第4話
「マチュリー、これに水を入れてくれる? ファルはあたためて」
器を差し出せばちゃぷんと音を立てて水が入る。その器に下から火が現れて水がゆっくりとあたためられる。そこに収穫したばかりの葉を順番に入れていく。煮立てれば葉から色が滲みでて淡い緑色になった。
「よし、あとは容器に移せば完成ね」
これを注文したお客さんはとあるご老人で、足の悪いご婦人のために痛みが和らぐものを作ってほしいと頼まれた。持ち運びやすいようにと小瓶に移した液体は、こぼれないようにしっかりと栓をする。紙袋にその小瓶と使用上の注意を書いたメモを入れ、その間にこちらを見ているルーニに気付き笑顔を向ける。
「これは取りに来てくれるらしいわ、ルーニ」
数ヶ月前の話になる。私はとある場所から身を投げた。真っ逆さまに川に落ちて、鼻や口に水が入って咽ながらもなんとか川から這い出た。私一人では穏やかな流れだったとはいえきっと流されていただろうけれど。
「……はぁっ! ゴホッゴホッ! あ、ありがとう。マチュリー」
精霊の力も借りて生き延びることができた。何も最初から命を断つつもりなどまったくなかった。そのために精霊たちに色々と準備を手伝ってもらったのだから。
私の望みは自由になること。それを自らの手で掴みに行っただけにすぎない。
「……慌ただしくなってきたわね。見つかる前に行かなきゃ。ルーニ、案内して」
あのマルスの性格からして、もしかして必死に死体を探そうとしてくれるかもしれない。けれど彼がそこまで心を痛める必要もない。契約をしてあの場所から連れ出してくれた彼に恩を仇で返すのは申し訳ないけれど、私もチャンスを棒に振るわけにはいかなかった。そうしてルーニに先行してもらって私はヘリオドールの屋敷をあとにした。
それから精霊たちにも手伝ってもらって、準備していたこの家に移り住んだ。人里から少し離れた場所にひっそりと佇む家。最初は人が住まなくなって随分時が経っていたのかだいぶぼろぼろだったけれど、みんなで協力して無事寝泊まりができるほど修復できた。元より前にいた場所が場所だったため、寝れる場所さえあればOKだったんだけど。キッチンもあるしこうやって作業をできるスペースもある。一人暮らしとしては申し分ない。
ただ精霊がいるからと言って流石に何もしないわけにもいかない。そう思い前々から気になっていた薬の生成に手を出した。オブシディアン家では『道具』として置かれていただけだったため、とにかく暇をしていた。だからと言って本を貸してくれるわけでもなく、そのときも精霊たちが色々と教えてくれて今はこうして無事に売ることだってできるようになった。
「みんなのおかげで薬草もすくすくと育っているし、村の人たちも喜んでくれているからよかったわ」
最初は余所者として怪しまれないよう、引っ越してきたその日に身なりを整えて周辺の家々に挨拶をした。最初こそは怪しまれたけれど「家を飛び出してきた」と告げれば、家出をした訳有りなのだろうと納得してもらった。何か困ったことがあったら言ってねと口々に言ってもらい、優しい人たちでよかったとホッと胸を撫で下ろした。無一文で飛び出してきたため、その日は野菜などを少量分けてもらったのだけれど。薬が出来上がったときにあのときのお礼だと言って手渡した。
この世界は回復が使える治療師がいるけれど数は多くはなく、また病気を治す医師も人が多い中心部に集中してしまっている。のどかな村などでは自分で葉っぱなどを煎じて飲んでいると、その知識もまた精霊たちから教えてもらった。だから私が薬を自製したとしても特に怪しまれることなく、村の人たちは難なく受け取ってくれた。
それからだ、薬を実際使ってくれた村の人たちからまた作ってくれないかとお願いされるようになったのは。自分たちが煎じたものよりもずっと効き目がいいと、お礼はちゃんとするからと頼まれたのを断るはずがない。薬はもちろん作ります、だからまた美味しい野菜を少しだけ分けてください。そう私が言った瞬間、薬と野菜との物々交換は成立した。まぁそれからまた別の人から「いっそ売っていたらどうだい?」と言われて、そしたらお言葉に甘えて売らせてもらおうとなったのだけれど。
「飲み薬もいいけれど、外傷的なものはやっぱり傷薬のほうがいいだろうし……薬の種類を増やす必要があるわね」
一人でブツブツ言いながら赤い蝶々に目を向ける。彼女は数回羽根をばたつかせ私はそれに頷いた。不思議なことに、昔から精霊が言いたいことはわかっていた。だからこそ色々と教わることができたのだ。
「ラン、お客様はまだかしら」
ドア付近で眠っている狼は一度顔を上げたあと、また眠りの体勢に入った。あの子は他の精霊たちよりもまだ若くやんちゃな子どもみたいなところがあるんだけれど、今は遊び疲れているのかよく寝ている。門番としていてもらっているだけれど、しばらく他の子たちに任せたほうが良さそうねと苦笑した。いざというときはルーニが叫んでくれるから大丈夫だろう。
そういえば、彼はどうなったのだろうかと一瞬そんな考えが過ぎる。まぁ私が心配したところで結婚なんてすでになかったものにされているだろうし、めでたくあの女性と結ばれているだろう。私のことで罪悪感を抱いていないかだけは少し心配だ。恩を仇で返す女のことなんて早々に忘れてしまってほしいと切に願う。
「あ、来たかしら」
トントンと軽くドアをノックされる。この薬を注文した人が取りに来たのだろうと椅子から立ち上がり、迎え入れようとドアノブに手を掛けたときだった。ルーニが翼をばたつかせ、寝ていたはずのランが飛び起きた。彼らの忠告でドアの向こうにいる人物が決してお客さんではないと飛び退いたけれど、でも反応するには遅かった。音を立ててドアは開かれ、向こうにいた人物が顕になる。
そして見えた金髪碧眼に、私は思わず目を丸くした。
「……なぜ」
お互い目を合わせたまま固まっていた。ただ意図せずポロッとこぼれた声に、まるで呪縛が解けたかのように彼はハッとしてあっという間に距離を縮めたかと思うと力強く私の両肩を掴んできた。
「怪我はないのか?!」
「え……?」
「怪我は……どこにも、ないようだな」
ザッと視線を走らせて、大きな怪我がないことを確認した彼はホッと息を吐きだした。どうして彼がここにいるのか、なぜ私に怪我がないことをこんなにも安心しているのか。わからずに戸惑うしかない。
「待って! ラン、駄目よ!」
けれどそんな彼の後ろで唸り声を上げているランの姿が目に入った。今にも飛びかかりそうな勢いに急いで声を上げ手を掲げ牽制する。私の後ろでは相変わらずルーニが威嚇し、金魚鉢からは激しく水面を叩く音に宙を舞っていた蝶は火の粉を降らせる。このままでは大きな騒動になってしまう。
「待って」
彼らを落ち着かせるためにもう一度口にする。もし相手が強盗ならば私も止めることはしない、けれど目の前にいるのは決してそんな卑しいことをする人ではない。なぜこの場に現れたのかはわからないけれど私に危害を加えるとは思えなかった。
次第にそれぞれの威嚇の音が小さくなり、辺りがシンと静まり返ってようやく息を吐きだした。でもまだ警戒は解いてないようで、彼が少しでも私を傷つけるようならば彼らは容赦なく動くに違いない。折角村の人たちと親しくなっていたのに騒ぎでそれを無駄にしてほしくないと彼らに祈りながら、もう一度目の前に黙って立っていた人物に視線を向ける。流石に自分に向けられた殺意は感じ取ったかもしれない、怒ったりしたらどうしようかと心配したときだった。
「……よかった。彼らは変わらず君の傍にいたんだな」
怒るどころか、心の底から安堵したかのような声。それに、その言葉の意味に目を見開く。ヘリオドールの屋敷に行ってから一度も人の目につくような場所でルーニたちを呼んだことはなかった。つまり屋敷の者たちは彼らの存在に気付いてはいなかったはず。それなのに彼はそう口にした、それはつまり。
「覚えていたの……?」
「俺は忘れたことはない、『ユノ』」
目からうろこと言えばいいのか。予想にしていなかった言葉に思考が停止した。あんな幼い頃の記憶なんて、覚えているのは私だけだと思っていたから。
彼が困ったように微笑みそれを見て我に返る。いつまでも立たせているわけにもいかないと、椅子に座るように勧めて私は作業用で使っていた簡易椅子に腰を下ろした。
「えっと……なんでこんなところに」
「先にまず謝らせてほしい。すまなかった」
「……貴方が謝るようなことあった?」
私が彼に謝ることがあっても、その逆なんてないはずだ。まったく心当たりのないことに困惑しつつ首を傾げる。彼はずっと頭を下げているし、そんなことする必要はないと声をかけようとする前に彼が先に言葉を発するほうが早かった。
「すぐにでも、取り引きを終えたかった。だがその間君を蔑ろにした。君を君が最も嫌う『箱庭』に閉じ込めてしまった。本当にすまなかった」
「別に蔑ろにしてなかったわ。ちゃんと衣食住あったし、それに貴方が取り引きしている間私も色々と準備していたから……」
「君を『自由にする』と約束した」
幼いころ、確かに彼は私を迎えに来るとは言ってくれた。けれど自由にするとまで言ったかしらと記憶をたどる。私が自由を望んでいたことは、確かに言ったとは思うけれど。
「それと……屋敷の者たちに君を『奥様』と呼ばないようにと注意していた。あれは契約であり、結婚ではなかったから。そんなもので君を縛りたくはなかった」
確かにあれは結婚という名の契約で、私はそのための道具だった。それは私もわかっているから屋敷の者たちの態度にも当然そうなるだろうとは思っていた。突然やってきた『道具』を受け入れろというほうが無理だ。そもそも、彼にはすでに相手がいたのだから尚更。
「取り引きを急いだのも……契約などではなく、正式に君に求婚したかったからだ。君が望むのであれば自由を選んで屋敷から出てもよかったし、俺の想いを受け入れてくれるのならばこの手を取ってほしいとは、思って……いたが……」
「……ん?」
「……存外、俺は諦めの悪い男だったようだ。君が身を投げたあと生きていると信じ必死に探した」
「え?」
「ユノ……いいや、ロザリア。君さえよければ俺の想いを受け取って……」
「ちょっと待って!」
急いで立ち上がりさっきランにしたように、手を掲げて彼の言葉を遮る。米神に人差し指を当てウンウンと唸ってみるも、彼がやってきてから驚きの連続でまったく考えがまとまらない。
「待って……貴方、結婚したんじゃないの?」
「君とか? まだ正式に結婚していないが」
「私じゃなくて貴方と一緒にいた幼馴染よ。お互いを想い合っているんでしょう? 実際メイドがそう話していたのを耳にしたし、だからあれは本当に結婚ではなく契約だと」
「どのメイドだ」
「え?」
「どのメイドがそう言っていた」
彼の雰囲気がガラリと変わり、浮かせていた腰を簡易椅子に戻る。誰がどう見ても怒りを露わにしている彼に、そんなメイドが悪いことをしただろうかと思ったけれど彼はジッと私を見てくる。これは言わなければずっとこの状態のままだ。流石の精霊たちも少しだけ戸惑っている。
「どのメイドかなんて……声しか聞いてなかったからわからないわ。別に、私もその通りだと思っていたし」
「……その件はあとで調べよう」
いやだから調べるようなことでもないのに。もしこれで彼がそのメイドを探し当ててしまったときはどうするのだろうか。あまり良い予感がせず眉間に皺を寄せる。彼女は決して間違ったことはしていないと思っているのだけれど。
「それで、どうなんだ」
「どう、とは?」
「俺の気持ちを受け入れてくれるのだろうか。そうであれば君と共に屋敷に戻り、そして今度こそ正式に結婚したい。決して契約などと言うものではなく」
そんなこと突然言われても、困ることしかできない。だって私たちがまともに会話をしたのは幼少期のころだけだ。しかもたった数分にも満たない短い間。その間に彼が私にそういうことを言ってしまう感情を抱いてしまったと言うのだろうか。確かに私はあのとき一緒にお喋りしたかったのは楽しかったけれど。
でも、私には自分が欠陥のある人間だということをよくわかっている。
「……応えられないわ。だって、人は無理よ」
「わかっている、君のこと」
間髪を入れずに返ってきた言葉に軽く目を見張る。そんな私に対し彼は、あのときと同じように優しい眼差しを向けてきた。
「君は精霊のことは愛しているだろう?」
「……ええ、そうよ」
「それは精霊も君を愛しているからだ。だから君も同じ愛情を彼らに返している。だが……君はあの『箱庭』にいる間、君に愛情をあげた人間が周りにいなかった。違うか?」
「……その通りよ」
「だから君は人の愛し方がわからない。愛情をもらえなかったからだ。だから……これは、提案なのだが」
彼はコホンと一つ咳払いをすると、どこか緊張した面持ちでもう一度私に視線を向ける。顔に対して瞳の奥はしっかりとした力強さがあった。
「俺が、君に愛情を教えたいと思う。だから少しずつでもいい、愛され方を学んでくれないだろうか」
それは、彼のどこに得があるのだろうか。正直にそう言葉にすれば彼は笑顔で「得しかない」と言ってみせる。誰かを無償で愛することなんてあり得るのかと思っている私の価値観を、彼は徐々に変えたいと思っているのだろうか。
「もちろん、君が自由を求めてここに残りたいというのであれば強要はしない。ただ俺が顔を出す頻度がかなり増えるだけだ」
「それは、お客様として?」
「薬を作っているんだったな。そうだな、傷薬などを買いに来るかもしれない。毎日」
「毎日だなんて、そんなの手間だわ。まとめ買いしたほうがお得よ」
「大量に作れるのか?」
それは、どうだろうか。丁度傷薬の製作などに着手しようとしていたところだから、今はまだそんなに大量に作れないと思う。けれどヘリオドールの屋敷からこの家までは距離がある。それを毎日だなんて、公爵である彼の時間をそんな無駄なことに使わせるわけにもいかない。
彼は苦笑してみせたあと「一度だけ」、と言葉を続ける。
「一度だけ、俺と共に屋敷に戻ってくれないだろうか。君のために準備していたものがあるんだ、それを見てほしい」
「……それを見て判断してほしいと?」
「それもある。気に入らなければここに戻ってきてもいい。どうだろうか」
そこまでしてもらって、少しどころかかなり断りづらい。そういう場所があったとは知らなかったし、屋敷にいたころ彼の話を聞こうともしなかった。そこは私も悪いということはわかっている。
見るだけならば、とゆっくりと顔を縦に触れば彼の顔はパッと輝いた。まるで昔彼が精霊に気付いたときの私の反応と似ていて、私もこんな顔していたのかしらと苦笑する。そしてすぐにでも戻ろうとする彼に待ったをかけた。
取りあえず、今日薬を取りに行くお客様に薬を手渡ししなければ。準備もあるし、少し待っていてほしいと告げれば、彼は一度固まりそして浮かせた腰を下ろした。悪いがお茶を一杯くれないかという言葉つきで。どうやら緊張で喉が乾いたらしい。
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