弟を溺愛するあまりラノベ作家デビューした兄ちゃんの話

蓮乗十互

第1回 溺愛するだろ

 溺愛できあい、という言葉がある。愛におぼれると書く。

「愛に溺れるなんて信じらんない」

 湯ノ川姫子はそう断言した。中三の時だ。

「愛なんてホルモンがもたらす錯覚じゃない。依存すれば溺れるに決まってる。アブナイおくすりと同じ、体外から摂取するか体内で生産されるかの違いだけ。そんなもんで道を踏み外したら、生涯獲得収入は一桁、下手をすれば二桁違ってくる。なのに目先の愛に溺れるなんて、信じらんない」

 俺は曖昧に頷くだけだった。同意しないが、反論したって通じるわけがない。澄舞すまい大学教育学部附属幼稚園の二年間、同附属小学校の六年間、同附属中学校の二年半、併せて十年以上の付き合いだ。姫子の性格は、よくわかってた。

 姫子がなんでこんな話題を持ち出したのか、どんな話の流れだったのか、今ではもう思い出せない。きっと思春期のなせるワザだったのだろう。

 昔の話だ。姫子とは高一の夏を最後に、もう七年も会ってない。


        *


 俺の名前は椋尾むくお公彦きみひこ。中学までは成績優秀品行方正順風満帆な人生を送っていた。地元で一番の進学校・松映まつばえ北高校のハイクラスに入ったところまでは、完璧な人生設計だった筈だ。それがなんでこんな事に。

 うん、この話は止めよう。痛いから。主に俺のメンタルが。

 俺は現在、自宅警備員として七年のキャリアを誇っている。平日昼間は家族が誰も家にいないから、俺が警備をしなくては危なっかしくてしょうがない。

 だから、いいんだ。これで、いいんだ。

 警備に従事する間は、自分の部屋でアニメを観たり漫画を読んだりネットの海で世の中の真実を学んだり、することはたくさんある。昔の友人たちとは、唯一の例外を除いて交流が途絶えて久しいが、ネットには世の中の真実のために戦う仲間が大勢いるから、寂しくなんかない。

 おっと、目から心の汗がこぼれそうだ。


        *


 現在の我が家の家族構成は五人。俺の他に両親と妹そして弟がいる。

 このうち大学一年生の妹は、家を離れ大学至近のアパートで暮らしている。我が家から歩いて僅か十五分で澄舞大学に通えるというのに、月四万円の家賃を払って──自分でアルバイトをして稼いでいるのは偉いが──気ままな独り暮らしを満喫しているわけだ。

「お兄ちゃんが悪いんだからね!」

 以前ゆきのに面と向かってイヤミを言った時、あいつは顔を真っ赤にして怒ったっけ。

「本当ならお兄ちゃんが先に進学か就職で家を出てる筈でしょ。なのにいまだに家にいて、部屋をひとつ占領してる。たくちゃんが中学生になっても自分の部屋がないなんて、可哀想だと思わないの!? だから私が! 大学だって忙しいのに!! アルバイトでお金を稼いで!!! 家を出るしかなかったの!!!! わかった? このろくでなし!!!!!」

 痛い痛い、メンタルが痛い痛い痛い。

 この話もやめよう。

 メンタルを回復するには、たくちゃん──愛する弟を思い出すに限る。妹ゆきのは俺を毛嫌いしてちっとも可愛くないが、たくちゃんは俺をまっすぐ慕ってくれるから。

 そんな人間は、この世の中で、たくちゃんたった一人しかいないから。


        *


 我が最愛の弟は、名を椋尾琢彦たくひこという。我が家の末っ子で、中学一年生になった今でも、家族は彼をちっちゃい頃と変わらず「たくちゃん」と呼ぶ。

 たくちゃんが生まれた時、俺は十歳になったばかりの小学四年生だった。

 深夜に妹と共に起こされ、「母さんの陣痛が始まったから、みんなで病院に行こう」と父さんの車で移動し、2時間後には立ち会い出産の分娩室で産声を聴いた。

 赤ん坊という生き物を見たのは、多分その時が初めてだ。テレビで生まれたての子鹿を見たことがあるけれど、ちょうどあんな感じだ。小さい。しわくちゃ。なんか湿ってる(産湯上がり)。泣き声もか細い。

 この二ヶ月くらいずっと、俺は母さんの大きくなったお腹を撫でながら、まだ見ぬ弟を想像して声を掛けてきた。でも、ついさっき母さんから出てきたは、なんか思ってたんと違った。正直、気持ちの腰が少し引けた。

「抱っこしてみる?」

 母さんに尋ねられた時も、怖くてすぐには返事をしなかった。けれども、椅子に腰を下ろし、父さんから赤ん坊を託されて、そっと小さな体を抱き留めた時──。

 何かかが胸の奥で、じゅわっ、とにじむのを感じたんだ。

 今なら分かる。あれはホルモンだったんだ。愛情ホルモン。幼い同族を愛おしく感じさせる、種の保存に最適化された生体反応。

 予想していたより随分と軽い。そして、予想していなかった温もり。父さん母さんに抱きしめられる時と同じ、とても優しい気持ちになる温かさ。

 母さんと赤ん坊は一週間ほどで退院し、我が家に戻ってきた。

 時間とともに、弱々しかった赤ん坊は少しずつ成長していった。目が開き、表情が生まれ、手足をばたつかせ、寝返りを打ち、顔を上げる。俺はたまに母さんに頼まれて、オムツを替えたり、哺乳瓶で温かなミルクを飲ませてやった。んくんくと凄い勢いでミルクを飲む様子は、どうしてこうも可愛いのだろう。

 やがて言葉を話すようになると、たくちゃんは俺のことを「にいちゃん」ではなく、父さん母さんがいうように「きみひこ」と呼んだ。四歳年下のゆきのは俺を「お兄ちゃん」と呼ぶ。お母さんが、俺をそう呼んでいたから。

 俺がいろいろあって高校を中退した時、父さん母さんゆきのとは、心の距離が遠ざかったように感じた。

 でも、当時幼稚園児のたくちゃんだけは、変わらず俺の膝の上で全身を緩めて笑っていた。

 今や十三歳のたくちゃんは、俺の目線くらいまで身長が伸びた。でも体重では俺の方が随分上だ。デブではない、兄の威厳というやつだ。

 たくちゃんは今でも俺を「きみひこ」と呼んでくれる。その笑顔は、幼い日のそれと少しも変わらない。俺のたくちゃんを愛おしく思う気持ちも、同じだ。


        *


 愛はホルモンがもたらす錯覚だと、湯ノ川姫子はいった。

 錯覚上等、と今の俺なら姫子に反論できる。たぶん。おそらく。もしかしたら。

 でもさあ、こんな可愛い弟がいたら、誰だってさあ。

 溺愛するだろ。


 続く




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