第10話

「似合ってるよ」

「ありがとうございます。とは言っても普段の服装にエプロンつけただけですけど」

 いつもの中庭とは違う場所に、私の傍にいるのは精霊たちではなく庭師として雇われている大らかな中年男性。と、様子を見に来たダリル。

 作戦は至って簡単、心優しい公爵様が泥まみれになりながらも働いている庭師の女性に心を砕くというもの。普通なら噂程度にしかならないものだけれど例の彼女は高い頻度でこの屋敷にやってくる、ということはそれを目にする頻度も高くなるということだ。

「軽い手伝いをしてくれるだけでいいよ。君も自分の庭の手入れがあるだろうし無理はさせないからね」

「ありがとうございます、でも手伝えるのならば力の限り手伝います。こちらも協力してもらっている身なので……」

「俺が快諾したんだ、そこまで堅苦しく考えなくていい」

「そうだよ坊っちゃんの我が儘でここにいるんだろう? のんびりすればいいんだよ」

「ゴホンッ」

 ダリルのことを「坊っちゃん」と呼ぶ人物に初めて会って思わず目を丸くする。あのローマンですら「ダリル様」だというのに。余程この庭師の人と長い付き合いで気心の知れた仲なのだろう。ダリルが数回咳払いをしている隣で庭師の人が楽しげに笑っている。

「しかし……本来ならドレスを着飾っていいというのに、こういう格好をさせることになるとは……」

「向こうといたときと大して変わらないわ。寧ろこっちのほうが落ち着くかも」

「……お嬢ちゃん、苦労してきたんだねぇ」

 私の過去を詳しく知っているわけではなさそうだけれど、私たちのやり取りで何か思うところがあったのか庭師のことは涙目になって何度も頷いている。何かを言ったほうがいいのか悩んだけれどダリルがゆるく首を振り「気にするな」と言うものだから、曖昧な表情を返すことしかできなかった。

 それから手袋と長靴、必要なものがあったら渡すし汚れを落とすときはあっちでと色々と教えてもらい、庭師の一人として日々を過ごすことにした。そして多忙な彼には悪いけれどあの令嬢が来るのを見越した上で、私に会いに来るようにしてもらう。令嬢の視界に入ればいつもより距離を縮めたり、そして軽い接触などもしてそれらしく見せる必要もあった。

「今日も来てる?」

「ここのところ毎日来ているようだな。ローマンに敢えて通すようには言っているが」

「よく毎日来る時間があるわね……」

「それだけ効果があるということだろ」

 数日経ったけれど、予想していた通り彼女は足繁く通うようになっていた。最初はそれこそ私たちの姿を見た途端喚き散らしていた。あの女は一体なんなのか、なぜたかが使用人が屋敷の主と仲良さげに喋っているのかと。あまりにも騒ぐものだから騎士たちがやってきて彼女を外へ引き摺り出していた。

「ダリルだって、毎日忙しいのに……」

「俺はどちらかと言うと……役得になっているけどな」

「……?」

 今も令嬢がこちらを見ているのか、ダリルが距離を縮め私の耳元に唇を寄せながら頬を撫でていく。声も聞こえない距離でこの状況を見ていたらまるで愛でも囁いているように見えるだろう。視界に入っているルーニがぴくりと動いたということは、あの令嬢は私に殺意を抱いたのかもしれない。

 スッとほんの少しだけ彼の腰に手を回せば今度はファルが宙を舞った。令嬢が武器か何かを持っている可能性は低いけれど、もし持っていたとしても今は困る。彼が向こうに背を向けている状態になっているため私からだと死角になっているのだ。令嬢が真っ直ぐ来てしまえばそこには彼の背中、ナイフが刺さるならばそこなのだ。

「ダリル……あと数日の辛抱だから」

「数日と言わず、いつまでも構わないぞ」

「それだと貴方の仕事が滞るでしょ」

「手厳しい」

 騎士が走ってきて令嬢に声をかけているのが僅かに見える。めずらしく喚きもせずに黙って出て行くところを見るともうそろそろかもしれない。彼女の姿が見えなくなるとダリルから距離を取り、そしてルーニに視線を送る。私に危害を加える前に屋敷に火を放つなんてこともあり得る。そうならないための監視だった。しばらく待っているとルーニは戻ってきて、小さく息を吐き出した。

 それから二日後だった。あの日からダリルにはもう顔を出す必要はないと言っていたため、私が中庭の整備をしていたとしてももう顔を出すことはない。やっと面倒事から解放することができたとそっと息を吐きだし、いつものように庭師の仕事の手伝いをする。ただ今日はいつもと少し違って、他の人の目が触れにくい場所を敢えて狙った。私はまだまだこの広い屋敷をすべて覚えることはできていないけれど、ひと気のない場所は多少覚えたつもりだ。

 バケツを両手で持ちゆっくりと運んでいると、ゆらりと人影が現れる。いつものように暖色のきらびやかなドレスではなく、真っ黒でボディラインが綺麗に浮き出る洗礼されたドレス。光りに当たれば不思議なことにキラキラと輝くものだから作り手の手腕が見て取れる。

 真っ赤なアイライン、真っ赤なルージュ。強気の顔がただ見窄らしい私の顔を光の宿っていない眼でじっと見ていた。

「ご機嫌よう、貴女、ここの使用人かしら」

「ええ、そうですが」

「そう。その格好からして庶民かしら。わざわざ貴女のような者も雇うなんて、本当、慈悲深いお方ね」

 今まで散々聞いていた怒鳴り声とはまったく違い、醜い言葉遣いをすることもなければ淡々としている。ここだけ見たら嗜みのある令嬢にしか見えないだろう。そんな彼女の態度に私も「そうですね」とまるで他愛もない会話のように相槌を打つ。すると彼女は薄っすらと美しく笑ってみせた。

「でも貴女は邪魔なのよ」

 どこからか現れたナイフは真っ直ぐに私に突き進んでくる。騎士や、他の使用人を使ったほうが楽だし証拠隠滅だってできるのに敢えて彼女はこの方法を選んだ。それだけ恨みが積もりに積もっていた証拠だ。

 けれど移動も馬車、何かをするときは別の誰かがやってくれる。社交場で美しく笑い佇み艶やかな花である女性が、果たして肉にナイフを突き立てる力があるだろうか。突進してくる身体も決して素早いわけではない、ヒールの高い靴を履いているのだから強く踏み込むこともできない。一方ブーツを履いていた私はそれを一度かわすことができた。

 ひらりと身を翻せばさっきまで綺麗な笑顔を浮かべていた顔が酷く歪む。淑女らしい喋り方が途端に乱暴になり甲高い声に変わる。

「さっさと死になさいよ!」

 『道具』として扱われていたことはあったけれど、そういう言葉を言われたことなどないなと思いつつ咄嗟にナイフを叩き落とそうとした手を寸止めする。今回の目的は別に彼女を逆上させるだけではない。頃合いを見計らい、刺す動作から無造作にナイフを振り上げる動作に切り替わったころ動かしていた身体を一瞬だけ止めた。

 肉が裂け血が流れる。シャツを一枚駄目にしてしまったと思いながら左腕に視線を走らせれば、そこはしっかりと赤く染まっていた。人を斬るのも血が流れているのを見るのも初めて、そのせいか彼女は一度躊躇った。その間に距離を縮めナイフを叩き落とす。そしてここ数日ダリルに言われたからか、ずっと私を影から警護していた騎士が姿を現し容赦なく令嬢を拘束した。

「キャロライナ・カリスタ・オパール、これ以上は見過ごせない」

「はっ、放しなさいよ! わたくしが一体何をしたってッ」

「彼女を殺そうとしただろう!」

 令嬢が私を殺そうとしたのは私がそう仕向けたのであって、彼女はただ罠にはまってしまっただけだ。どちらかと言えば私も一枚噛んでいる。それなのに騎士のあまりにも激昂ぶりに流石にやり過ぎだと思い、彼を止めようと足を進めたけれど。そんな私を止める手が後ろから現れそれ以上前に進むことができなかった。

「オパール嬢、まさか殺害をしようとするとはな」

「……ッ! ダ、ダリル様! 違いますわ、わたくしはただ、立場を理解しろと忠告をしに……」

「ならばそこに落ちているナイフは何だ、彼女が血を流している理由は何だ、すべてお前がやったことだろ」

 カツカツと靴が鳴る音が随分と響いて聞こえる。顔を真っ青にし震えている令嬢にダリルは屈みこむこともせず、ただただ上から見下ろした。

「俺は再三注意をしたはずだ。だがお前は一方的に思い込み何も理解しようとはしなかった」

「な、何を……だって、ダリル様、貴方はわたくしを愛しているのでしょう……?」

「俺はお前のような身勝手な女など愛するわけがないだろう。連れて行け」

「はっ」

「そ、そんなっ……う、そよ……嘘よぉッ!!」

 無理矢理立たされ引きずるように連れて行かれる令嬢に声をかけようとしたけれど、私も私で別の手が私を引っ張っていく。

 確かに令嬢が流血沙汰なんて起こせば社交界で噂はあっという間に広がり、彼女は立場をなくすだろうとは思っていた。ただ噂が広がればよかっただけの話しだ。例え彼女が傲慢でメイドや執事たちを蔑ろにし貴族の娘としての責任をも放り出し、一人の男性に付けまわるような人物でも。あそこまで怯えさせるつもりなどなかった。

 ダリルの背中に声をかけようとしてもそれができる雰囲気でもなく、大人しくついていくしかない。私についていた騎士が報告だけするのだろうと思っていたら、まさかダリル当人が来ると。

 大人しくついていった先は一度も見たことのない部屋。ここに来る道筋もまったくわからずもう一度一人で来いと言われてしまったら迷う自信がある。ここに来るまでずっと無口だった彼は私をソファの前に移動させると、肩をそっと押して座るよう促した。ソファは柔らかく私を受け止め、そして彼はその私の左側に腰を下ろす。

「……まずは洗い流さないと」

「マチュリー、お願い」

 彼が立ち上がる前にマチュリーにお願いし、彼女は空中でちゃぷんと跳ね上がると切り傷を綺麗な水で洗い流してくれる。次にランにお願いして持たせていた傷薬を持ってきてもらった。蓋を開け、傷薬を指で掬い切り傷に塗り込む。そのとき強めの痛みは走ったけれどそれよりも傷口が塞がっていく様子を眺めてふと息を吐いた。

「まさか自分に使うなんて」

 誰かの役に立つだろうと思っていた薬を自分が真っ先に使ってしまって思わず苦笑がもれる。けれどそのおかげでこの薬の効き目がよくわかった。これなら騎士の人たちに渡しても問題なさそうだと一人で納得していたら、隣で重々しい息が吐き出された。

「……嫌な予感がしていてが、まさか、自分の身体を使うとは」

「他の誰かに傷を負わせるわけにはいかないでしょ?」

「彼女を追い出すために君が傷付くと知っていれば止めていた」

「だから詳しくは言わなかった」

「だろうな」

 ダリルがソファに凭れかかると背凭れは小さく沈んだ。随分とクッション性のあるソファだと関心している場合ではないのだろう。だからと言って他に何か言えるかというと、そうでもない。精霊たちの気持ちはよくわかるのにこういった場合の人の気持ちは私にとっては難しいものだった。

「こうなるのなら最初から力尽くで追い出すべきだった」

「でもそうなると、貴方が周りになんて言われるか」

「別に今更。俺は嘲笑うばかりの貴族の評価などどうでもいい。それよりも大切なものを守れるかどうかだ」

 彼は身体を起こすと布を取り出し私の左腕に巻いていく。すでに血も止まっており手当ても済んでいるためわざわざ布を巻く必要はない。剣術などを嗜む彼もそれはわかっているはずなのに、布で赤く染まっている箇所を覆い隠すと今度は小さく息を吐きだした。

「……ダリル、彼女はどうなるのかしら」

「え……?」

「私についていた騎士も随分とこう、拘束する力が強かったような気がするから。彼女を罠にかけたのは私で、そうでなければ彼女も人にナイフを向けようとは思わなかったはずだわ。だからあまり、怖い目には……」

「……君は」

 少し沈んだ声色に顔を上げる。ダリルはまるで痛みを堪えるような顔で、グッと眉間に皺を寄せながらもなんとか笑顔を浮かべようとしていた。

「ロザリアは、俺の気持ちはわからないのにああいう人間に向ける慈悲はあるんだな」

「それは……私、後ろめたさがあるからよ。責任逃れしようとしているだけ」

「それならすべて彼女のせいにすればいいだけの話しだ」

 そもそもすべての元凶は向こうだ、と彼は話を切り上げてしまった。彼女のその後の処遇など告げることもなく、いつの間にかやってきてきたローマンにお茶を勧められ喉を潤すしかなかった。そして改めて部屋の中を見てみれば机の上にある様々な資料や書類、ここが彼の書斎なのだとようやく気付く。

 仕事の邪魔になるだろうからと立ち上がろうとしたのだけれど、それをローマンにやんわりと止められる。ダリルはいつの間にか資料を手にして目を通しているようで、そんな彼を見てローマンは小さく笑った。

「ダリル様はずっとロザリア様の心配をなさっていたのです」

 おやつを持ってくるからよければ食べ終わるまでこの部屋にいてほしい、と付け加えられ浮かしていた腰を下ろす。邪魔になりそうなものの視界に入っていれば安心なのですとまで言われ、首を傾げつつも頭を縦に振った。これを精霊に置き換えると、確かにあの子たちの中で誰かが怪我をしたら心配で遠くへは行ってほしくないかもしれない。そう思い直しなんとなくダリルの考えに納得した。

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