第9話 痕
彼の鼓動
彼の吐息 こんなに近い
――好きな人と一緒にいられるのは幸せだな、と教えてもらえる。
アーサーと一緒に過ごした時間は、二時間もなかったと思う。
その間、会話もなかった――というのもおかしな話だが、ずっとあのまま抱きかかえられていた状態が延々と続いていた。
彼の膝の上から降りることも、さりとて何を言えば良いのかと俯いたまま、ただ時間だけが過ぎて行く。
だけど、こんな風にずっと互いに触れている状況も今までにないことで。
じんわりと衣服を通して肌に伝わってくる彼の体温のおかげか、次第に心が落ち着て行くのを感じた。
互いの体温を分け合うという状況とは少し違うかもしれないが…
自分達の周囲だけ空間が切り取られたような、外界の雑音が聞こえてこない部屋の中で、
確かにここに、 存在している
二人でそんな「当たり前のこと」を認識し合っているかのよう。
カサンドラは昨日、この世界に再び喚ばれたばかりだ。
どこかふわふわとしていて、希薄だった現実感。
元居た世界の記憶すら、零れ落ちて滲んで見えなくなっている。
この世界に受け入れてもらったけれど、自分は「誰」なんだろうと怖くなる瞬間も確かにあった。
だけど彼と接している時間で、今までの自分を取り戻せたような、そんな気がする。
「……。」
「……。」
あまりにもアーサーが動かないものだから、寝てしまったのかと思って視線を向けたことが幾度もあった。
その度に彼はにこにこと微笑んで、カサンドラの前髪を指で掻き分け、こめかみに唇を寄せるのだ。
何と言うか、かなり気恥ずかしい状態である。
幼い子どもをあやすような扱いをされていると思ったが、今まで感じたことのない充足感、安心感に自分が丸ごと包まれているような気がした。
だが、永遠の時間などなく、時間は等しく誰の間にも平等に過ぎて行く。
体感時間は人や状況によって変われども、現実の世界でしっかりと時計は秒針を刻み続けているのだ。
「あのー、兄様ー」
コンコン、と扉をノックする音に、アーサーとカサンドラは同時に視線を向けることになった。
弾かれたように、ぴょいっと彼の膝の上から飛び降り、真っ赤になった頬を何とか両の掌で隠そうと試みるカサンドラ。
逆に、大きく吐息を落としたアーサーは、普段からは想像できないような緩慢な動作。億劫そうな様子で、ソファから立ち上がった。
「……アレク、どうしたんだ?」
こちらに背中を向け、部屋を訪れた弟に対応しているアーサーの内心は分からない。
「いえ、これからクラウス侯…いえ、宰相とお約束があるんですよね?」
物凄く気まずそうな、気の進まなさそうな…
アレクは形のよい眉を若干顰めながら、訝し気な声で、兄に対しそう言葉をかけたのだ。
「…………。」
アレクの口から父親の名が出た途端、ギクッとアーサーの全身が一瞬で強張る。
「そ、そうだった…かな?」
「僕、さっきまで宰相と話をしていたんですよね。
王太子とお話があるって仰るので、失礼したわけです。
兄様に限って忘れることはないと思ったのですが、気になったので声を掛けに来ました」
アレクの最後の言葉には、どこか
じーっと、感情のない瞳で兄を見つめるアレクの表情、それにはカサンドラも見覚えがあった。
よくカサンドラも彼にこんな風に、ジト目をされることがある。
相手に対し、呆れの感情が先走った時にアレクが向けてくる表情。
まさかアーサーに対して、そんな顔をするとは。
兄弟の再会を果たした際には、「兄様兄様」と完全に可愛く素直な弟の姿を見せていたはずなのだが、二年という時間は二人の関係性も変えてしまう程の威力があるのか…!?
「……。
心配しなくても覚えている、すぐに向かうよ。
…そうか、もうこんな時間になっていたのか…」
アーサーが室内の壁掛け時計に顔を向け、ガッカリしたように肩を落とす。
この人が、そこまで露骨な態度をとることがあるのかと少し驚いた。
儘ならない現状に、ちょっと反抗して不機嫌になってしまう――それはアーサーの人間味を感じる瞬間で、新鮮に映る。
「そうしてください、僕は姉上と一緒に別邸に戻ってますね。
姉上、行きましょうか」
はぁ、と嘆息を落とすアレクが部屋の中で立ち尽くすカサンドラを手招きした。
「分かりました。
アーサー様、貴重な時間を一緒に過ごして下さってありがとうございました」
「こちらこそ。
また連絡するよ、キャシー」
アーサーの横で頭を下げる。
さっきまでの自分の体勢を思い返すだけで、その場でもんどり打って倒れそうになった。
流石にそんな奇行を麗しい王族兄弟の前でできるはずもないが、頭の中では火事にでも遭ったかのように大騒ぎだ。
それも
少し距離をとって立つアーサー。
彼とずっと密着していたなんて、数分前のことなのに信じられない。
「それでは失礼いたします。
アレク、わざわざ迎えに来てもらってすみません」
少しは顔の赤みが収まっているといいのだが。
こんなに顔面が紅潮していたら、「何かありました!」と言わんばかりではないか。
感情がそのまま表情に出ることが、とても恥ずかしいと思った。
「僕は別にいいんですが…」
アレクは何かを言いかけようとし、すぐに口を噤んだ。
「帰りましょうか、姉上」
二人で並んで歩いていても、感情がまだ全然元に戻らない。
情緒の全てを彼の部屋に置いて来たのではないかというほど、夢心地な気持ちであった。
「アレク、今日はわたくしのワガママに沢山お付き合いいただき、ありがとうございます。
退屈だったのではありませんか?」
馴染みの御者に曳いてもらう馬車に乗り込み、まだ日が明るい内に屋敷へと戻っていく。
もっとお城にいたかったなと思うが、それはアレクの時間を拘束する事でもあるし、自分の対応に迫られる誰かにとって迷惑だろう。
早々に引き揚げることに、異論はなかった。
そもそもお昼前には帰る予定だった。
アレクの態度が若干微妙なのは、奔放過ぎる自分に対して呆れが混じっているからかとハラハラした。
「いえ、構わないですよ。
自由に王城内を歩き回れて、楽しい時間を過ごせましたから」
頑なにカサンドラと目を合わせようとしない、アレクの様子を不思議に想いながらカサンドラは馬車に揺られて懐かしい景色を再び車窓から眺めていたのである。
屋敷に着き、アレクの手をとって馬車から降りたその瞬間!
「あ、カサンドラ様ーーー!」
元気の良い、明るい声がカサンドラの耳に飛び込んできたのだ。
驚いて顔を上げると、そこにいたのは…
「まぁ、リタさん!」
屋敷の玄関前、綺麗な花が植え込まれている花壇の近くでリタとデイジーが並んで立っていた。
「お帰りなさいませ、カサンドラ様。
お城はいかがでしたか?」
デイジーは胸元に掌を当て、にこりと微笑む。
昨日会った時は学生時代のノリを思い出すかのような、自分の覚えているデイジーそのままだったけれど。
改めてリタという来客を対応していたデイジーの佇まいは、貴人のそれだ。
ぴしっと背筋を伸ばし、立ち姿も優雅で、質の良い生地で仕立てられた洋服も良く似合っている。
おしとやかさや落ち着きが備わり、以前よりレベルアップしている…!
「ただいま戻りました、デイジーさん。
お陰様で、とても有意義な一時を過ごすことが出来ましたよ。
まさかリタさんが訪ねて下さっているなんて…
すぐに戻らず、申し訳ありません」
リタに頭を下げると、彼女はワタワタと両手を左右に交差する勢いでブンブン手を振った。ついでに頭も同時に、ポニーテールを振り乱しながら。
「いえいえ! 報せもなく勝手に来てしまったのは私です!
良かった、ホンモノのカサンドラ様ですよね。
夢じゃないなんて、凄い!」
自分の偽物でもいたのか?
と思ったが、特に深い意味はなさそうだ。
リタはパッと見た限りでは雰囲気は変わったように見えない。
伸ばした髪を一つにまとめ、普通の上着と膝丈のスカートをはいているリタの笑顔は、真夏の向日葵を思わせる明るいものだった。
三つ子の髪型が変わってしまったので、その分個性が表れて別人のような容姿に見える。
顔のパーツは全く変わらないけれども。
「……え? あの、カサンドラ様」
リタは突然、何かに気が付いたように心配そうな顔になった。
「どうしましたか?」
カサンドラを指差して、「あーあ」という表情で肩を竦める。
「虫に刺されていますよ、痒くないです?」
「……? 虫…?」
はて、とカサンドラは首を傾げる他ない。
リタの指先は確かにその「首」を指しているのだけど…
虫にチクッと刺されたような記憶もないし、痒くもない。
「あら、いつの間に。
デイジーさん、わたくしのどこに虫刺されの痕が?」
生憎近くに鏡がないので、カサンドラには自分の顔周りがどうなっているのか分からない。
「…? デイジーさん…?」
「………ッ!!!」
だが、デイジーは自分の首元を見るなり、手の甲の口元にあてて大きく仰け反った。
そして身体を若干捻り、何故か声にならない悲鳴を抑えて勝手に一人で身を
彼女から醸し出される、淑女の雰囲気が消えた…!?
え? 何? その奇妙な行動は……?
カサンドラの困惑など気にせず、リタはその「虫刺され」とやらの説明を一生懸命語ってくれる。
「私は刺されたことないんですけど。
最近暑くなってきたのに、リゼもリナも首元あたりまで着こんでて…
虫に刺されたって言ってました、この辺り特有の虫でも飛んでるかもですよ。
気を付けてくださいね、カサンドラ様。
赤いの、凄く目立ってますから!」
お薬もらった方が良いかもです。
……。
いくらカサンドラでも、そこまで言葉を並べ立てられればピンと勘付くものがある。
「申し訳ありません、少しお待ちになって下さい!」
カサンドラは珍しく、もつれる足取りで慌てて屋敷の中に入って行った。
玄関ホールの壁にかかっている鏡に映し出される、自分の姿をようやくその目に入れたのだ。
「……っ!?」
その衝撃に、卒倒しそうな衝撃を受ける。
カサンドラの首筋に、確かにリタに指摘された通り赤い痕がついているのだが…
虫刺されと言われれば、そう見えてしまう痕。
でも痒くも無ければ刺されるような場面も無かったはずなのだ。
そして…
アーサーの部屋を出た後から、自分から目を逸らして視線を合わせようとしなかったアレクの態度を思い返すと納得できてしまうではないか。
そそくさと先に屋敷に入ったアレクは、騎士団を訪れたカサンドラがこんな痕をつけていなかったことは分かっているはず。
脳内にフラッシュバックする、ぞわっと背筋が戦慄く感触。
首元に触れる彼の口唇…
………。
これ、キスマークじゃないか!
気づいてしまった。
あまりのインパクトに、魂がカサンドラの口から抜けてしまいそうだ。
この痕を着けたまま、気付かず、あの城の中を自分は練り歩いていたと!?
周囲の人間が自分を見るのは既に慣れたものと思って一々気にかけてはいなかったけど、その内何人がこの痕に気付いたのか!?
髪に隠れているから、自分の近くにいなければ見えないし、分からないはず。
そうであって欲しい!
よろめきそうになる脚で大地を踏みしめるカサンドラ。
未だに身体を震わせるデイジーに、何とか平静を保って声をかける。
自分の感情や体裁を守るには、そうするしかなかったのだ。
「わたくし、着替えてまいります。
リタさんを客室にお連れ下さい」
恥ずかしさが極限に達し、一瞬アーサーに対して抗議したくなったけれど。
アーサーも、こんな風に痕になるとは思わなかったに違いない。
自分でも知らなかった事を咎められても嫌な気持ちにさせてしまうかも。
今度会ったら、それとなく、首はやめてくれという他ないのだろうか…
急いで自室に戻り、痕を隠すように淡い黄色のストールを首に巻く。
顔を覆って、叫びだしたい衝動を必死に抑えるしか無かったカサンドラである。
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