第7話 ヴィーラとナタリア

15時11分



 チャイムが鳴った。

「ヴィーラね」ウルシュラさんは、モニターを見ながら言った。十数分前に「あ、ゾーンに入った」と呟いた彼女のブラインドタッチは今やカタカタカタカタではなくタタタタタタタ! の域にまで昇華されていた。

 愛美ちゃんは先程からウルシュラさんの向かいで資料のチェックをしていて忙しいので、ぼくがヴィーラさんを迎えることになった。

 ドアを開ければ、そこにいたのは、セミロングのブロンドを無造作に垂らした、背の高いセクシーなヨーロッパ美女。

 一体この職場はどうなってるんだろう。

 いつの間にか、今季のコレクションの発表会場にでも迷い込んでしまったのかもしれない。

 ヴィーラさんは、ぼくよりも背が高く、ぼくよりも肩幅がほっそりとしていた。

 手足もほっそりとしていて、スタイルの出る細い黒のパンツとボルドーのシャツ、その上に深緑のフェルトコートを着ていた。

 豊かな金色のまつ毛によって縁取られた大きな灰色の瞳の下には濃いクマがあり、脂肪のない大きなまぶたがなんとも言えないほどセクシーだった。

 足元では、赤いハイヒールが艶々と光っている。

「やあ」ぼくは、どうにか絞り出した挨拶の言葉を、口から漏れる吐息に載せた。

 ヴィーラさんは、眠そうな目で、ぼくをギロリと見た。「こんにちは」優しく、か細い、消え入りそうな声の日本語だった。

 睨まれたと思ったのは、おそらく彼女が本当に疲れ切っているような目をしているからかもしれない。

「一志だ」ぼくは右手を差し出した。

 ヴィーラさんは、おずおずと、ぼくの右手を握り返した。弱々しい。「ヴィーラよ。よろしく」彼女は言った。

 本当に生きているんだろうか、と、ぼくはする必要もない不安に駆られた。「入って。寒かったよね。お茶は?」

「ありがとう。アールグレイをいただけるかしら」と、ヴィーラさんは、お上品な口調で言った。ダウントン・アビーの日本語吹替版を教材に選んだのかもしれない。

 部屋に入ってきたヴィーラさんは、室内を見渡すと、「ペトリは?」と、囁くように言った。

「ペトリさんはまだです。ギリギリまで来ないみたい」ぼくは言った。

「一人で飲むのか……」ヴィーラさんは、よろよろとした足取りでソファまで向かった。

「ヴィーラ」ウルシュラさんはモニターを見ながら言った。「酒なら付き合うわ」

「ハーイ、ウルシュラ」ヴィーラさんはウルシュラさんを見もせずに、ソファまで向かいながら言った。

「ヴィーラ、こんにちは。久しぶりね」

「アイミ。元気そうね」

「あなたも」

 ぼくは、愛美ちゃんの言葉に首を傾げた。

 なんだかヴィーラさんが本調子じゃない時を見てみたくなってしまった。

 ぼくはキッチンへ向かい、アールグレイを淹れた。

 お湯を沸かして、ティーバッグをカップに入れて、お湯を注ぐだけだ。

 このアパートは、オール電化だった。

 個人的にはガスよりも良い気がする。

 一酸化炭素中毒の心配も、火事の心配もない。

 ヴィーラさんは、ソファに座ると、深く息を吐いた。

 なんだか、ぼくよりも背が高いはずなのに、妙に小さい印象を受ける。

 守ってやらなきゃとすら思う。

 ひょっとすると、ぼくは恋をしてしまったのかもしれない。

 これは、カップに水が半分ある状態を問われる心理テストのようなものだ。

 美女なら誰でも良いと思えるほどに溜まっていると見るか、美女なら誰でも良いと思えるほどに恵まれた環境に突然放り込まれたと見るか。

 ぼくは首を傾げた。

 心理テストとは違う気がする。

 ぼくは、背筋を伸ばし、肩を引き、顎も引いて、アールグレイを手にヴィーラさんの下へ向かった。

 ふと、いたずら心に執事を演じてみたくなったのは、先程のヴィーラさんの喋り方のせいかもしれない。

「お待たせいたしました」

 ヴィーラさんは、ゆったりとした動きで、ぼくを見上げた。「ありがとう。悪いけれど、スコッチもいただけるかしら。紅茶に混ぜるの」

「スコッチ?」ぼくは、愛美ちゃんを振り返った。

 愛美ちゃんは、ぱかっと口を開けて、「あー……」と、唸った。「ごめん。お酒はまだないの。ナタリーが買ってきてくれる」

 ヴィーラさんは、雷に打たれたような、打ちのめされたような顔をした。そして、少し迷うように視線を泳がせた後、肩をすくめると、耳に手を当て、そこからミニボトルを取り出した。映画で見たことがある。スコッチのミニボトルだ。それとなくマジックを披露してくれた彼女は、今夜のパーティのために用意したであろう持ちネタの一つを早くも失ってしまったことなど気にも留めない様子で、スコッチをアールグレイに注いだ。紅茶を飲んだヴィーラさんは、ほっと一息を吐いた。「ごめんなさい。人が多い場所が苦手なの。この時期だっていうのに、クルーズ船の中は人間が一杯で、みんなコロナが怖くないのかしら」

「わかるよ。ぼくは人が多い場所は良いんだけど、人前に出るのが苦手なんだ」

「わかるわ」ヴィーラさんはガクガクとうなずきながら、スコッチがたくさん入った紅茶をお上品に啜った。この人はお嬢様かなにかなのかもしれない。「ずっと引きこもっていられれば、お酒もいらないのに、ちょっと勉強が出来るからって学園からは面倒ごとを押し付けられるし、良い迷惑だわ」と、サラッと自慢を混じえながら愚痴るヴィーラお嬢様はなんだか可愛かった。

「そうだ。Facebook交換しよ」

 ヴィーラさんは、驚いたように目を見開くと、コクリとうなずいた。「良いわよ」

 ぼくは、視界の端でニヤニヤする愛美ちゃんを無視して、ヴィーラさんと早速友達になった。

 


17時7分



 続いてやってきたのはナタリーさん。

 彼女は無表情系の美女だった。

 この部屋においては珍しくもない。

 ウルシュラさんに続いて二人目だ。

 ヴィーラさんは素朴な人だった。

 表情は小さいが、笑顔が可愛い。

 一方で、ナタリーさんはと言えば、インテリメガネをかけているのは愛美ちゃんと同じだが、グラスの奥では琥珀色の瞳が冷たく鋭い輝きを放っているし、きゅっと引き締められた唇の両端は下がっている。

 身長はぼくやウルシュラさんとヴィーラさんの間くらい。

 だが、そのピンと伸びた背筋や肩の輪郭を見た感じだと、彼女は愛美ちゃんと同じくらいスポーツが好きなようだ。

 黒のパンツスーツに身を包んだナタリーさん。

 彼女のスタイルのセクシー度は愛美ちゃんの比ではなかった。

 波打つ黒の髪はセミロングに整えられていた。

「はじめまして」ぼくは言った。「一志だ」

 ナタリーさんは、顔を上げた。「はじめまして。ナタリーよ。名前はナタリアだけど、ナタリーとかアイミはナタチとか呼んでくるから、好きな呼び方で呼んで。侮辱的じゃない限り、愛称で呼ばれるの好きなの。今忙しいから、全員揃うまで失礼するわね」ナタリアさんはiPhoneへ向き直った。

「ぼくのことは、一志で頼むよ」

 ナタリアさんはうなずいた。「よろしく、ヒトシ」

「よろしく。ナタリアさん」ぼくは、ペトリさんがやってくるまで、ナタリアさんの愛称を考えることにした。

 彼女は、かつかつかつ……、と、廊下を進んでキッチンへ向かった。「ごめん。遅れたわ」ナタリーさんは、言葉を区切った。「飛行機が遅れた。トランジットで三時間も過ごすことになった。これだから乗り継ぎは」

「あたしなら、トランジットで三時間過ごすことになったらはしゃぐけどなー」と、愛美ちゃん。

「あんたはお嬢ちゃんだからそうでしょうね」

「なにそれムカつくー。ガキだっての?」

「ムカついてないで、お茶飲みたいから、どこにしまってるか教えて」

「キッチン」

「だと思った。あぁ、これね」ナタリーさんは、自分で紅茶を淹れると、楕円形のテーブルに来て、ぼくの正面の席に座った。そして、DellのChromebookを開いてカタカタやりはじめた。紅茶を一杯飲むと、彼女は目を輝かせた。「良い茶葉ね」

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