第10話 ✖✖✖
自室に戻って冷静さを若干取り戻したカサンドラ。
だが、客人を長く待たせるわけにもいかないので、鏡に映る自分の姿を何度も確認したあと、大きく頷いて部屋を出る。
他に『虫刺され』の痕があってはリタとまともに会話が出来そうにない。
まぁ、リタがこれを虫刺されと勘違いしてくれているなら、精神的被害は最小限で済むだろう。あれほど取り乱してしまったことを、不審がられていなければいいのだが…
客室の扉の前に立ち、カサンドラは表情を引き締める。
胸部に片手を添えて、スー、ハー、と深呼吸。
「リタさん、お待たせして申し訳ございません。
この度は訪問して下さってありがとうございま――」
「わぁぁ! カサンドラ様!
ごめんなさい、ごめんなさい!
私、めちゃくちゃ見当違いで恥ずかしいことを聞いてしまって!」
こちらの姿を視界に入れるや否や、リタはソファから立ち上がる。
あまりにも慌てていたせいか、彼女の膝がゴンゴンとテーブルの端に当たる音と、ティーカップがカチャカチャ擦れる音が雑多に響く。
真っ赤になったリタは、その顔を両手で覆って何度も頭を下げて来た。
「り、リタさん…? あの、何かあったのですか?
落ち着いて…」
「私、もう本当に気付かなかったんです、さっきデイジーさんに教えてもらいました…
なんで私、虫刺されと勘違いしてしまったんでしょうか。
あんなところピンポイントに刺す虫なんか沢山いるわけないですよね、そりゃキスマークに決まってますよね、ごめんなさい!」
先程までのやりとりを忘却の彼方に投げ捨てようとしていたカサンドラに、クリティカルにヒットしていくリタの謝罪攻撃。
カサンドラは表情を引き攣らせ、思わず彼女に手を伸ばしてしまう。
「リタさん、お声が大きいです…
少し落ち着いて下さいませ」
心の中では完全に泡を吹く直前であったが、とりあえず今はリタをなだめなければ。
廊下には使用人も控えているのだし、想像外のところから辱めを受けることになってカサンドラの感情は死に
「…ごめんなさい、つい。
……も、もう言いません」
リタは変わらず、米つきバッタのようにペコペコと頭を下げて、言葉を濁す。
しばらくどちらもが言葉を発しない、時間の
「そのご様子ですと、お元気そうですね。
昨日はわたくしのために、大変な労力を使って下さってありがとうございました」
「はい、それはもう健康です、バッチリです。
私一人だったら無理だったと思います、リナやリゼがいてくれたからこんな奇跡が起こせたと思いますよ」
カサンドラは彼女に座るよう促し、自分も静かにソファに腰を下ろす。
まだ若干頬の端が赤いが、あははと笑顔を浮かべるリタは容姿が成長したとは言え、記憶のままの彼女だと思えて嬉しかった。
立場は、人を変える。
ラルフと婚約したということは、嫌でも貴族社会に身を浸す環境に置かれるということだ。
それも、頭の先から爪先までドップリと。
カサンドラや他の貴族令嬢たちのように、幼い頃からそれが当たり前だと思って疑いもせず、外の景色を知らない女の子と。
学園に入っても中々その環境に馴染めなかったリタとは、大きな隔たりがあった。
彼女なりに頑張って今があるわけだが…
貴族社会なんて、そんなにイイモノじゃない。
それに女性の場合は、結婚する相手によって自分の立ち位置が変わってしまうのだ。
努力ではどうにもならない地位を持つリタに対して、抱く感情は決して喜ばしいものだけではあるまい。
そんな剣呑とした狭い貴族女性社会の中で、彼女が病んでしまったり、過剰に適応し過ぎようとして彼女の本質が歪んでしまっていたらどうしよう。
そんな風に心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。
生来の気質がポジティブなものであることに加え、いたる場面でラルフに守られているのだろうなとは思う。
正面に座るリタを見つめているのだが…
しかし彼女は、全く別の方向を向いてブツブツと呪文でも唱えるように独り言を呟き始める。
「あれ? じゃあリゼもリナも、そういうことよね?
…なんで?
…いや、うーん……でもそれはあり得ないはずだし…
んん?
じゃあカサンドラ様はどうして…?」
「何か気にかかることがあるのでしょうか?」
勝手に一人で暴走されて、無いこと無いこと勘違いされたり吹聴される可能性が脳裏に過ぎった。
何せ彼女は貴族社会でも特別王家に近しい、ヴァイル公爵家の夫人になる予定なのだ。彼女の言葉は文字通り一夜にして千里を駆けかねない。
するとリタは本当に困ったような顔をする。
しばらく唇を噛み締めて、「あー」だの「うー」だの逡巡していたかと思ったら…
意を決したように、膝の上のスカートを掴んで前傾姿勢になる。
「カサンドラ様、帰還されて早々、凄く不快な質問になってしまうと思うんですが…
他に聞ける人がいないので、教えてください。
その、えーと、変な子だって言わないで下さいね…」
彼女はしきりに周囲の様子を気にしているようだ。
部屋の中には自分達二人だけだが、廊下に一歩出れば自分たちに異変がないかと控えている使用にももいるわけで。
「まぁ、一体どのようなことでしょう。
気にされるのなら、人払いをしますね」
誰にも相談できない厄介な悩み…
二年間不在だった自分に聞かざるを得ない悩みというのは、深刻ではないだろうか。
カサンドラも自分たちの声が周囲に届かないように慎重に指示を出し、彼女に向き直って威儀を正す。
すると、彼女比でかなり抑えた声で、恐々と質問されたのだ。
「その……変な意味じゃなくてですね。
カサンドラ様って、もう”✖✖✖”しました?」
存在自体が凍り付く、そんな寒々しい氷河期が今この瞬間、部屋に到来する。
思考も感情も全てが真っ白に染まり、自分の耳がおかしくなったのかな?
完全に微笑んだまま、身じろぎもできない状態である。
「ちが…違うです! これには!
これには事情が!」
リタは真っ青になったり真っ赤になったり、ワタワタと全身を大きく揺らしながらソファに座ったり立ったりを繰り返す。蒼い目の中にグルグルと渦が巻かれていた。
「その…私、恋愛小説、読むの好きなんですよね」
リタは完全に俯き、「やっちまった」と言わんばかりに再び顔を掌で覆ってポツポツと呟く。
「恋人になったら、自然にそうなるんだろうなぁ、とか。
まぁ、普通に考えていたわけですよ。
でもそんな兆候は全くなくてですね。
……でも、婚約した時にラルフ様に直接聞いたんです」
ふぁっ!?
流石リタ…というか、恋人同士のやりとりなのだから、本人のラルフに聞くのが一番誤解もなく正確で、拗れることもない最良の選択だとは思う。
「そうしたら普通は、結婚するまで考えることではないって言われまして」
そこが元庶民だったリタと、完全に貴族社会で生きて来たラルフとの認識の差なのかもしれない。普通の女の子に生まれていたら、そこまでお堅い貞操観念はないだろうし、婚約という段階さえすっとばして結婚することも多いのだ。
「私はそういうもんなんだー、とさっきのさっきまで、信じていたんです。
でも、デイジーさんに『虫亜刺され痕』じゃないって教えてもらったわけじゃないですか。
……おかしくないです?」
リタはよく分からない、と何度も呟いた。
「そういうのが着くっていうことは、え? リゼたちはなんで? とか。
それに…カサンドラ様もってなったら…
なんで私は? とか、あれ? もしかしてラルフ様に教えてもらったことが間違ってる? でもそんなの誰に聞けばいいの? って…混乱してしまったわけで」
ごにょごにょ。
元々姉妹間でそう言う話をしなかった三つ子である、それにそんな話は華麗にスルーするだろうリナ、激怒するだろうリゼ。
しかも彼女達は元庶民、貴族の慣習を聞いたとて自分と同じで分かるわけがない。
かと言って、いくら仲良しとは言え貴族の令嬢にそんな質問をできる程羞恥心がないわけではない、リタは普通の感性の持ち主なのだ。
ゆえに…
全く自身の関知せざるところであるが、首筋に爆弾を引っ提げて帰宅したカサンドラに、恥を忍んで聞いてみるしかなかった、と。
いや…うん。
気持ちはわかるが、カサンドラに相談されても、と困惑する他ないのだけど。
「そうですね…
一般的に、婚前に関係を持つというのは、非常識と言われていますし。
良いことではないでしょう。
ですが、それは後々のトラブルを回避するためという意味合いが強いのです」
貴族の家に嫁に入るということは、後継ぎを求められる。それは当然のことだ。
だがもしも結婚以前に、例え婚約者本人とはいえ異性と関係を持ってしまって――
婚姻期間から考えて不自然な時期に子どもが出来てしまった場合、「本当にその家の正統な跡継なのか問題」が生ずることがあったらしい。
女性は間違いなく自分の子と分かるが、男性はそうとは限らない。
個人的には、婚約してそういうことをしたんだから自分の子だと納得して当たり前だと思うのだが、そう思わない者もいたそうで。妻が周囲から厳しい糾弾を受けることもあったのだと、それとなく習ったことがある。
結婚する前から子を身ごもるような、はしたない女性だと後ろ指をさされあまつさえ離縁を要求されても、『女性側が反論出来ない』というのが大問題だった。
いくら婚約者とはいえ、結婚前に身体を許したのは、事実だから。
純潔を守らずに嫁ごうなんて…と、非難を浴びるのは女性だけ。
女性の権利や尊厳を守るために、婚前交渉は非推奨だという共通認識が醸成したという経緯がある。正確には、令嬢の「親」が娘を守るために許さない、という意識があって保たれている貴族社会の通念か。
そもそも結婚式当日まで純潔だったかどうだったかなんて、当人達以外に知りようのないことではないか。
女性の場合は懐妊という証拠が出るので、離縁もやむなしという風潮になってしまうだけで。
あまりこの辺りの事情を深く考えたことがなかったが、婚前交渉はあり得ない、という認識は普通の令嬢なら当たり前にもっているはず。
法律などで厳密に戒められているわけではないけれど、貞操観念は大事にされている国だと思う。
「ですから、ラルフ様の仰っていることは正しいと思います」
ラルフがそういう貴族社会の常識という道を外れることの方が信じられないので、状況的には何らおかしくない。
「でも…じゃあ、どうしてリゼ達は」
「わたくしもあの方たちの事情は一切存じ上げませんし、仮に存じていたとしてもプライバシーに関わることを口にすることは絶対にありません」
勿論、リタがこんな事を相談してきた…なんて話も、墓場まで抱えて持っていくこと確定だ。
他の二人がどんな考えで何をしているのか一切分からないが、そもそも当人同士が「信用」し合意でのことならそれは外部がとやかく云う問題ではない。
彼らに限って結婚した後に純潔ではなかったから離縁を申し立てるなんて、天地がさかさまになってもありえないし。フライングしたがゆえに起こる不都合な事に対し、全力でフォローするならそれはもう文字通り、他人のカサンドラの知ったことではないのだ。
駄目だと言う権利があるとすれば、本人かその親御さんだけなので。
親御さんが庶民である以上、その
「でもカサンドラ様、納得できないですよ。
ラルフ様は正しいと言いますけど、じゃあどうして王太子は!
そのおかしいことをしているんですか!」
彼女はカサンドラの首元を、目を開いてガン見している。
ええええええ!?
話がとっ散らかっているが、リタとしてはこの機会を逃すまいという執念のようなものを感じる。恐らく今後、二度とこんな内容の相談は誰にも出来ない、だから今の内に恥を投げ捨てて食らいつこうとする強い意志…!
カサンドラは嘘をつくのが得意ではない。
だが、このままではアーサーに対し、リタは謂われなき嫌疑を持ってしまうことになるのだろう。
「リタさん、こちらはただの『虫刺され』ですよ?」
カサンドラは自分が隠している首元を指差し、ニコッと微笑む。
「え? で、でも、デイジーさんが」
「デイジーさんがあのように何でもないことで勘違いをされるのは、今回が初めてではありません。
それにわたくし、一度もリタさんのご指摘を肯定した覚えはありませんが。
リナさんたちのことは実際に存じ上げないので何とも言い難いですが、少なくともわたくしは違います」
ここで動揺してしまっては、リタに誤解される。
アーサーの身の潔白を堂々と主張しなければ、とカサンドラは必死だった。
そもそもデイジーは、なんであんな反応を示したんだ。
ガルド家の令嬢として、女性を代表してアーサーに憤るならまだ分かるが、何故…?
もっとも、今は彼女の真意について思案している余裕はない。
とにかく『何もなかった』ということをリタに分かってもらわなくては。
これがキスマークだと思われたら誤解を解くのは困難だと思ったので、仕方なく誤魔化す道を選んだ。
「あ、そ、そうですね。
確かに…! え? じゃあ私が一人で勝手に勘違いして、騒いでただけ?
うわぁ…ヤバい、恥ずかしい……!」
リタは顔を青白くして、完全に言い淀む。
「第一、リタさん。
アーサー様が、ラルフ様の仰るような『常識』をご存知ないはずがありませんよね?
あの方は、王族でいらっしゃるのですよ?
そのような、非常識と誰かに思われるような振る舞いをするとお思いですか?」
「な、ないです!
少しでも疑って、ごめんなさい王太子!
そうですよね、あの人がカサンドラ様に結婚前に変なことするはずありませんよね!
私はなんて失礼なことを。
…あの、この場限りのお話ということで…」
カサンドラは内心でガッツポーズだった。
今回の虫刺され痕の件は、何かしらのアーサーも及ばない人知を超えた不可抗力が働いたに違いない。
ラルフがそうであるように、アーサーも同じような価値観を持っているはずなのだから。
「それにリゼさん達のこともそうです、憶測でそのように騒ぎ立てては怒られてしまいますよ?
常識に則って行動しているのに、囃し立てられれば嫌な想いをするのでは」
「そうですね、私、とんでもないことを聞いてしまって…
穴があったら入りたいです、でも、今までラルフ様にしか聞けなかったので、ちょっとスッキリしました!
ははは…」
その疑問を素直に直球でラルフに聞いたのも凄いし、
しれっと受け流すラルフはどうなってるんだ…。
このカップルの関係性が、カサンドラにはよく分からない。
というか、リゼやリナだって今日のカサンドラと同じような状況だったかもしれない。
リタが真剣な顔で聞いてくるような、最終的な段階に至ったなんてあまり想像できない話だ。
憶測で下世話な想像を一瞬でもしてしまったことに、カサンドラは心の中で謝罪した。
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