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第5話 アパートへ向かう
6月1日 5時7分
ぼくは、椅子の上で目を覚ました。
夜中に眠気の限界が来たぼくは、カフェから出て、椅子を探した。
そこで見つけたのが、この背もたれもない、横長の流木を加工したような椅子だった。
漆塗りの表面は少し冷たかったし、五月だというのに窓の外では粉雪がひらひらと舞っていたが、寝袋に潜ってしまえば関係ない。
ぼくは、寝袋を丸めてトランクに入れ、昨晩のカフェに戻った。
愛美ちゃんとウルシュラさんは、昨晩と同じテーブルでPCをカタカタしていた。
ウルシュラさんの前にはPixelbookとモニターがあった。
先日教えてもらったところ、画面をシェアしてモニターを大きくしているのだとか。
作業効率が二倍ほど上がると言っていたけれど、一体全体どういう理屈で作業効率が上がるのか、PCに疎いぼくには検討もつかなかった。
ぼくは、サンドウィッチとコーヒーを三つずつ注文して、トレイを持ってテーブルに戻った。
「ありがと」ぐわしっ! っと、愛美ちゃんはサンドウィッチを取り、頬張った。ちらっと見てみれば、目の下には濃いクマがあった。睡眠と糖分が足りていないのだろう。シナモンロールも差し入れしたほうが良いだろうか。なんだかんだ言って彼女はぼくの上司。しかも可愛い。媚を売るのは嫌だが、気に入られるための気配りだと思えば大丈夫だ。
ウルシュラさんは、サンドウィッチをちらりと見ると、その薄い唇を開いた。「卵は食べないわ」どうやら、記憶と認識のアップデートは済んだようだ。ぼくが寝ている間に、彼女も一睡したのかもしれない。モニターに釘付けになっているウルシュラさんの目の下には、クマが見られなかった。
「そうなの?」どうにか、彼女の視線の先をモニターからぼくの方へ移らせたいところだ。
「月曜日の朝だけ食べるの」ウルシュラさんは相変わらずモニターを見ながら言った。「今日は火曜日」
「シナモンロールは?」
「もらう」と、ウルシュラさん。
「うちも」と、愛美ちゃんは、サンドウィッチをかじりながら言った。
「オッケー」
「あ、一志くんこれ」と、愛美ちゃんが渡してくれたのは100ユーロ紙幣だった。「トナカイのハンバーガーセットもお願い」
「わたしももらうわ」と、ウルシュラさん。
「オッケー」
一ヶ月前には高校の課題で英語のペーパーバックを読んでいたのが、今や美人二人のウェイターに転職だ。
二人とも性格の良い美女なので気分は悪くないけど、なんだかな。
トナカイのハンバーガーセットは一つ三十六ユーロ。
八ユーロは自分の財布から出した。
レシートを愛美ちゃんに渡せば、次の給料に上乗せして払うと言われた。
給料日は、毎週月曜日。
曰く、金曜日にしても良いけれど、土日と水曜日は休みで、二連休の前に給料が入ると散財しちゃう恐れがあるから月曜日にしたとのこと。
納得出来るような出来ないような。
まあ、給料が出るだけ良いけれど。
しかし、週給は百二十ユーロ。
最後の週には九百六十ユーロの給料が振り込まれるらしいが、ハンバーガーのセットがこれだけ高いとなると、月百三十二ユーロでやっていけるのかどうか、少し不安だった。
7時50分
始発で空港からヘルシンキ中央駅へ向かうも、空はまだ薄暗かった。
ぼくたちは、そこから徒歩でアパートへ向かった。
アパートは中央駅から徒歩十二分の場所にあった。
六階建てのクリーム色のアパートだった。
オフィスは最上階にあるらしい。
古いアパートで、エレベーターはなかった。
それでも、六階だけなら駆け上がることも出来る。
ぼくは大丈夫だが、高齢の方々だと難しいかもしれない。
あるいは、それだからこそ高齢の方でも運動神経を保てるのかも。
六階のオフィスは、広々としていた。
ドアを潜れば細い廊下が左に伸びている。
廊下の先は右側に続いており、そこには、教室二つ分くらいの空間が広がっていた。
天井までは三メートルほど。
部屋の手前にはアイランド式のキッチン。
部屋の中央には楕円形の白いテーブルと7つの椅子、7つのソファと楕円形のローテーブル、そしてホワイトボード。
部屋の先にはテラスとロフト。
テラスにはテーブル席、ロフトにはカーテンがかかっていた。
ロフトの下には扉がある。
扉の向こうはバスルームになっているらしい。
通りに面する壁には大きな窓があり、開放感があった。
部屋の中はセントラルヒーティングが効いていて、暖かく、過ごしやすそうだ。
「あ、そうだ」と、愛美ちゃんは言った。「部屋なんだけど、三階にあるから、そこ使って」
ぼくはうなずいた。
「ここはうちが使うから」
「えー」ぼくは不満の声を上げた。「なんだよ。一人だけで広い部屋使うの?」
「一人じゃないわ」と、ウルシュラさん。「女子みんなで使うの。今んところ、わたしとアイミとナタリー」
「あとヴィーラも。そうした方が予算抑えられるし」愛美ちゃんは眉をひそめた。「ベアトリスとクラウディアは?」
「たまに来るって」」ウルシュラさんは、早速楕円形の白いテーブルにモニターやらキーボードやらを載せ始めた。いくつのモニターが並ぶのかと少しワクワクしながら見ていると、なんと最終的には、彼女の前には十二のモニターが現れた。これで作業効率は数十倍に跳ね上がるに違いない。
ぼくは数学が苦手だった。
「そっか。ナタリーは秘書って感じで、ヴィーラは女優で詩人って感じ。後はペトリとクレイグ。ペトリは男子でスナフキンって感じね」
「酔っぱらいよ」
「酔っぱらいのスナフキンね」と、愛美ちゃん。
「なるほど」さっぱり想像つかん。酔っぱらいのスナフキンなら想像出来るけど、そんなふうに呼ばれる人は、実際に会ってみるとどんな感じなんだろう。
「クレイグはポーランド」ウルシュラさんはポツリと言った。
「あ、そっか。そうだった。みんな今日中に来るからね」愛美ちゃんは楽しそうな声で言った。
「待って、ぼく英語あんまり喋れない」
ウルシュラさんは愛美ちゃんを見て、愛美ちゃんはウルシュラさんに、「みんな日本語話せるっしょ?」と聞いた。
「クレイグ以外はね。あいつも話せるけど、完璧とは程遠い」
「まあ、人間だからね。そこはしょうがないよね」
「レナルトから聞いたけど、アイミは結構色んなこと出来るよね。英語もドイツ語もフランス語も上手いし」
ウルシュラさんの言葉を受け、愛美ちゃんはどこか誇らしげにふふん、と鼻を鳴らした。「勉強好きなんだ。ゲームみたいで」
「一つのことだけに夢中になるのも良いと思うよ」
「熱意が保つ間だけしかそれについて勉強出来ないって自分でわかってるから、その時その時で全力で打ち込んで夢中になるの。男に対してもそう」
「おっと、なにか面白そうな話が聞こえてきた気がする」ぼくは言った。「男に対してはなんだって?」
「好きになったらべったりだけど飽きるのも早いって話」
「ビッチってこと?」
「あぁん?」愛美ちゃんはぼくに向かって何かを投げつけてきた。
時速150kmで飛んできたそれは、うさぎの顔をしたクッションだった。
クッションがぼくの顔に直撃し、音速を超えた衝撃波がぼくの後頭部を抜けて地平線の先まで駆け抜け地球を一周してきた衝撃波が再びぼくの全身を叩いたんじゃないかというくらいの衝撃とともに、ぼくは後頭部からフローリングに倒れ込んだ。
見上げると、愛美ちゃんが、雑巾でも見るような目でぼくを見ていた。
ゾクゾクしたのは、ぼくの中で新たな性癖が産声を上げたから、というわけではないと思う。
「あぁん?」愛美ちゃんはもう一度言った。
「あ、ごめんなさい」
「おう」愛美ちゃんは咳払いをした。すると、彼女の顔が、いつもの和やかな顔に戻った。
女こわ……、と思いながら立ち上がるぼくの脳裏をよぎるのは、お姉ちゃんが常日頃言っていた、女性を尊重しなさいという言葉だった。
「つまり、あたしが言いたかったのは、八月の終わりまでにはビッチっていう単語が軽口に聞こえるようになるまでの仲になろうねってこと」
「ガッテン承知です」
「待って、今の単語は初めて聞いた」と、ウルシュラさん。「ガッテンってどういう意味?」
「バッチリってこと」
「バッチリ?」
愛美ちゃんが、ドイツ語で何かを言うと、ウルシュラさんは納得したようだった。
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