第5話
どれほど家を空けるかわからないけれど、多分すぐに戻ってこれるだろうと踏んで簡単な支度だけを済ませる。薬の注文を受ける前でよかったと安堵しつつ、しばらくして薬を取りに来た村の人に手渡して少しだけ家を空けることも一応伝えた。鞄一つで収まった荷物に家の外で待っていた彼は驚いたけれど、すぐに苦笑をもらした。
ところで、ヘリオドールの屋敷までそれなりに距離はあったとは思うのだけれど。まさかそれで? と思わず目の前にあるものを凝視してしまう。
「馬で来たが? 君はもしかして精霊の背に乗るのか?」
あの移動距離どうしたのだろうかとは思っていたけれど、そういうことだったかと納得した。馬があれば移動できない距離ではない。そして彼の言葉に頷くべきかどうか悩んだ。確かに川に落ちてここに来るまでは見つからないようにと急いでいたため、ランの背中に乗せてもらった。
「……いいえ、乗らないわ。誰かに見られるかもしれない」
そのときも村が見てたとき人々に見られないようにと少し離れた場所で降りる。他の人の目から見てランは普通の狼だけれど、でも私のようにもしかしたら精霊だと認識できる人がいるかもしれない。ミニエラ国にいたときもそうだったけれどあまり精霊の話を聞いたことがなかったため、もしや精霊が見えるのは少数ではないかと思ってはいる。
この世界は魔法は使えるけれどそれは自分の中のマナがコントロールできるからと言っている人と、精霊がいるからこそ使えると言っている人もいる。国ごとで認識がバラバラで統一されていないため未だに精霊はお伽話だと言っている声もよくあるのだと、私はその精霊から直接話を聞いた。人間がそうしてそこにあるものに対し確証をしっかりと得ていないため、精霊がわかるということは伏せておいたほうがいいとのこと。
彼がその精霊のことをどこまで知っているかはわからないが、「ああ」と何やら納得したあとなぜか私に手を差し出してきた。一体なんだと顔を顰めながら首を傾げる。
「精霊に乗れないのならば馬に乗るしかないだろう? 君だけ歩かせるわけにはいかない」
「別に道中逃げ出したりはしないけれど」
「そういう意味じゃない。女性一人を歩かせるわけにはいかないという意味だ。それとも馬は怖いか?」
「乗ったことがないからわからない」
「なら乗ってみよう」
そのまま身体を持ち上げられてヒョイッと馬の上に乗せられる。突然人が乗ったにも関わらず馬は暴れることがなく、彼もすぐに私の後ろに乗り込んだ。どうやら落ちないように支えてくれるらしい。
「……髪は上でまとめているんだな」
「薬を作るときに邪魔だったから。もしかして貴方の顔に当たってる?」
「いいや大丈夫だ。では行こう」
彼の合図に馬は走りだし、空を見上げてみるとルーニが大きく羽ばたいている。どうやらその姿のままついてきてくれるらしい。他の子たちはたまに元の姿に戻って人から見られないようにしているけれど、ルーニだけはよく鷹の姿のまま傍にいてくれている。もしかしたら精霊の中でも力が強いのかもしれない。
行きと帰りでは見る風景も変わるものだと、あのとき必死に走った道を今度は彼と共に戻る。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。そもそも、彼が約束を覚えていたことだけでも驚いたのにそのあと本当の求婚をされるなんて。舌を噛まないようにとお互い黙ったままの道のりだったけれど、この馬がとても優秀なのか予想より早くヘリオドール家の屋敷が見えた。
門のところまで来ると彼が先に降り、そして私が降りるのを手伝ってくれる。本当にこの馬は大人しかったと思っていると彼も彼で私が馬を怖がらなくてよかったと安心したらしい。私の周りの精霊は生き物に姿を変えてくれるため、意外に動物は平気なのかもしれない。
ふと、視線を上げてみるとそこにはずらりと並んでいる執事とメイド。ヘリオドールの主が帰ってきたのだからそのお出迎えということはわかってはいるが、こんなにも人がいたとはと驚いた。私がこの屋敷で顔を合わせたことがあった人はほんの数人だったから。
「お帰りなさいませ。旦那様、そして奥様」
「……ん?」
「待てローマン。まだ妻になってはいない」
「おやそうでございましたか。これは早とちりを。申し訳ございません」
「こっちだ」
穏やかに微笑む執事長に彼は少しだけ眉間に皺を寄せて、そして私の手を取って歩き出す。こんな大勢の人の間を歩くなんてかなり居心地が悪い、と思いつつも全員頭を下げて視線が地面に向かっている分まだマシなのかもしれない。そうして歩くヘリオドール家の屋敷に改めて目を丸くする。
「こんなに広かったの」
「……先に案内しておけばよかったな。長旅で疲れただろうからとすぐに君の部屋に通したんだ」
彼の言うとおり、この門をくぐってから私は真っ先に自室に案内された。だからこの屋敷の広さなどまったく知らなかったし、どこに何があるのかさえもわからない。彼がこうして手を繋いで案内してくれないと本当に迷子になってしまいそうだった。まぁいざというときはルーニたちに出口を探してもらえればいい話なのだけれど。
そうして一体どこを歩いているのかわからないまま足を進め、ようやく彼の歩みが終わった。彼の背中越しに明かりが見える。
「ここだ」
パッと視界が開けて真っ先に目に飛び込んできたのは緑豊かな自然だった。大きな樹が一本立っており、池があり焚き火ができる場所もある。案内された場所はかなりの面積のある中庭だった。
一歩足を踏み出してみればふわふわの草が受け止める。腕を差し出す前に空を飛んでいたルーニは下降し早速樹に止まり羽根を休ませている。澄んでいる池に近寄ればいつのまにかマチュリーがちゃぷんと音を立てて優雅に泳いでいた。ファルは薪に火を灯し、ランは元気に広い中庭を駆けまわっている。
精霊たちが喜ぶぐらい、この場所は綺麗なマナで満たされていた。
驚いて後ろを振り返ればなぜか彼のほうが満足そうな顔をしている。一体どれほど精霊に関して調べたのだろうか。こんなにも住みやすい場所を作るなんてそう簡単なことじゃない。私が選んだあの小さな家だって、人里から離れているという理由もあるけれど精霊たちが住みやすいようにそこそこマナの多い場所を選んだつもりだった。
「精霊たちは清らかなものを好むと書物に書いてあったものでな。池の水も聖なる湖と呼ばれている場所から水を引いて、そしてここへ流れるようになっている」
「屋敷の近くに流れている川って、まさか」
「どうだろうか、彼らは喜んでいるか?」
そんなこと、誰が見ても一目瞭然だろう。とてもはしゃいでいるし、ランなんて子どものようにまだ走っている。あの場所じゃ狭かったのね、と申し訳なく思うぐらい。
「どうする?」
「どうするって……折角向こうの家も整えたのに」
「君がここにいる間こちらで管理しよう」
「いいわよ別に、無駄に人手なんて使わなくて……」
例え草が生えようと埃が積もろうと精霊たちと一緒に掃除をすればあっという間なのだから、多少放置していても問題はない。それよりも困るのは薬だ。村の人たちは私の薬をよく買ってくれていた、ここにいるとその人たちに薬を届けることができなくなってしまう。それを彼に伝える何かを思案したあと彼は口を開いた。
「それならばこちらで届けるようにしようか? 業者を雇えば君がいた村が薬で不便になることもない。それに薬はこの庭でも作れそうだろう? 日当たりもいいし」
どうやらルーニのために日当たりがよくしたらしいのだけれど、いい副産物になったと彼は顔を綻ばせた。これはまずい気がする。断る理由があまりにも少ない。精霊たちが喜ぶ場所、薬だって作れるしそれは送り届けてくれるという。私が気がかりとしているところをすべてクリアしてしまっている。
「……けれど、未婚の庶民の女を置いておくにはあまりにも世間体が悪いんじゃないかしら」
苦し紛れに出た言葉に彼は顔を歪めたけれど、それもすぐに通常時に戻る。
「友人として招き入れるのであれば問題ないだろう」
「……え?」
「そしたらこういうのはどうだろうか。お試し期間を設けないか? 一ヶ月、試しにここで暮らしてみる。それで君にここで暮らすか、あの家に戻るか決めてもらおう」
それは契約して取り引きが行われた期間とほぼ同じだ。私はその間でこの屋敷から出る準備をしていたというのに。けれど前回と違うのはこの中庭の存在を私は知ってしまったことと、ただの『道具』ではなくなったということ。恐らく一ヶ月の間外に行きたいと思えばいつでも自由に行けるはずだ。
「……わかったわ」
ここまで準備をされてしまえば断れない。渋々頭を縦に振れば彼は顔をパッと輝かせ、そして私の傍に歩み寄ってくる。
「君の部屋はあそこだ。この中庭に来るにはあそこにある階段を使ってくれ。真っ直ぐに来れる」
「……あそこに階段あったのね」
私の部屋は以前使っていた部屋と同じ場所で、しかも近くに階段があるだなんて知らなかった。まったく周りを見てなかったのだと今更ながら気付き、そもそも周りを見る必要もないとまで当時は思っていたのだから仕方がない。
中庭から今度はそのまま部屋に案内される。流石に部屋までの道筋は覚えていたため彼の案内は必要はなかったのだけれど、私の隣に歩いているものだからこのまま追い返すのも気が引ける。されるがまま、彼がしたいようにそのまま一緒に歩けば見覚えのあるドア。開けてみれば以前とまったく変わっていない内装だった。
「好きに使ってくれ。ただ一つ、部屋に関しては守ってほしいことがある」
物を壊すなとかそういった部類のものだろうか、と振り返れば今までにない真剣な眼差しに、どこか痛みを堪えている表情。
「もう二度と窓から身を投げないでくれ」
「……別に落ちても精霊たちがまた助けてくれるわ。見ての通りピンピンしてるし」
「だが俺の心臓が持たん」
確かに目の前で落ちたらびっくりするか、と彼の言葉に頷いた。流石にもうこの屋敷から出るためにあそこまでの無茶はしない。鼻と口に水が入って咽るのは私だってもう懲り懲りだ。
「では。一ヶ月どうぞよろしくお願いします、公爵様」
「……ダリル、と。喋り方もさっきと同じでいい」
「とは言っても私は書類上でも貴族の娘ではなく庶民です。ただの『ロザリア』なのだから言葉遣いは改めないと」
「友人として君を迎え入れるのだからそんなもの、気にしなくていいだろ」
見た目と違って頑固だな、と苦笑をもらした彼にそれは一体どっちのことを言っていることやらと私も息を吐きだした。
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