第11話 ヴィーラと飲む白ワインの味

14時10分



 ぼくはオフィスにいた。

 ヴィーラは、いつものソファでPixelをいじっていた。

 ぼくは、ペトリを見た。

 ペトリはニヤリとした。

 ぼくは、続いてウルシュラを見た。

 無数のモニターに視線を飛ばしていたウルシュラは、ぴく、と動きを止めて、ぼくをちらりと見ると、小さくうなずいた。

 ぼくは席を立ち、ヴィーラの元へ向かった。「やあ」

 ヴィーラは、Pixelから顔を上げて、ぼくを見た。「ハーイ」

「なにしてるの?」

「インスタグラムの投稿をいじってる」

 ぼくは、ついさっき投稿されたヴィーラの写真をもう一度見た。

 テラスで太陽の日差しを浴びながら、コーヒーを飲んでいる写真だ。

 彼女の灰色の瞳が太陽の光を浴びて輝いている。

 瞳には、琥珀色の輪がかかっている。

 コメント欄には、彼女の自作の詩と、キレイな朝日に迎えられる目覚めの素晴らしさが書かれていた。

 勉強はあまり好きじゃないけれど、ヴィーラの書いたものなら読めた。

「見たよ。きみの目って綺麗だね」

「ぷっ」

 ぼくは、背後を睨みつけた。

 愛美がニヤニヤしながらぼくを見ていた。

 ぼくは、ヴィーラに向き直った。

 ヴィーラは、暖かく微笑んでいた。

 真っ白なほっぺが薄い桜色になっていた。「ありがとう」

「きみの目って、輪っかがあるけど、そういうものなの?」

「変かしら?」

「いや、キレイだと思うよ」

「ぷっ」

「ただ、ぼくって日本人だから、あんまりわからないんだ。ほら、ぼくも愛美もブラウンの目だろ? 海外のことには詳しくないし」

 ヴィーラは、自分の目を指さした。「コレね。そういう人もいるわ。わたしがそうだっていうだけ」

 ぼくはうなずいて、ヴィーラの持っているPixelを指さした。「いじってるって、何を?」

「今朝のコメントと、過去のコメント。もっと良い言い回しが思いついたから。あとは、スペルミスなかったかなとか」

「そっか」ぼくはうなずいた。「毎回投稿見てるよ。英語の勉強のためにね」

 ヴィーラは笑った。「お役に立てているなら嬉しいわ」

 ぼくは微笑んで、ペトリの横に戻った。

 ペトリはぼくの肩を叩いた。

 ぼくは笑った。「うるさい」ぼくはペトリの肩を叩き返した。

 愛美は、ぼくをチラチラと見てニヤニヤしていたので、ぼくは彼女の下へ向かい、そのおでこにデコピンをした。



16時8分



 本日の勤務が終了したが、ぼくは相変わらずオフィスにいた。

 ここはぼくに与えられた部屋よりも広くて快適だし、ウォークインクローゼットのように巨大な冷蔵庫には食料が山ほど入っている。

 仮に大雪でヘルシンキが陸の孤島と化しても、一年は有に過ごせそうだ。

 冷蔵庫の中にあるものやキッチンにあるものは好きに飲み食いして良いことになっていた。

 そこにはありとあらゆるものが揃っていた。

 ジャムやペースト、フルーツに野菜、ソーセージや卵。

 冷凍のパスタや、ラザニアや、ピザや、ハンバーガーや、ピラフ。アイスクリームのフレーバーも多彩だった。

 食器棚やシンクの下を見れば、そこには缶詰やインスタント食品やレトルト食品。

 ペットボトルに入った水は、バスタブに入れれば溢れてしまいそうなほどだ。

 これでは、自分で食事にお金を出すのが馬鹿らしく感じられる。

 ぼくはアロエヨーグルトのパッケージを眺めてフィンランド語の勉強をしようと思ったけど、三秒で諦めた。

 英語と似通った所もあるけれど、その大部分が、どのように読めば良いのか検討もつかない単語ばかり。

 自分で勉強していては、喋れるようになる頃には年金をもらう年になってしまっているだろう。

 ペトリに教えてもらえば良いかも知れないけれど、正直な所、フィンランド語を話せるようになることに関しては、それほど魅力を感じなかった。

 それよりも、まずは英語だ。

 ぼくは、スプーンを取り、ヨーグルトを一口食べた。

 日本で売っているアロエヨーグルトよりも、甘さが控えめで、なんか物足りないけれど、化学調味料が少ないからだろう。たぶん。

 玄関のドアが開く音がした。

 オフィスには、ウルシュラとヴィーラ。

 ウルシュラは楕円形のテーブルで作業をしていたし、ヴィーラはソファでPixelをいじっていた。

 ウルシュラの前には、十二のモニターと、ブルートゥースのキーボードがあった(安物のChromebookを使うようにという指示には、低スペックのそれで一体どこまで出来るのかという検証の意味も込められていたはずなので、あれは問題ないのだろうかと、愛美に聞いた所、周辺機器を使うとどの程度作業の幅が広がるのかという検証が出来るからセーフだとのことだった。ぼくとしては、ダイエット中だけどアイスクリームは別という女が展開する謎理論に通ずるものがあるような気がしないでもなかったけれど、プロジェクトのリーダーは愛美なので、うなずく以外になかったし、正直そういった所の可否に執着する必要性を感じていたわけでもなかった)。

 愛美はインスピレーションを求めてヘルシンキへ繰り出した。

 ペトリは昼に知り合った女子大生とのデート。

 ナタリアは、十五時くらいから外に出ていた。

 ぼくは、誰が帰ってきたのだろうと、廊下の方を見た。

 そこから顔を出したのは、ナタリアだった。「ハーイ」

「やあ」

 ナタリアは、ウルシュラの所へ向かい、小声で何かを話し始めた。

 秘密の話ならトイレですれば良いのにと思いながら、ぼくは、冷蔵庫から白ワインを取り出した。「白ワイン飲む人ー?」

「もらうわ」と、ヴィーラ。

「いらない」これはナタリア。

「わたしも今はいいわ」ウルシュラは、細くて長い首を、ほんの少し傾けた。「レッドブルある?」

「六百ミリリットル?」

「ええ」

「グラスに注ごうか?」

「そのままで良いわ。ありがと」

 ぼくは、左手の指の間にグラスを二つとワインボトルをはさみ、右手に巨大なレッドブルの缶を持って、教室二つ分ほどの広さのある、広大なリビングへ向かった。

「ありがと」ぼくからレッドブルを受け取ったウルシュラは、ぼくを見て、ナタリアを見た。「ヒトシに任せたらどうかな」

 ナタリアはぼくを見上げた。「あなた、子供は好き?」

「子供? 騒がしい子は苦手だな。傍から見ている分には可愛いけど」

 ナタリアはうなずいた。「九歳のいとこがいるの」

「へえ」

「わたしがフィンランドにいるって言ったら、来たいって言うのよね。でも、四六時中一緒にいるわけにはいかないでしょ? だから、わたしも面倒見るけど、あなたにも手伝って欲しいなって」

 ぼくは肩を竦めた。「良いよ」

 ナタリアさんは、パチパチと瞬きをした。「ありがと。優しいのね」

「おとなしいんだろ?」

「ネトフリとアイスとPCがあればね」

「アイスの好みは?」

 ナタリアは、斜め上を見上げながら、あーっと唸った。考えているようだ。「レモンヨーグルト」

 ぼくはうなずいた。

 左手の指の間に挟んでおいたボトルが落ちかけた。

 指が限界なので、グラスを右手に持ち替えた。

「名前は?」

「ナタリー」ナタリアは言った。

「きみにそっくりだね」

「そう。並んで歩いたら姉妹よ」

「会うのが楽しみだ。いつ来るんだ?」

 その時、ヴィーラがやってきて、ぼくの手からグラスとボトルを持っていった。

 待ちきれなかったらしい。

 ぼくはぼくで、この短い間でお酒を楽しむようになってしまったので、お酒が待ちきれないという感覚はなんとなくわかるのだけれど、ヴィーラやペトリやウルシュラを見ていると、その手の依存症になってしまっているのではないかと、少しばかり心配になってしまう。

「今月末かな」ぼくは言った。

「おっけー」

 ぼくは、ソファの並ぶエリアへ向かった。「一杯もらえる?」

「良いわよ」ヴィーラは、ぼくのワイングラスにワインを注いだ。

 それから、ぼくはヴィーラと一緒にワインを飲み始めた。

 仕事の話を交えて、プライベートな話もしたけど、お互いに話が上手いタイプではなかったので、時折沈黙が生まれた。

 お酒の力もあったので、なんとか切り抜けられた。

 少なくとも、ぼくにとって、お酒の力は偉大だった。

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