第15話 ヴィーラとデート

6月7日 5時34分



 ぼくは、静かなヘルシンキの街を走っていた。

 海沿いを走っていると、周囲に比べて、一際高い尖塔が見えた。

 いつも見かけるその尖塔だったが、今まではそこまでは行かずにアパートに帰っていた。

 今日は、なんだか走りたい気分だったので、そちらへ向かうことにした。

 傾斜の急な坂を駆け上がれば、その先に待っていたのは教会だった。

 ぼくは、その教会の写真を撮り、駆け上がってきた坂とは別の坂を駆け下りた。

 湖を左手に走っていると、芝生の中に、ガラス製の建物が見えた。

 レストランのようだ。

 湖には、白鳥や海鳥。

 静寂を遮るのは、時折通りを走り抜ける車だけ。

 北欧は空気がキレイだと聞いていたけれど、実際その通りな気がする。

 走るのは好きだけれど、ここでなら、息切れしないで、どこまでも走り抜けられそうだった。

 アパートのある通りまで戻り、数人の通行人とすれ違う。

 階段を駆け上がり、部屋まで戻ってシャワーを浴びる。

 清潔な服に身を包み、朝食を作る。

 オフィスは愛美とウルシュラとナタリアの住む部屋でもあるので、七時までは立ち入りが禁止されていた。

 一方で、ヴィーラは七時以前も立ち入りが許可されていた。

 女性だからだ。

 ぼくは、キッチンに立ち、朝食を作り始めた。

 その間に、英語のニュースサイトをめぐり、記事をいくつか読んでいく。

 翻訳の仕事のおかげで、英文もスラスラとはいってくる。

 もとより、英語の授業は得意だった。

 ただ、授業用の英語ばかりで、実用的な英語は培ってこなかったのだ。

 そして、授業用の英語のおかげで、実用的な英語の上達が早いのは疑いようもなかった。

 ぼくは、朝食を食べながらニュースの記事を読み、食べ終えてからは、コーヒーを飲みながらニュースを読み続けた。



16時32分



 三作目の翻訳を終えたところで、愛美が声をかけてきた。「お疲れ様。翻訳上手くなってきてるね」

「きみに編集させてるうちはまだまだだよ」

「意気込みすぎないで。ビールもあるから、みんなみたいに飲んで良いよ」

「なんでみんなそんなに飲み慣れてるんだ?」

「インターナショナルスクールだから、みんな十二歳の頃からこっそり飲んでるの。人に迷惑をかけない、好奇心を満たしたいってなったら、自分の肝臓に迷惑かけようってなるのよね」

「なるほど」

「妊娠しても学園から保証が出るし、保育園もあるから退学にならないの。ついでに言えば、ピルもゴムも保健室でもらえる」

 ぼくは笑った。「来年から通うよ」

「待ってる」愛美は、ぼくの前に二十ユーロ紙幣と五十ユーロ紙幣を数枚載せた。「ほら、明日からしばらくリトアニアでしょ? 服とか買ってきなよ。余ったら、ヴィーラとディナーでも楽しんで。必要経費で記録しておく」愛美は、ニチャニチャしながら言った。

 どうやら、ぼくがヴィーラに惹かれているのは、ヴィーラ以外のみんなが知っているようだ。「ありがと」

 愛美は一転して、爽やかに微笑んだ。「こっちこそ、いつもありがと」

「なにが?」

「仕事」

「給料ももらえて、勉強もさせてもらえてる。ありがとう」

「きみの存在がメンバーの刺激にもなってる。ありがとう」

「終わらないから行くね」

 愛美は小さく笑った。「おう」

 ぼくは、ヴィーラに声をかけた。「服買いたいんだけど、リトアニアらしさがわからないんだ。一緒に来て欲しいな」ぼくは英語で言った。

 ヴィーラは、パチパチとまばたきをした。「良いわ。英語話せたのね」ヴィーラは英語で言った。

「勉強させてもらってる。良い職場だよ」

 ヴィーラは小さく微笑んだ。彼女は、グラスに残っていたワインをすべて飲み干し、ソファから立ち上がった。

 立ち上がった彼女は、ぼくを見下ろした。

 こうしてみると、彼女の背の高さが際立つ。

 聞くところによると、彼女の身長は180cmもあるらしかった。



17時7分



 ぼくたちは、H&Mで服を揃えた後、寿司屋に来ていた。

 荷物は現地調達という、愛美の方針を真似したので、ヴィーラに選んでもらったリトアニアらしい服は一着。

 小さなリュックサックに入れる分だけにした。

 寿司を握るのは金髪で無表情の、背の高い男性。

 多分フィンランド人だ。

 ぼくとヴィーラは、テーブルに付き、向かい合っている。

 テーブルには、サーモンやエビや白身魚。

「わたしはリトアニアのヴィリニュス出身なの。学園では民俗学を研究してる。それに関する講演をヴィリニュス大学でして欲しいって言われたの」

「すごいね。高校生なのに」

「大学院生よ。学園内では飛び級制度があるの」

 ぼくはお茶を啜った。「なんだか、みんなぼくとは次元が違いすぎる」

「そうね。だから、別の次元にいる人がチームに必要なの。同じような人ばかりがいてもしかたないでしょう? リラックスして。みんなヒトシがチームにいることについてポジティブに考えてる。わたしたちの中で、一番訪問ユーザーの視点に近いのはあなた」

 ぼくはサーモンにわさびを少し載せ、醤油をつけた。「このあいだ。サイトを見てみたんだ」

「どう思った?」

「シンプルで見やすいと思った」

「刺激を少なめにしてるみたいよ。ウルシュラとしては、ネットの刺激に疲れたユーザーの休憩所にしたいようね。刺激を求め過ぎたらキリがないけど、リラックスを求めるならシンプルを追求すれば良いだけで簡単だし」

「ぼくも、本を読むのは好きなんだ。人と関わるよりもね」

「わたしも。文章を読んでいると落ち着く」

「ワイン飲むのも同じ理由?」

 ヴィーラの頬が赤くなった。「水みたいなものなの」

 ぼくは笑った。「アル中?」

 ヴィーラは小さく笑った。「違うわ。ただ、数年前までは、授業中も飲んでた。今はその時の名残」

 ぼくは笑った。「授業中も?」

「そうしないと落ち着かなくて。先生からリモート学習を進められてからはお酒の量も減ったけど、いつ頃からかワインの香りが気に入りすぎちゃったの」

「人と関わると、パニックになったりする?」

「場合によってはね」

「ぼくも同じだけど、お酒が必要なほどじゃないな」

 ヴィーラはアジの寿司を食べた。「コミュ障には補償が欲しいよね」

「ほんとそれ」

「学校にしろ仕事にしろ、集団生活を強いられたら、絶対にパフォーマンスが落ちるし。そうなったら成績にも収入にも影響が出る。リモートワークの普及は、おそらく多様性が認められ始めていることの証拠でもあると思うわ。集団に対して配慮をしすぎる人は、配慮しないっていう選択肢を取るのが難しい。環境からの影響を完璧に遮断するのが難しいからね。そういう人は、自我の発達が遅れる場合がある」

「きみは?」

「わたしは、上手いこと対処法を見つけられたから多分問題ないけど、自分じゃわからないわ。あなたはどう思う?」

「いつもリラックスしてて素敵だと思ってるよ」

「ありがと」

 ぼくは、アジの握りを食べた。「そういえば、地元にきみの友達はいるの?」

「いるよ」

「恋人とかも?」

「いない。いたこともあるけど、疲れちゃって」

「疲れる?」

「心が満たされる感覚もあるけど、お互いに対して常に思いやりを向け合う関係は、ちょっと向いてないかなって」

 ぼくはうなずいた。「自分が盛り上がっている間は良いけど、相手が自分よりも盛り上がってると疲れるよね」

「そんな感じ。人付き合いは好きよ。ただ、常日頃から一緒にいると疲れる」

「わかるよ」

「その点で共感出来る人じゃないと難しいって思ったの。つまり、わたしと同じようなタイプの人ね」

「明日から、ぼくとペトリと三人だけど、大丈夫?」

「平気。ヒトシもペトリもわたしと似たようなタイプだし、仕事の関係ならパーソナルスペースを踏み越えてきたりはしないでしょ?」

「大人の関係だね」

「それが出来ないなら、一緒に仕事するのも難しいわ」

 ぼくはうなずいた。「肝に銘じておくよ」

 ヴィーラはうなずき、白ワインを啜った。「すごい。英語話せてる」

 ぼくは小さく笑った。「まだまだだよ。でも、ありがと」

 ヴィーラは微笑んだ。「努力出来る人間は好き。わたしたちは、世間の大半の十七歳より成熟してる。その中でやっていくのは大変でしょ?」

「そんなふうに思ったことはないな。すごいと思ったりはするけど」

 ヴィーラは微笑んだ。「トーキョーではなにをしてたの?」

「普通の高校生だよ。このプロジェクトに参加したきっかけは、高校の課題。英語の本を一冊読んで英語で感想を書くっていう内容。その課題の本を選んでくれたのは、ぼくの友達で学園の子。その友達から、このプロジェクトに推薦してもらったんだ」

「その友達とは、どこで出会ったの?」

「中学生の頃、ぼくの学校に転校してきたんだ。気が合ったから仲良くなった。一人が好きな者同士でね」

「一人が好きなようには見えないわ」ヴィーラはうなずいた。

「退屈な連中とか、不愉快な連中と一緒にいることに価値を見い出せないんだ」ぼくは緑茶を啜った。「足を引っ張ったり、人の邪魔をしたり、人を試したり。自分にやりたいことがないから、前や上を見て動いてる人が気に入らないのさ。そういう連中が嫌いでね」

「わたしもそういう人は嫌い」

「みんな、やりたいことをやってる。プロジェクトの成功に向けて頑張ってる。居心地が良いよ」

「わたしは、小さい頃からモデルをやってたんだけど、なりたくてなったわけじゃない。家族は裕福な方じゃなかったから、どうにかしてお金を稼ぎたいと思ったの。北欧や東欧の女性はキレイだって言われてるのはわかってるから、Instagramに写真を上げて、国外に向けて情報を発信したの。あっという間にフォロワーもついて、お小遣いが入るようになった。妹たちも家族も、明日の朝食を気にせずに日々を過ごせてる。自分が少しだけ誇らしく思えるようになってから、日々が楽しくなってきた」

 ぼくは、うなずきながらヴィーラの話を聞いていた。

「DMの管理はマネージャーに任せてるから、最近は不愉快な思いをすることも減ってきた。以前までは世界中の変態からのDMに悩んでたわ」

「大変なんだね」

「男が苦手になったわ」ヴィーラは、ドボドボと白ワインをグラスに注いだ。「平穏な日々を過ごしたいだけなのに、それだけのことに苦労しなくちゃいけないなんて変な話よね。今は、もう少し西の方に家を買いたいと思ってるの。生まれ育った故郷は好きだけど、お隣がロシアだと、大国の些細な動きにも心臓が痛む。いつ情勢が不安定になっても良いようにね」

 ぼくも白ワインを啜った。「世界が平和になると良いね」

「それを実現させるために頑張るのも楽しいわ。そのために大事なのは、自身と周囲を充実させること」ヴィーラはワイングラスに手を伸ばし、ワインを一口含んだ。「アクション映画は嫌いなの。暴力を美化して、奨励するのは間違いよ。この世の中に、必要悪なんてものはない。だから、昨日はあなたの言葉に反対した。不愉快に思ってなければ良いと思ってたけど、そういう感性の持ち主じゃなくて良かったわ」

 ぼくは小さく微笑んだ。「大人の関係って言ったけど、友達くらいにならなれるかな?」

「職場に友達を作りに来てるの?」

「違うよ」

「それなら友達になれる」

「難しい人だね」

「難しい人は嫌い?」

「好きだよ」

「わたしも」

 ぼくは笑い、メニューを取った。「次は何を頼もうか」

「おすすめは? 食べ慣れてるでしょ?」

「きみだって、日本で暮らして長いだろ?」

「本場の人には負けるわ」

 ぼくはメニューに視線を走らせた。「ヒラメと、鯛と、いくらと、数の子、ツナマヨの軍艦、ねぎとろ軍艦……」



21時30分



 ぼくたちは、肩を組み、フラフラとした足取りで、アパートへの道を進んでいた。

 ヴィーラは鼻歌を歌っている。

 楽しそうで何よりだ。

 ぼくも彼女に合わせて鼻歌を歌ったけど、これは一体何の歌だろう。

「国家よ」

「渋い」

 ヴィーラは、ピタ、と、足を止めた。

 彼女の灰色の瞳は、通りの先を見ていた。

 そこには、黒い人影がいた。

 街灯の明かりが、黒い人影をくっきりと浮かび上がらせる。

 人影は、こちらを見ると、身を翻し、そそくさと逃げて行った。

「なんだろうね」

 ヴィーラは首を傾げた。「ホームレスかも知れないわ」

「シェルターはないのかな」

「あるはずだけど、中には自分から避ける人もいる」

「なんで?」

「陰謀論を信じる人は国とか権力者を信じない。福祉に頼ろうとしないからホームレスになるっていう人もいるわ」

 ぼくはうなずいた。

「個人レベルでのプライバシーは尊重されるべきだけど、組織や団体には透明性を求めたいわね。間の抜けている人にも明瞭にわかるくらいには」

「そうだね」

 ぼくたちは階段を上がり、オフィスに入った。

 テーブルの上のランプだけが点いている。

 昼とは打って変わって、窓の外の街明かりと星明り、そしてたった一つのランプだけが照らす薄暗い空間は、なんだかしっとりと落ち着いた雰囲気で満ちていた。

 オフィスには、愛美、ナタリア、ウルシュラがいた。

 愛美とナタリアは、窓枠に腰を落ち着けてくつろいでいた。

 愛美は瓶ビール、ナタリアはワインを飲んでいた。

 テーブルに腰を下ろすウルシュラのそばにもワイングラスがあったが、彼女は、それには手を付けずにカタカタやっている。

 彼女がカタカタやっていない時を、長いこと見ていない。

 最後にカタカタやっていなかったのは……、空港で初めて顔を合わせたときだ。

「あ〜、れで〜の部屋に入って来ちゃダメだよ〜」愛美は舌足らずに言った。

 ナタリアは微笑んだ。無表情な彼女にしては珍しい。「一杯飲んでいく?」

「良い?」

「どうぞどうぞ」

 ぼくとヴィーラは、それぞれ、ワイングラスを一つ持っていった。

 ナタリアはワイングラスにワインを注いでくれた。

「いつも酔っていれば良いのに。無表情よりもそっちのほうが好きだ」

 ナタリアは小さく笑った。「ヴィーラ。ヒトシをナンパザルに変えちゃったワケ?」

 ヴィーラはほくそ笑んだ。「良い人よ。ヒトシはサルでもブタでもないわ」

「ヴィーラが言うなら間違いないわね」ナタリアはぼくを見た。「ほらほら、ぐぐっと」

「あ、うん」ぼくはワインをごくごくと飲んだ。「ほんと、昼間とは全然違うね」

「わたしは秘書だからね。仕事中はキリッとしてないと」

「きみは何かやってないの? ヴィーラはモデルに女優、ペトリは映画。きみは?」

 ナタリアは微笑んだ。「英語話せるようになったんだね」

「まあね」

「わたしは、自分でやりたいことがあまりないの。リュックサックを背負って世界中を周りたいけど、卒業するまではやりたいことがある人たちのフォローをするだけ。このスタンス、結構気に入ってるの。情熱のある人たちといると老けないし。あなたもやりたいことがあったら言って。いつでも手伝うわ」ナタリアはウィンクをして、目の動きだけでヴィーラを示した。

 ぼくは笑った。「その時は頼むよ」

「アイミと話してたんだけどね、あなたちゃんと成長してる。はじめは正直不安だったけど、今は認めてるわ。上から目線でごめんね。でも、社会経験はなかったでしょ?」

「今もあるとは言えないね」

「でも、収益に貢献してる。さっき、フランスの出版エージェントから返事があった。作品を二つ買いたいって。ポーランドの作品とアルメニアの作品。アルメニアの作品は、あなたが翻訳したもの」

「いくら入った?」

「千ユーロ。そのうちの二百ユーロがこっちに入ってくる。八百ユーロはアルメニアの子に。現地の人にとっては数ヶ月分の月収になる。重版されれば、それに連れて収入も入る。良い仕事したね」

 ぼくは、自然と笑顔を浮かべていた。「やった」

 ナタリアも、笑顔を浮かべていた。「この調子で頑張ろ」

「アルメニアの子からお礼のメールが来てるよ」ウルシュラは言った。「明日の朝に読もうと思ったけど、どうする?」

「今聞きたい」

 ウルシュラは、小さく笑った。なんとなく作り笑いな気がしたけど、彼女の気持ちが嬉しかった。「読むわね。ーー」

 そのメールを聞きながら飲むワインは、この一週間で口にしたどのお酒よりも美味しかった。

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