第3話

 幼いころ隣接している国に父と共に行ったときに、とある少女に会った。傍にあった家は家と言えるようなものでもなく、庭もいくら鉱山の国だからとは言え岩が剥き出しになっており手入れもされていない。その中で一本だけ生えている木の傍に鳥と共にいたのが彼女だった。そのとき父は視察に言っており恐らくそのときに領地の者と話をしていたのかもしれない。あまりにも長く待たされていたものだから、正直に言って暇だった。

 だから同じように暇をしていそうだった少女に声をかけた。ただその少女はその領地の貴族の特徴である金髪碧眼ではなく、黒髪にめずらしい紫の瞳。もしや他所の者が勝手に入ってきたのかと思いもしたが、少女は間違いなくここに住んでいると口にした。

 綺麗なドレスもない、靴も汚れておりカサついている手。他の娘たちと明らかに待遇の差があることが見て取れて、もしや少女は病んでいるのではないかと心配したが……そんな俺の心配を他所に少女はしっかりと受け答えができたし何より、その瞳は決して薄暗くはなかった。

 そんな少女に徐々に興味を持ち始めた。喋っている間ずっと無表情だったが彼女が俺に秘密を打ち明けてくれて、そして俺がそれを受け入れたとき。確かに普通に見える鷹の眼が緑色に見えると言ったとき。今までの無表情が嘘のようにパッと輝かせた笑顔。愛らしい顔だ、とするりと出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。流石に初対面の男にそんなこと言われたくはないだろう、そう思って。

 だが話を続けるにつれて、少女が如何に不遇な扱いを受けそして危うい立場に立たされているのかを知った。彼女自身もそれをよくわかっており、それでも自分のたった一つの望みを己の手で叶えようとしている。その小さな手でだ。

 放っておくことなんてできやしない。例え精霊が傍にいると言っても、本当にいつでも彼女を助けてくれる確証が俺にはなかったのだから。

 だから約束した。こんな状況から必ず彼女を助けると。もしかしたら幼少期の儚い記憶として彼女から消えてしまうかもしれないが、俺はそれでもよかった。俺だけ覚えていれば、そうすればきっと彼女を迎えに来ることができるはずだと。

 それからひたすら己を磨いた。彼女を迎えに行くとき決して恥ずかしい男にはならないために。地位も力も知識もいる、父に頼み込んで優秀で厳しい家庭教師をつけてもらい必死に勉学を励み騎士たちにも厳しく訓練をさせてもらった。自分の不遇を受け入れながらもそれでも力強い眼差しをしていた彼女を、どんなときでも何があろうとも守れるようにと。

 やがて父の跡を継ぎ公爵となった。そして基盤が安定してからすぐに取り引きに取りかかる。本当ならば石の取り引きは別にミニエラ国でなくてもよかった。隣接する国は他にもありそしてそこはミニエラ国ほど多くはなかったが石が採掘できる。取り引きの価格も低く契約を結ぶにはその国がよかっただろうが、それでも俺にとってはミニエラ国である必要があった。

 取り引きという名目で、彼女をこちらの国に呼ぶのが目的だったからだ。そしてそれはようやく叶った。

「ダリル、緊張してるの?」

 遊びに来ていた幼馴染そう図星を突かれ思わず言葉を詰まらせる。そう、俺はここ数日緊張しっぱなしだ。

 数年ぶりに会った彼女は美しくなっていた。着ている服が彼女が相変わらずの不遇なのだとわかったものの、それでも背筋は綺麗に伸びていてゆるくウェーブのかかっている黒髪は光に反射してキラキラと輝いていた。

「……まさかあれほど美しくなっているとは」

「もう、しっかりしなさいよ。契約は終わっても取り引きが済んでいないんでしょう?」

「ああ、そうだ」

 結婚、とは名ばかりだ。その実『契約』となっている。そのことについては彼女にあとで謝罪をしなければならない。そのせいであんな簡素な結婚式となってしまい、とてもではないが祝いの場と言えるものではなかった。

 だが取り引きが終われば、契約や取り引きなどそんなもの関係なく正式に彼女に求婚するつもりだ。そこで彼女が俺の手を取らずに『自由』を取ったとしても、決して恨みはしない。彼女がずっと望んでいたのは結婚ではなく自由だったのだから。俺はただ、その手伝いをしたかっただけ。

「本当、一途よね。彼女が他の男に取られないようにって必死だったし」

「それは、そうだろう」

 もし迎えに行くまでに彼女が精霊を扱えると知った者が出てきてしまったら、彼女は恐らくそちらのほうで利用されてしまう。それは俺が何よりも危惧していたことだった。ただそちらのほうは杞憂で終わったようでホッと安堵したが。

「ところでこんなところで私とお喋りしてていいわけ? 彼女の傍にいたほうがいいと思うけれど。確かに『契約』ありきの結婚になってしまったけれど、それでも新婚よ?」

「……そこで相談したいんだが。女性は何をプレゼントしたら喜ぶ?」

「それを私に聞くぅ?! 本人に聞きなさいよ! 好きすぎて恥ずかしくて聞けないなんてどんだけシャイなのよ!」

「人聞きの悪い」

 確かに幼い頃は気軽に会話ができたが、数年経つとあの少女があんな綺麗な女性になっているとは。無駄に意識してしまい何を話せばいいのかわからなくなる。

 というか、セレネはそう言うが取り引きを早く終わらせたいために多忙になってしまい、中々会いに行けない状況になってしまっているのだ。メイドたちに様子を聞いてはいるが、大体部屋で過ごしているという。見知らぬ土地で身体も慣れていないだろうから、彼女のペースに合わせてほしいと頼んでいる。

 結局セレネからは「求婚するときに花! これは絶対!」と言われ頭を縦に振る。言われなくても最初からそのつもりだ。それから取り引きの内容など仕事量が一気に増え、中々彼女に会いに行けずにいた。

「今日はどうしていた?」

「天気がいいので散歩はどうかと提案してみたんですが……部屋で、読書をすると」

「そうか……あまり体調がよくないのだろうか。異変に気付いたらすぐに知らせてくれ」

「承知致しました」

 メイドや執事から彼女の様子を聞くことしかできず、より一層焦りが強くなる。なぜそんな焦りがあるのか自分でもわからない、ただ早くしなければ彼女がどこかに消えてしまいそうだった。結婚したというのにまだ一言も話ができていないせいもあったのかもしれない。

「旦那様」

「どうした」

「奥様が、食事の量を減らしてほしいと」

「なんだと?」

「もっと簡素なものでよいと、言っていたのですが……」

 体調を崩さないようにとシェフにも頼んで栄養のいいものをつくってもらっていたはずだが、それを減らしてほしいと言われるとは思わず走らせていたペンを止める。それから、とメイドは話を続ける。食事もそうだが、掃除も湯浴みをすべて自分ですると言い出したらしい。彼女はオブシディアンにいたころからずっとそうして来たのだろうから、彼女なりにそれが普通なのだと思っているのかもしれない。

 それにしても、何か違和感がある。彼女の体調はどうかと聞いてみたが特に痩せている様子ではない、とメイドは言ったがなぜか胸騒ぎがする。

「……鷹は」

「え?」

「彼女の傍に、鷹はいたか」

「鷹、でございますか? いいえ、動物の類は一切傍にはおりません」

 もしや精霊と何かあったのだろうか。そのせいで何か不調をもたらしているとでも言うのか。だというのであれば急がなければならない。ここ数日まともに休みを取っておらず執事長に苦言を呈されたが、それを気にしている場合ではない。一刻も早く取り引きを終わらさなければ。

「旦那様……本当に、奥様を『奥様』と呼んではいけないのでしょうか」

「ああ。まだそう呼ばないでくれ」

 これは契約であり結婚ではない。正式に結婚できたときに呼んでほしいと屋敷の者たちには言ってある。彼女に余計な重荷を背負わせないように、選択肢を潰してしまわないように。

 だが俺はこのとき書類に目を通していてメイドの様子に気付けないでいた――それが後ほど、どれほど後悔することになるのか知らずに。


 ようやく取り引きが終わった。強かなオブシディアンは最後の最後まで値を釣り上げようとしていたがこちらにも限度がある。不平等であってはならないと最後やや脅し気味になってしまったが、とにかく早く終わらせる必要があったから仕方がない。

 ただ、最後の最後にオブシディアンの主はニヤついた顔を隠そうともしていなかったため、思わず嫌悪感を表情に出せば奴は言った。『道具』は好きなように使え、と。

 取り引きに道具などなかったはずだと顔を歪め、ただこの男に会うことはないだろうとそれから深く追求することもなくその場を去った。それよりも待たせてしまった彼女の元に急がなければと。これでようやく彼女は自由になれる、それをいち早く伝えたかった。

 そうして彼女の部屋の前に立ち、一度ゆっくりと呼吸を繰り返す。彼女の部屋に訪ねるのはこれが初めてで、そして言葉を交わすのはあの幼少期のころ以来。美しくなっていることはもうわかってはいるが、声を聞いたとき俺はどうなってしまうのだろうかと思わず苦笑をもらす。浮かれすぎだ。しかも早く報告をしたいがためにセレネが言っていた花を準備するのを忘れてしまった。

 申し訳ないがあとでプレゼントしよう、と部屋をノックする。返事はなかったが部屋にいるのは確認済みのため、心の中で詫びを入れつつドアを開けた。

 彼女の要望で窓のある部屋を準備したが、彼女はそんな窓を背にこちらを真っ直ぐに見ている。ああ、そういうところはまったく変わってはいない。どんな状況でも決して折れることがないその心に、幼かった俺は一目惚れしてしまったのかもしれない。

「ようやくミニエラ国との取り引きが終わった」

 彼女は喜んでくれるだろうか。そんな俺の淡い期待は、彼女のひやりと冷たい声に打ち砕かれた。自分を捨てろと、用済みになったのだから当然だろうと言わんばかりに簡単に口にする。

 なぜ彼女を捨てるだなんて発想に至る。そんなこと、できるわけがない。なぜ彼女はそう思ったのか――だが彼女が『道具』という言葉を発したことによって、今更ながら気付いてしまった。彼女が今までどんな気持ちでこの部屋にこもっていたのか。

 俺がもっとちゃんと顔を出していたら、いや急ぐばかりできちんと説明すらできていなかった。その説明をできていれば。そうすればこの部屋は彼女にとっての『箱庭』にならずにはすんだ。俺はあの嫌らしく笑う男と同じことをしてしまっていたのだ。

 窓から突然強い風が吹きつけ思わず目を細める。狭い視界の端に、一羽の鷹がその場所にいるのが当然と言わんばかりに細い腕に止まった。

「お手を煩わせません。自分の処理は自分でします」

 結婚の話が出てから、彼女は初めからそのつもりだったのだ。精霊だけを頼りにし、他の誰かに頼ることもなければ信じることもない。俺にとって大きな約束は、彼女にとって儚く消えたもの――

「約束を守ってくれてありがとう、マルス」

 ではなかった。彼女も覚えていたのだ、あのときの約束を。俺が必ず迎えに行くと言った言葉を。

「ユノ!」

 けれど彼女の身体は無情にも宙を舞う。上の階にあるこの部屋は、下に落ちてしまえばまず命は助からない。しかもこの裏手には川が流れている。そこでハッと気付く――きっとそこまでも彼女の計算の内だったのだ。

「ユノーッ!」

 叫んでも手を伸ばしても、彼女には届かない。彼女を自由にさせるためにやったことなのに、その自由はこんな意味ではなかった。

 部屋に騒ぎを聞きつけて執事だけではなくメイドたちも駆けつけてきた。開け放たれた窓に縁にいる俺、そして部屋の主であった彼女の姿はない。それだけで何が起こったのかわかったのだろう。メイドたちは悲鳴を上げ執事たちも騒然としている。

「騎士たちを呼べ! 急いで彼女の救助に向かえ!」

「……! 承知致しました!」

「メイドたちはすぐにでも身体をあたためれるように準備をしておけ!」

「は、はい!」

 それから騎士たちと真下にあった川を重点的に探したが、彼女の姿が見当たらない。そこまで流れの早い川ではないのだが、ここのところ食事を減らしていた彼女の身体は簡単に流されてしまったのかもしれない。この川の先は海へと続いており、そうなると捜索が難しくなる。

 けれどいくら騎士たち共にずぶ濡れになろうが、メイドたちが彼女のためにタオルを準備して待っていようが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。

「ダリル様、これ以上は……」

「だが彼女はまだ見つかってはいない!」

「日も暮れてこれ以上は危険です! それに頼りない明かりでは見つけるのも困難です!」

 再び川へ入ろうとする俺を騎士たちが止める。顔を上がれば日が傾き辺りは暗くなってきている。このまま捜索を続ければ騎士や執事たちも犠牲が出てくるかもしれない。

 だらりと腕から力が抜ける。俺は、ただ彼女を守りたかっただけだというのに。

「ロザリア……」

 結局彼女の名を一度も呼んでやることができなかった。

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