕事なら年中無休で働ける。

「ぼくは、とりあえず今日のノルマを片付けないと。明日も三作こなして、そのあとはわからないな」

「ぼくは、撮影をするよ」

「ナンパじゃなくて?」ヴィーラは言った。

 ぼくは笑った。「トライアングル・メソッドが必要だったら電話してくれ」

 ペトリは笑った。「確かにそれもあるけど、エキストラ候補と一緒に街を歩くのさ。デパートでランチなんかも楽しんで、そのあとは」

「どこでやるの? ここはダメよ」

「ホテルを借りるよ」

 ヴィーラは鼻を鳴らした。「リトアニアの女を舐めるな」

「そうだぞ」ぼくはヴィーラの肩を持った。好かれたいからだ。「リトアニアの女の子は紳士が好きなんだ」

「それならぼくの出番だね。心配ありがとう」

 ヴィーラはぼくを見た。「大丈夫。明日の朝には通りで死んでるわ」

「だろうね」ぼくはスープを啜った。

 ヴィーラはニヤリと笑った。

「講演に行っても良い?」ぼくは聞いた。

「良いわよ」ヴィーラはペトリを見た。「あんたはダメ」

 ぼくは笑った。

「でも、リトアニア語でやるわ。大丈夫?」

「リトアニア語ならちょっと勉強したよ。アチュー、ラーバス、アッツィプラショー」

「すごーいっ」ヴィーラはからかうように言った。

 ぼくはウィンクした。「お安い御用だ」

 ヴィーラは笑った。

 ぼくとペトリは、顔を見合わせた。

 いつも、疲れ切ったような感じでソファに寝転がっているヴィーラだけれど、今は、なんだか楽しそうだ。

 そんな彼女を見ていると、なんだか心が暖かくなる気がした。「ペトリ、ぼくもビール飲もうかな」

「あぁ、たくさん買ってあるから飲もう」

 ぼくは、ビールの瓶を二つ取り、両方の栓を開けて、一つをヴィーラに差し出した。

 ヴィーラは、困ったように微笑んだ。「ダメよ」

「良いだろ。初日だし」

 ヴィーラは、説得力のないぼくの言葉に、少し悩み、「しょうがないな」と言って、瓶を取った。

 ぼくたち三人は、乾杯をした。



21時30分



 結局、ぼくもペトリもヴィーラも、一本だけで済むはずもなかった。

 ペトリが調達したビールはすべて無くなった。

 ぼくたちは、ピリエス通りを歩いていた。

 石畳の続く、ゆったりとした坂を下っていくと、大きな白亜の大聖堂と塔がそびえ立つ広場にたどり着いた。

 大聖堂の表には大きな彫像が立っていて、オレンジ色にライトアップされている。

 ゲディミナス大聖堂というらしい。

 広場のあちらこちらからは、若い男女の笑い声が聞こえてきた。

 良い雰囲気だ。

「祝日には、この広場に色々出るの。クリスマスだと、ツリーっぽいイルミネーションとか」

「キレイだね」

「人が多いからあんまり好きじゃないけど、今は静かな方ね」

「それで、スーパーマーケットはどこだ?」ペトリは言った。

「すぐそこよ。デパートで買っても良いけど、個人のお店にお金を落として行きたい」

 ヴィーラの案内でたどり着いたお店は、個人が経営する雑貨店だった。

 ぼくたちは、そこでビールとワインとウォッカと数種類のジュースを買った。

 かなりの金額になったけれど、愛美から渡されていた滞在費の中から見れば一割にも満たない金額だった。

 まあ、三日分のお酒だと思えば大丈夫だろう。

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