第9話 初出勤

6月2日 5時25分



 早朝、ぼくは、自分の部屋で、もらったばかりのHPのChromebookを見ていた。

 ドキュメントのアプリを開いたは良いけれど、何から書き始めれば良いかわからない。

 ぼくの仕事は、先日のミーティングで決まった。

 オフィスの掃除や買い出しや料理、メールチェック、SNSで接点を持った各国の作家たちとのDMのやり取り、設備と機会を与えられたPC初心者が、三ヶ月で何をやり、どこまで扱いこなせるようになるのかという、成長記録のようなものだ。

 文体やら何やらについてのアドバイスを愛美ちゃんや他のメンバーに求めたものの、リラックスして、自分なりのやり方で表現すれば良いと言われた。

 リラックスをするもなにも、自分なりのやり方もなにも、ぼくは自分を表現したことなどない。

 ぼくは、画面の右下を見て、ため息を吐いた。

 もうすぐ朝食を作る時間だ。



6時30分



 ぼくが用意したのは、目玉焼きにビーフソーセージ、バナナ、ベーグルという、簡単な食事だが、みんな黙々と食べてくれた。

 ウルシュラさんは、夜通しでサイトを作っていたらしい。今も11.6インチのHPのChromebookを両手でカタカタやっている。

 ヴィーラさんは二日酔いのようだ。

 ナタリアさんは朝からパリッとしたパンツスーツで決めている。彼女はPixel4aの画面を見て何かをやっていた。

 ペトリさんは、Pixel4aを持って、撮影をしていた。

 愛美ちゃんは、デニムにセーターという格好で、ベーグルをかじりながら、新聞を読んでいた。

 ぼくは、息の詰まるような静けさの中、コーヒーを啜り、自分の仕事について考えていた。

 みんな朝が早いようで、早朝だというのに、全身からはシャンプーの香りがしたし、髪はセットしてあるし、服にはシワもホコリもない。

 ぼくも少し見習わなければ。

 窓の外は明るい。

 この時期の日の出は四時くらいとのことだった。

 街を歩きたい。

 仕事は十時開始で十六時終了。

 料理はぼくとナタリアさんの仕事。

 他のメンバーは料理を食べる間も仕事をするタイプらしい。

 ナタリアさんは秘書としては一流だが、自分でなにかを創り出すということが苦手らしい。

 ぼくを含めたメンバーのサポート全般が彼女の仕事だ。

 仕事が始まったら、ナタリアさんになにかアドバイスをもらおう。

 このメンバーの中で一番補助輪が必要なのは、間違いなくぼくだった。



10時2分



 ペトリは、Pixelでライブ配信をしながら、PCで動画の編集をしていた。

 彼は、四百八十万人の登録者数を誇るYouTuberだった。

 動画の内容は短編映画や長編映画、旅行動画、ライブ配信の内容はゲーム配信や雑談など。

 他にも、彼はハードやソフトの開発などもやっていた。

 サイトやアプリを作っているウルシュラとは、一緒に仕事をする機会もあるらしい。

 ヴィーラは、ソファのそばで色んなポーズを取り、色々な構図でナタリアに写真を取らせていた。ヴィーラはSNSで活動する女優であり、モデルであり、作家。インスタグラムのフォロワーは五百四十万人、ペトリのチャンネルにゲスト出演したこともあるらしい。

 プロジェクトの宣伝は主に、ペトリとヴィーラの仕事だった。

 プロジェクトのSNSアカウントを管理するのはぼくの仕事。

 先日の夜にペトリとヴィーラがネット上で宣伝をしてから、まだ半日も経っていないというのに、いずれのSNSも、フォロワーは十万人に届く勢いだった。

 メールやDMはひっきりなしに届くものだから、ウルシュラが以前作ったツールによって、返信は自動化された。

 ぼくと愛美はテーブルについていた。

 仕事が一つなくなったぼくは、Chromebookを前に固まっていた。

 愛美は、プロジェクトの名前を考えていた。

 彼女はアナログ派のようで、先程からその案をノートに書き出していた。

「すごいね。開始初日で数万人からメールが来た」

「準備期間が十年以上だからね」

「へ?」

「ヴィーラもペトリも物心つく頃からネットで活動してる。ウルシュラも幼稚園に入る前からPCに触れてるし、ナタリアも子供の頃から弟と妹と近所の子供たちの世話をしてたし、家事とか、ご両親の仕事を手伝ってた。あたしはあたしで、どんなワードがユーザーの気を惹けるかが、なんとなくわかってる。探り探りで見つけたものだけど、そういう経験があるからこそ、ネット上にあふれている情報のなにが有益で、なにがゴミかがわかる。それを自分で判断出来ると何かと便利なの」愛美は、ノートから顔を上げてぼくを見た。「プロジェクトの立案から数えたら二ヶ月しか経ってないけど、積み重ねたものがあるからこそ、こうやってスムーズに運ぶの。履歴書に経歴や資格の項目があるのは、そういうことね」

 ぼくはうなずいた。「みんな、同い年なのに社会人みたいだね」

 愛美は笑った。「仕事は進んでる?」

「全然。自分なりに書いてみろって言われたけど、どうすりゃ良いのかさっぱりだよ」

 愛美はコーヒーを啜った。「あたしも、書いて投稿したことがあるんだ。小説だった」

「そうなんだ」

 愛美ちゃんはうなずいた。「全然読まれなかったけどね」

「読ませてよ」

「仕事が終わったらねー」

「どんなの?」

「日常系。創作って面白い。勉強と違って答えがないし、スポーツと違って勝ち負けがないから。登山もマラソンも大学受験の模試も楽だったけど、創作は楽しい」

 ぼくはうなずいて、キーボードを叩き始めた。「とりあえず、日記のような感じにしようかと思う」

 愛美ちゃんは、にっこり微笑んだ。「良いと思う」



16時



 終業間近に、デリバリーが届いた。

 ハンバーガーとピザとパスタだ。

 愛美は必要のないサービスにお金は払わないと言っていたけれど、作業時間を確保するためならお金を払うのもやぶさかではないらしい。

 ぼくとナタリアは、サラダとフルーツとドリンクを用意した。

「ペトリ。あなたが作ってくれた紹介動画好調だね」愛美は、ペパロニとハラペーニョがたっぷり載ったピザをかじった。

「ありがと」ペトリは分厚いパティの挟まったハンバーガーを頬張った。「百二十秒にまとめたのが良かったかもね。三分は長いんじゃないかなって思ったんだ。ハリウッド映画の予告だって九十秒ほど。GoogleやDellやHPの新製品の動画だって十五秒から三十秒ほどだ。主演女優はいるけど、エキストラがもう二、三人いれば、短編映画を撮影出来る。三分以内のほうが良いんだよね?」

「そう」愛美はうなずいた。「見込みだけど、今日のYouTube広告の利益だけで、このデリバリー代が返ってくる。アフィリエイトの利益も含めれば、全員分の日給も補える。この調子で行けば、学園からの出資金もすぐに返せる」

「プロジェクトの終了と同時に、チャンネルを学園に渡せば良いんじゃない?」ナタリアはパスタをくるくると巻きながら言った。

「最終的にどんな結果を提出するかは、三ヶ月後に決めよ」愛美はほくそ笑んだ。「良いね。提出する成果の選り好みなんて、恵まれてる」

「上手く行き過ぎてるのが怖いわね」ヴィーラは、ビールを飲み、ピザを頬張った。

「女子たちは悲観的だな」ペトリは、ぼくの肩を叩いて、小さく笑った。

 ぼくたちは、窓際に並んで立って、ビールとハンバーガーを楽しんでいた。

「現実的なだけよ」ウルシュラは言った。「楽観も悲観もするべきじゃない。データだけ見るなら、初日は好調。これが三ヶ月続くだけでも成功と言える。プロジェクトが成長すれば、つまり、アクセス数が増えれば大成功。翻訳した小説や脚本が賞を取ったり売れたり、投稿された動画や写真やイラストがたくさん閲覧されれば、もう言うこと無し」

「ユーザーに払うインセンティブはどうしようか」

 愛美からの言葉に、ウルシュラは小さく首を傾げた。「現時点だと、成果に応じた物以外は無理ね。将来的には、一つ投稿されるごとに少額っていうのも行けるけど、そこに回せる資金がないと」

「十セントとか一ユーロとかかな」

「現時点だと、投稿してくれたコンテンツが将来的に生み出す利益を放棄してもらうなら、来月辺りからそうするのも行けるかも。でも、投稿するユーザーが更に増えてたら、もっと後になる」

 ナタリアは人差し指を立てた。「アクセス数が一定以上のユーザーに対してのみ、投稿に対するインセンティブを設けるっていうのは?」

 ウルシュラはうなずいた。「良いかも」ウルシュラはアジの握り寿司を食べた。彼女は、昨日のパーティの間もゾーンに入りっぱなしでこっちの世界に戻ってこなかったので、食べそこねてしまったのだ。「コレ好き」

 愛美は嬉しそうに笑った。「あたしが握ったの」

「さすが日本人ね」言った後で、ウルシュラはふっ、と、不敵に笑った。「知ってるわ。日本人のみんなが寿司を握れるわけじゃないってことくらいね。異文化ジョークよ」

 ぼくは愛美やペトリと一緒に笑っておいたけれど、正直言って、ジョークと言われなければそうとは気付けなかった。

 ヴィーラやナタリアは聞いていなかったかのようにハンバーガーやパスタを食べていた。

 相手のジョークには、必ずしも笑わなくても良いのかもしれない。

 異文化交流は難しい。

「明日、エキストラを探しに行こうと思うんだ」ペトリは言った。「来る?」

「良いね。どこに行くの?」

「大学」

「行って良いの?」

「だめなら大学のそばのバーとかパブだね」

「問題が一つある」ウルシュラが言った。「コード書ける人手が欲しい」

 愛美は、ぼくとペトリを見た。

 ぼくは首を横に振り、ペトリは両手を広げた。「無理だよ。明日は、ヒトシと一緒に撮影に行く」

 ヴィーラは顔を上げた。「わたしも行こうかしら」

 ペトリは慌てたように手を振った。「だめだよ。まだ君の出番はない」

 ヴィーラは、がっかりしたように目を伏せて、グラスにウォッカを注いだ。

 愛美はニヤリとした。「あたしはそれなりに手伝える。ナタリアは?」

「出来るわ。何人必要なの?」ナタリアは、ボロネーゼを頬張った。

「出来るだけ早く進めたいから、六人くらいかな」ウルシュラはフライドポテトを頬張った。

 ナタリアは、少し考えてうなずいた。「良いよ。服買いたいんだけど、誰か一緒に来る?」

「あたし行く」愛美は手を上げた。「いつ?」

「食べたら行こ。ヴィーラは?」

「行く」

「ウルシュラ?」

 ウルシュラは首を横に振った。「仕事してる」彼女はデニムにシャツといったシンプルな服装。彼女は多分、服に興味がないのだろう。



17時7分



 オフィスには、ぼくとペトリとウルシュラだけになった。

 ぼくとペトリは、ペトリがYouTubeに上げた動画を、スクリーンに映し出して見ていた。

 デリバリーの残りを食べてもなんだか空腹が収まらなかったぼくたちは、追加でタイフードのデリバリーを注文した。

 映画で見るような箱で届いたそれらを見て、ぼくはなんだか、不思議と感動のようなものが胸の奥から湧き上がるのを感じ、自分が本当に海外にいるんだと実感した。

 ペトリは箸の使い方が美味かった。

 ぼくはパッタイを食べながら、彼の作った短編映画に視線を向けていた。

「上手い言い方が思いつかないけど、良い映画だね。映像もきれいだし。なんてゆーか、派手さがないけど見てて飽きない。演出かな」

「それもそうだけど、カメラワークに気を使ってるんだ」

「カメラワーク?」

「そう、画面の動きとか、ぐいーんって迂回するように撮影したりね」

「全部スマホ?」

「そうだよ。最近は撮影機材も持ち歩ける。良い時代になったよ」ペトリはウォッカを啜った。「子供の頃は、iPod nanoで撮影してた。次はiPod touchで、その次はiPhone。普通のカメラも使ってみたけど、なんだか手になじまなくてね。Pixelでの撮影は初めてだけど、アイミから好評をもらえて良かった」

「ぼくも良いと思ったよ」

「ありがとう」

「エキストラを探しに行くって、どうやって勧誘するの?」

 ペトリは指をちょいちょいとした。

 ぼくは、彼の口元に耳を寄せた。

「ナンパするんだ」

「マジ?」

「そう。良いだろ?」

「彼女いないの?」

「いたらこんなことしない。きみは?」

 いたらこの仕事は引き受けなかった。

 と言っても、引き受けるきっかけとなった愛美の食いっぷりを見てからは、ウルシュラ、ヴィーラを見てからはヴィーラに、ぼくのモチベーションは変わっていったわけだけど。「ヴィーラって彼氏いるのかな」

 ペトリは、「おぉー!」と、楽しそうな声を上げた。「いないよ」

「いない?」

「たぶん」

「たぶん?」

「人とのコミュニケーションが嫌いだから。だろ?」ペトリはウルシュラに声をかけた。

「クソが」ウルシュラは舌打ちをした。「ゾーンに入ってたのに邪魔が入った」

「悪かったよ。ヴィーラに彼氏いる?」

「あいつに彼氏っ? プシュー、クスクス」ウルシュラはプシュー、クスクス、と笑った。「いないわ」言って、ウルシュラは口元をニヤリと歪めた。「ヴィーラが気になってるの?」

「タイプで」

「あいつに彼氏が出来たらどんな感じになるのかしら」

 ペトリもニヤリとした。「女は恋をするときれいになる」

「興味あるわね」

「手伝うよ」

「わたしも」

 そうして、その後、ぼくとペトリとウルシュラは、ビールを飲みながら恋バナを始めた。

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