第3話 出国

5月31日



 ぼくは、成田空港にいた。

 トランクには、着替えと、PCとタブレットとその周辺機器、歯磨きセットやシャンプーやボディウォッシュ製品、枕。

 枕。

 ぼくは枕が変わると眠れないのだ。

 修学旅行の最終日はいつもふらふらで、初日移行を楽しめたことなんて一度だってない。

 クラスメイトに笑われるのが嫌で、枕の持ち込みをすることが出来なかったのだ。

 それと、トランクにはお母さんが作ってくれた弁当も入っていた。

 どういうつもりか、試合にやってきた野球部の連中が昼飯にと持ってくるような重箱に入っている。

 中に入っていたのは大量のおにぎり。

 それらは、空港に向かうまでの間に食べた。

 海外旅行と言っても随分久しぶりのこと。

 中学三年生の時、高校受験に受かったご褒美として家族でフランスに行ったのが最初で最後だ。

 パスポートの有効期限は平気だった。

 また、滞在は六月から八月の終わりまでの三ヶ月。

 三ヶ月以内の滞在はビザなしでも問題ない。

 ワクチンの摂取も済んだし、その証明書もある。

 それに、愛美ちゃんが用意してくれた書類があれば、出入国における心配は何もないらしい。

 成田空港は閑散としていたが、それでも、少数の利用客はいて、就航便も、数は減ってはいたもののあった。

 愛美ちゃんとの待ち合わせは、サブウェイサンドウィッチにセッティングされた。

 そちらに向かうも、誰もいない。

 レジに並んでいるのは、空港で働いている、スーツ姿の人が一人。

 ぼくは、トランクを引きずってレジに向かい、フルサイズのローストビーフサンドとコーヒーを注文した。

 それらを味わっていると、女の子が一人、視界の端からこちらへやってきた。

 そちらを一瞥すると、それが愛美ちゃんであることがわかった。

 愛美ちゃんは、小柄だった。

 身長はたぶん百六十センチくらい。

 ショートカットの黒髪はヘアピンで七三になっていた。

 細いパンツスーツを着ていたが、そのパンツスーツもぶかぶかだった。

 手にはA4サイズのレザートランク。

 他に荷物は持っていないようだ。

「愛美ちゃん?」

 愛美ちゃんはニッコリと微笑んだ。「一志くんだね」

 ぼくも微笑んだ。「荷物は?」

「持ってるよ」愛美ちゃんは、その細い人差し指で、自分の頭を指差した。

 ぼくは首を傾げた。

 愛美ちゃんは照れくさそうに笑った。「必要なものは現地調達。それが身軽な旅のコツ」

 ぼくは笑った。「慣れてるね。よろしく頼むよ」ぼくは、ローストビーフサンドを口に押し込んで立ち上がった。

「あ、朝ごはんまだ」

「どこ行こっか」

「マック」

「あっちにもあるだろ」

「あるよー。でも、あっちにスパチキはないし、これから十時間も飛行機に缶詰になる。十二時間以上マックのポテトを摂取してないと手が震えだすの」

 ぼくは声を上げて笑った。

「マジで、マックのポテトはヤバいって」

「ヤバいよな。ぼくも中学の頃は毎日食べてたよ。でも、親が心配して、セミナーに通わせてくれてね。頑張って周一で平常心を保てるようにしたんだ」

 愛美ちゃんは声を上げて笑った。「トランジットエリアにもマックあるから、チェックイン済ませちゃお」

 ぼくたちは、閑散とした空港構内を進み、チェックインをした。

 コロナによる海外渡航の規制も少しずつ緩和されてきてはいたけれど、旅行を楽しめるようになるには、まだ少し掛かりそうだ。

 トランクを預け、手荷物検査を済ませ、数年ぶりのトランジットエリアへ。

 二年前は広々としているように感じたけれど、今は、その時よりも少しだけ、空港構内が小さく感じられる。

 ぼくも成長したのだ。

 ぼくたちは、マクドナルドへ向かった。

 十五分後。

 愛美ちゃんの前には、山のようなポテトと、山のように積まれたスパチキとスパビーとハンバーガーとチキンクリスプがあった。

 それらを、愛美ちゃんは黙々と平らげていく。

 ぼくは、ビッグマックのセットをちびちびと食べながら、はじめは愛美ちゃんと楽しくお喋りをしていたのだが、冗談かと思っていた彼女の食事量が冗談でないことに薄々気づき始めてから、ぼくの口数は減っていった。

 今では、彼女の言葉に、乾いた愛想笑いをするので精一杯だ。

 ぼくはとっくにビッグマックのセットを平らげ、後は愛美ちゃんが平らげるのを待つばかり。

 しかし、ポテトとバーガーの山はいつまでも減らず、それらに伸びていく彼女の手の動きもとどまるところを知らない。

「……なんで痩せてるの?」ぼくは、失礼かと思い口に出来なかったそれを、ついに聞いた。我慢出来なかったのだ。

 愛美ちゃんは、口をもぐもぐと動かしながら、自分の頭を指差した。「頭使いまくってるし、スポーツも好きだから」

「そうだったね。スポーツって、何やってるの?」

「パルクールとフリーランニングとシステマと柔道とシラットとボルダリングと水泳とダイビングとランニングとテニスとバスケとサバゲーと」もぐもぐ。「スケボーと剣道とゲームとサイクリングとアーチェリーとバレエと……、こんなもんかな」もぐもぐ。「あ、あとEスポーツも。カラオケも好きだし、オペラも歌える。楽器の演奏も結構やるかな。フルートとバイオリンとギターとハーモニカと……、そんな感じ」

 ぼくはうなずいた。「すご」

「一志くんは?」

「ランニングくらいかな」

「ちゃんと運動してるんだね」

「部活やってないから、これくらいはね」

「帰宅部? 空いた時間で何やってるの?」

「読書かな。ネトフリ見たり。たまにカラオケ行く。宿題もやるけど、すぐに終わらせちゃうから」

 愛美ちゃんはうなずいた。「あっち着いたら、カラオケ行こ」

 ぼくは笑った。「フィンランドまで行ってやることがそれ?」

 愛美ちゃんも口をもぐもぐさせながら笑った。「良いでしょ?」

 ぼくはうなずいた。「良いよ。ポテトちょっと頂戴」

「だめ」ポテトに伸びたぼくの手を、愛美ちゃんはピシャリと叩いた。

 笑いながら彼女を見てみれば、これっぽっちも笑っていなかった。

 なるほど。

 これはどうしても許せないラインのようだ。



飛行機内



 フィンエアーの機内は暖かかった。

 雲の上は寒いと聞いていたし、だから機内持ち込み用のリュックサックにはブランケットを入れておいたのだけれど、ブランケットは機内で借りることが出来る。

 乗務員は、金髪のフライトアテンダントさんだった。

 そのフライトアテンダントさんは、ぼくたち以外に乗客がいないからと、ビジネスクラスに案内してくれた。

 うひょー。

 ぼくの右側には窓があり、その奥には、雲海と晴天が広がっていた。

 久々の離陸には戦々恐々としていたものだったが、通路を挟んだ左側に座る愛美ちゃんが、ビクビクと震えるぼくのことを気の毒に思ったらしく、チキンクリスプを一つ分けてくれたおかげで、どうにか頑張れた。

 ちなみに、愛美ちゃんはまだ食っていた。

 機内はガラガラで、ぼくたち以外に乗客は一人だけ。

 後ろの方に座るその金髪の女性は、機内がガラガラなのを良いことに、大きなノートPCをテーブルの上や隣の座席に広げてカタカタカタカタカタカタ……、と、先程から一心不乱に打ち込んでいた。

 愛美ちゃんは、レザートランクを開け、中からPCを取り出した。

 それならぼくもと、リュックサックからPCを取り出す。

 愛美ちゃんはMacBook、ぼくは小五の頃に買ってもらったChromebook。

 自動更新ポリシーは今年で終わりだった気がする。

 ぼくも次はMacBookにしようかな。

 別に自動更新ポリシーが過ぎても使えるし、動作も早いので、買う必要もないのだけれど、Apple製品は発表される度に欲しくなるから困る。

 見せ合いをさせてもらったら、愛美ちゃんは生粋のApple信者だった。

 iPhone12Pro max、新型のApple Watch、新型のiPad mini、新型のMacBook Proと新型のMacBook Air。

 ぼくはPixel4と無印のiPad、DellのChromebook。

「きみんちって、お金持ちなの?」

「普通だよ。普通の中流階級。父は中学校の先生で、母はパート。でも、今回みたいな感じでプロジェクトに予算をもらえたり、学園の仕事をよく手伝うから、その都度経費で色々買えるの」

「すごいね。今までどんなことやってきたの?」

「学園のPRとか、オープンスクールの集客とか、新しいアプリを作ったりとか、そんな感じ」愛美ちゃんは、フライトアテンダントさんに、聞いたこともない言語で何かを言った。

 フライトアテンダントさんはぼくを見た。

「なにか飲む?」と、愛美ちゃん。

「あー、コーヒー」

「ビールは?」

「飲まないよ。飲むの?」

「飲もっか」

「じゃあ、せっかくだから」

 愛美ちゃんは、フライトアテンダントさんに注文をした。

 二人は笑顔を交わした。

 少しして、席に運ばれてきたのは、コーヒーとシャンパン。

 愛美ちゃんはデビットカードをフライトアテンダントさんに渡した。

 フライトアテンダントさんは三つのグラスにシャンパンを注ぎ、そのうちの一つを、後ろの方に座る金髪の女性に持っていった。

「サービスだって」

「そんなことしなくても、このフィンエアーに乗るのなんてこれが最初で最後だよ」

 愛美ちゃんは笑った。

「少なくとも今後五年はない。大学出て働き始めるまではね」ぼくは、口元がほころぶのを感じながら、通路の向こうに立つフライトアテンダントさんを見た。

 彼女は、ぼくを見て笑顔を浮かべ、手を振った。

 ぼくはシャンパングラスを持ち上げて、彼女の笑顔に答えた。

「学園に来なよ。季節ごとに一ヶ月の休暇に入るし、夏休みは三ヶ月あるし、年度末には修学旅行先を世界五十ヶ国の中から好きに選べる。学園の校舎は世界五十ヶ国数百の都市にあるから、そこで寝泊まりして、一週間あっちこっちをぶらぶら歩くの。楽しいよ」

「来年からそっちに行きたいな」

「待ってるね。学園の授業は英語だから、勉強しといた方が良いかも。新入生とか転校生用の英語クラスもあるけど、事前にやっておくに越したことないわ」愛美ちゃんは、MacBookをカタカタやり始めた。

 ぼくも、Chromebookを開くが、日記を書く以外に特にやることもないので、目の前のモニターを操作して、映画を見ることにした。

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