第14話 出張

6月6日 14時53分



 ぼくは、短編映画の脚本の翻訳を終えたところでキッチンへ向かい、レッドブルを持ってテーブルへ戻った。

 ペトリは瓶ビールを飲みながら、脚本の翻訳と編集をしていた。

 今は小さなスランプに陥っているようで、脚本を見ていれば良い刺激を得られると思ったらしい。

 ウルシュラは、相変わらずセキュリティの構築。先日のルーニー先生による襲撃を受けて、強固なセキュリティを設けるとともに、侵入者を撹乱する策を思いついたらしい。つまり、別の宝を用意してそれに誘導するというものだ。ダミーの宝を手に入れた侵入者は、満足して去っていくというわけだ。簡単に手に入れさせてしまっては信憑性にも欠けるとのことで、ダミー誘導はセキュリティの第七段階の先に設けたらしい。

 愛美は翻訳の傍ら、どこかと電話をしながら、メモを取ったりしていた。右手でブラインドタッチをしながら、左手でペンを握っている。彼女の頭はどうなっているんだろう。おそらく、右脳と左脳が二つずつあるに違いない。

 ナタリアは、二つのChromebookを前に、カタカタと両手でブラインドタッチをしていた。

 どいつもこいつもどうなってるんだろう。

 ヴィーラはワインを啜りながら、ぼくと同じように一つのChromebookを両手で操作して、黙々と作業をしていた。それでも、ぼくが一日に二作の翻訳をするのが精一杯なのに対して、彼女は十作近くを仕上げていく。

 そして、それは他のみんなにも言えることだった。

 加えて、みんな日本語と英語以外にも複数の言語を扱えるので、英語の作品を日本語に、日本語の作品を英語に翻訳するので精一杯なぼくと違って、こなせる仕事の幅も広い。

 翻訳アプリのようにノータイムで翻訳してくれる機械なんかもあるけど、こうしてみると、機械を介さなくてはいけないことの非効率性が伺えた。

 もちろん、今のぼくは翻訳のアプリがなければ一日に一作も仕上げられないことを考えると、確かに便利ではあるけれど、やっぱり日本語を扱えるように英語やその他の言語を扱えれば、効率はさらに上がるだろう。

「あれ?」ヴィーラは首を傾げた。彼女は、Chromebookのモニターを見て、ため息を吐き、ぼくを見て、オフィスを見渡した。「だれか、一緒にヴィリニュス行く?」

「いつ?」愛美は水を啜った。

「明後日」

「いってらっしゃい。お土産待ってる」

 ペトリはぼくを見た。「ぼくも無理だな」

 ぼくはヴィーラを見た。「ぼくは行きたいかも。ヴィリニュスってどこ?」

「リトアニア」ヴィーラは言った。「フィンランドの下にエストニアがあって、その下にラトビア、リトアニアがあるのはその更に下」

「わたしも行く」ナタリアは言った。

「きみは仕事が忙しいんじゃないか?」ペトリは言った。「優秀なきみがいなかったら、このオフィスを誰が回してくれるんだ?」

「わたしはみんなの秘書だから出張のときはついていくの。アイミがいるから寂しくないでしょ?」

「わたし、ナタリアの料理がないと生きてけない」そう言ったのはウルシュラだった。彼女は、ぼくを一瞥してうなずいた。ぼくとヴィーラを二人きりにしてやるということらしい。

 ナタリアは、ウルシュラの一瞥の先にいたぼくを見て、「あぁ、そういうこと」と、言った。「じゃあ、わたしは残るわ。ペトリがついて行ってあげたら?」ナタリアは、おどけるような顔をして、ウィンクをした。彼女はおどけるような顔もウィンクも慣れていないようで、かなり不器用だった。

「やめろよ」ペトリは、その不器用なウィンクに失笑を漏らしながらもうなずいた。「そうだな。ぼくは撮影してくるよ。ヒトシはヴィーラの荷物運びでもしてやれば良いさ」

 ぼくはうなずいた。



15時54分



 終業前の短い会議が始まった。

 ぼくはキーボードを叩く手を止めた。

 みんなは、作業をしながら会議に加わった。

 はじめのうちはカタカタとうるさくて、愛美や、カタカタやりながら発言をするメンバーの話に集中出来なかったけれど、それも、今ではすっかり慣れてしまっていた。

 愛美はコーヒーを啜った。「作品を見てきて思ったんだけど、これから募集する作品はほのぼの系だけにしない?」

 みんな、返事をしたり手を上げたりと、各々の形で賛成した。

 ぼくは、人差し指を立てた(はじめは学校の授業でやるように手を上げていたのだけれど、チェコ出身のウルシュラから、それはヨーロッパと国際的な場ではまずいサインだから、人差し指を立てたほうが良いと注意を受けた。普段はPCのモニター以外には無関心な彼女がわざわざ口を開いたくらいだから、これはよっぽどのことだろうと思い、ぼくはそこを改め、後日それについて調べた所、手を上げることがタブー視されるようになったのは、第二次世界大戦でとあるグループが、ネガティブな意味で名を轟かせてからのことらしいと知った。それ以来、ぼくは、意識して人差し指を立てるようにしていた)。「ハリウッドにも負けないアクション系とかもあったし、それは売れるんじゃないかな」ぼくは言った。

 テーブルの視線がぼくに集まった。

 愛美はうなずいた。「確かに、投稿作はどれも優秀だと思った。アクションもそうだし、日常系とかもね。感受性の豊かな人たちの注目を集められたようで良かったわ」

「ぼくは、アクションには惹かれなかったな」ペトリは、もうすでに仕事は終わりだと言わんばかりに、ウォッカを口に含んだ。「やっぱり、文章で動きを表現するっていうのは難しいんだね。あと、アクション系には気が滅入る要素が多かった。それよりも日常系のシットコムのほうが面白いと思った」

「わたしはビジネス系が面白いと思ったな」と、ナタリア。彼女もビールを啜っていた。彼女は、世界各国の様々な種類のビールが好きなタイプだった。

「わたしはみんなに任せるわ」と、ウルシュラはビールを片手に言った。彼女が好むのはチェコのビールとベルギーのビールだった。

「わたしも」ヴィーラはワインを啜った。彼女は作業中も、片時もワインを離さない。飲酒に対して熱心だった。銘柄や原産地には、特にこだわりはないようだが、フランスのワインを好んでいるようだった。「笑いとか感動から出てくるアドレナリンの方が好き」

「そうね。笑いと感動。それで行こう。ウルシュラ。募集するジャンルを絞るわ。今週いっぱいまでに届いたアクションとスリラーと、一部のサスペンスとホラーは、全部外注しよ。投稿作はどれも優秀だけど、だからこそ、あたしたちの方針には合わない」

「わかった」

 ぼくは首を傾げた。

「一志。これからも意見をたくさん言ってね。反論は有益なの。議論や各々の意見を発言するきっかけになるし、方針を調整出来る」

 ぼくはうなずいた。「わかった」

 愛美は、小さく、柔らかく微笑んだ。「じゃ、今日は終わり。みんなお疲れ様。

 ペトリはChromebookを畳んで、オフィスを出ていった。彼は、仕事終わりのサウナが習慣だった。

 ぼくは、オフィスに残って翻訳の残りをしていた。英語の勉強になるし、残業代も出るとのことだったので、可能な限りオフィスに残って、翻訳をこなすようにしていた。今では、一日の半分ほどを翻訳に使い、一日で五作から七作程をこなすようになっていた。

 ナタリアは、キッチンへ向かい、夕食の準備を始めた。ぼくとナタリアが任されているのは、ランチの準備だけだったので、彼女はおそらく、自分用の夕食の準備を始めるのだろう。

 ぼくは、アクションだって面白いのにな……、と思いながら、短編のホラー映画の脚本の翻訳に取り掛かった。

 

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