47 : ライナス (Boat trip)
ケルンまでの道中、ライナスは常に緊張に支配され、神経を尖らせ続けている。
陸路は何ごともなく、あらゆる街で一行は大きな歓声をあげて迎えられ、その街の領主から多いなる歓待を受けることになった。
用意してもらった大きな船舶で海を渡ると言うところまでやっとこぎつけたのだ。
ライナスは少しだけ周囲の張り詰めた空気が弛緩した気がし、吐息を落とす。
あとは船でケルンへ向かうだけ…
油断はできないが、少なくとも外部からの襲撃はないだろう。
王子達には、是非豪華な客室内でゆっくり過ごしてもらいたいものだ。
※
「この度、私ライナスが王子殿下並びに聖女の護衛総隊長の任を拝命しました。
…どうか宜しくお願い申し上げます、王子」
自分でも、まさかこんな任務を受けることになるとは思っていなかった。
どんな顔をして王子の前に出れば良いのか分からない…という心境である。
もう一年近く経過してしまったが、自分の実兄が王子の婚約者であるカサンドラを手にかけたのだと言う。
もう腹を切って詫びる他ないはずだったが、王子やジェイクに引き留められ、結局今に至っている。
自分がローレル子爵として名前を受け継ぐべきだと言われても、全く納得できない。
こんな家は爵位返上で、自分やフランツは在野の一個人になるべきだ。
…それでも、不思議なことに兄の罪は明らかにされることはなく。
自分にとって都合の良い現実が続いていることで、良心の呵責に苛まれてしまうのだ。
しかしながら、自分が恩赦を頑なに固辞することが王子にとって不都合な事情があるのなら…
今更、実兄の罪を周囲に吹聴して懺悔して回ると言うことも難しかった。
求められている事を、こなすだけだ。
「長旅になりそうだ、付き合わせて申し訳ないね。
こちらこそ宜しく。
――元気そうだね、ライナス」
「お気遣いいただき、恐縮です」
自分には妻も子どももいる。
断罪されてしまえば及ぶ累は限りなく、王子の寛大な処置に生かされているようなものだ。
…むしろ、このケルンの道中で恐ろしい魔物の襲撃が実行され…
命を捨てる機会がある方が――武官として最も納得のいく結末なのだろうな。
「そんなに神妙な、この世の終わりのような顔をしないで欲しいな、ライナス。
学園生活が途中で終わってしまった。
君に剣の指導を受ける機会が無くなってしまったことが、今でもとても残念なのに」
「…そんな、私など」
「他人行儀な対応をされては、私だって少し傷つく。
君には色んな場面で世話になっていた記憶の方が多いからね」
そう言われて、ライナスは苦笑を浮かべる他ない。
「ジェイクの世話係のようなものでしたから、確かに王子にお目にかかる機会は多かったですね」
「ジェイクが騎士団に入団した後、私が彼の部屋に入り浸ってしまって――
君に怒られたのは良く覚えているよ。
…あまりそういう経験もなかったから」
「いえ!
あれはジェイクを𠮟っただけで、誓って王子に申し上げた言葉ではありません!」
三年前の話をされても困る!
ライナスはどっと冷や汗をかいてしまう。
アーサーは可笑しそうにニコニコ微笑んでいる。
いつもの癖…ついでとばかりに勢い任せに睨んだ相手が王子だった。
血の気が引いた瞬間が脳裏にまざまざと蘇って今さら青くなる。
「……まぁ…そうですね、私にとって、ジェイクに限らず、貴方も、エルディムやヴァイルの坊ちゃんも昔から良く存じ上げている方々ですので。
当時の癖が抜けず、王子の前で無礼な姿をお見せしてしまうことがあったかと…」
はぁ、と溜息を一つだけ落とす。
「王子、再度確認いたします。
貴方はバルガスを兄に持つ、この私を信用して下さるのですか?
私を責任者に抜擢すると言うことは、私に命を預けるのも同じことでしょう」
いくら兄の罪が、知らない内に「無かった事」として扱われたとしても、王子は知っている。どれだけ、彼の心を悲しませ傷つけた事だろう。
…それに…怖くないのだろうか、と。
勿論ライナスは王子に危害を加えろなんて言われたら、自分の命を絶つくらいの覚悟はあるが――そんなものは他人の視線では分からない。
「ジェイクも私も、君を信用しているのは知っているだろう?
…君は周囲から何を言われても、ずっとジェイクの傍にいた。
一時、グリムがロンバルドを継ぐ話になった時も、君は何も変わらなかった。
その後結局後継ぎの話がジェイクに戻っても、ライナスとフランツ…君達だけは態度が何も変わらなかった。
私も立場上、色んな人を見て来たからね。
君の忠誠心の篤さも実力も十二分に分かっているし、今回の護衛役を引き受けてもらえて良かったと思っているよ」
「……ありがとうございます」
そんな風に褒められた話でもないので、殊更強調されると、少し据わりが悪い。
そもそもグリムもジェイクも仲がよく、一緒に行動していたから「どっち派」という選ばなければいけない状態でもなかったというだけの話なのだけど。
王子の信頼には絶対に応えなければ。
いかなるトラブルも、起こしてはならない。
全て入念な準備が行われ、乗船する人員も選りすぐりを揃えている。
何ごとも起こるはずがない…
「準備は滞りなく進んでいるかな?」
「はい、滞在先への連絡はシリウス様が、物資の手配はラルフ様にお任せしてありますので大丈夫かと。
ただ…衣装係が難儀なものでしてね。
貴方の御召し物をどうするかで、かなり喧々諤々の議論が未だに続いていますよ」
一国の王子が他国へ訪問するということで、決まったその日から侍女たちの戦争が始まっている。ライナスも怖くてその辺りには近づけないから、詳細な言い争いの内容は分からないけれど。
「別に何でもいいのだけど…はぁ、彼女達に言っても無駄かな」
「植物園の管理人殿がもしものためにと薬草を詰めこんでいますし、他にも贈答の品などかなりの荷馬車が必要になるでしょうね」
「…そうだね。
ケルンに行って、無事に戻ることが出来れば…」
彼の意識にいるのだろう、カサンドラの事を思い出して大きく心臓が痛む。
もし…
彼女が再びこの地上に戻ってくることが出来たのなら。
この命運を彼女に委ね、沙汰を待つことになる。
アーサー以上に、彼女の姿をどんな顔で見れば良いのか分からない、消えてしまいたくなるだろうな。
「道中の安全、全てお任せください、王子」
※
「船だー!」と、物珍し気な様子を隠さない聖女たちの姿を視界に入れながら、ライナスは遠ざかっていく陸地を甲板の上で眺めていた。
やはりケルン王国の船舶技術は、クローレスのものより先を進んでいると認めざるを得ない。
そもそも海洋国家と言われるケルンと比べる事が間違っているかもしれないが…
やはり危機感を抱くのに十分。
この国とは海戦で戦いたくないものだと改めて思い知る。
数日間も海上にいるという経験は、ライナスも初めてのことだ。
慣れない環境に、再び緊張の糸が張り巡らされていく――
甲板で潮風に当たっていたその時。
「せ、聖女様ーーーーー!」
突然部下の絶叫が響き渡り、ライナスは血相を変えて騒ぎの中心に駆けつけた。
「……リゼ!?」
ライナスは客室前の廊下に倒れ込んだ少女を発見し、血相を変える。
数名の騎士に見守られ、うつ伏せに倒れ何とか起き上がろうと腕を立てているのはライナスの元教え子だったからだ。
期間は決して長くなかったが、ライナスにとって最も身近に思える『聖女』様だろう。
彼女の事を『聖女』と呼ぶのは、流石にライナスも馴染まない。
本人たっての希望で普段通りに接していたつもりだが…
「おい、どうした、しっかりしろ!」
「……よ……酔った……」
彼女の顔は、青を通り越して真っ白だった。
つい数時間前まで海の景色を楽しんでいた人間と同一人物とは思えない。
どんよりと重たそうな瞼、屈みこみ動けなくなってしまう姿…
まさに、船酔い。
「リゼ君だけじゃない、他にも船酔いした者がいるようだね。
救護室が大変な騒ぎだとか」
様子を伺いにきたのはライナスだけではなく、王子も同じだったようだ。
「王子はお変わりございませんか?」
「私は大丈夫だよ、何とかね」
そうは言うものの、いつもより彼の表情が陰っていることはライナスにも分かる。
彼がリゼのように倒れてしまったら、それこそ一大事だ。
「ご気分が優れなければ、すぐにお部屋にお戻りください」
「…そうさせてもらおうかな、すまないがリゼ君の事は任せたよ」
軽く額を押さえ、アーサーは自嘲する。
あまり眠れていないのも原因なのだろうか。
いつ様子を伺っても起きているし、心ここにあらずという様子がライナスには不安でしょうがなかった。
ケルン訪問は、彼にとってとても重たい意味を持っている。
そうでなければ、わざわざアーサーが海を渡ろうだなんて言い出さないだろうし。
まさか一番の敵が船酔いとは……
決して、荒れた海ではない。
だがクローレスの人間は、毎日大地を踏みしめて歩いている。
船に乗る訓練もしたことがない。
だから船舶上に長時間いることは、身体的に大きな負担がかかってしまうものなのか。
確かに、何名か騎士の姿が見当たらない。
どうやら、吐き気が止まらず何度も救護室で嘔吐を繰り返しているようだ。
「…おーい、リゼ、大丈夫~?
リナ呼んで来たよ!」
少し遅れてやってきたのは、残りの聖女様二人。
全くケロッとした様子で元気そうな様子のリタ、そして心配そうに薬草袋を抱えて現れるリナ。
「リナに感謝した方がいいよ?
こんなこともあろうかと、薬草セットをずーっと抱えて待機してたんだから」
「あ、ありがとリナ…
お願い、吐き気止めちょうだい…!」
「リゼも救護室に来れる?
そこで皆さんの分と合わせて、調合したいのだけど」
一抱えもある重そうな袋を抱くリナ。
彼女が、廊下に突っ伏すリゼを起こそうとひょいと屈む。
その様子を黙って見ているわけにはいかず、慌てて制した。
「私が運びましょう」
ライナスは教え子を抱え上げる。
「うえっ…」
「まさか盛大な船酔いとはな、リゼよ…」
つい、呆れが口を突いて出る。
「ご、ごめ、ホントに無理、頭グラグラする」
リゼは口元を押さえ、何度も深い呼吸を繰り返す。
これは…帰りの船でも同じ状況になりそうだ。
船酔いしやすい体質が急に改善されることはないだろう。
「リナ殿もご一緒願います」
神妙な顔で、リナはコクンと頷いた。
彼女は言葉通り、持っている薬草を煎じる。その手つきは慣れたもので、ライナスも同行する薬師も驚いた。
そしてリナは、横臥して呻き声をあげる幽鬼のような船酔い騎士にも薬湯を分けてあげたのだ。
優しく声をかけ、倒れた騎士たちを介抱していく姿はまさに聖女…!
心配していたリゼの体調も、その他の騎士たちも薬草の効果が覿面だったのか、気力を取り戻したようだ。
ホッと一息ついた。
その後は船酔いする者も激減し、殆ど問題なく船は航行を続け――
もうあとわずかという航海の時間を過ごしている。
明日の夜明けにはケルン王国が見えて来るだろうという報告に、ライナスは再び緊張感に包まれた。
「聖女様ーー!」
今度は何だ! またリゼか!?
また騒がしくなる様子に、ライナスは救護室へと走っていくことになる。
そこにいたのはリゼではなく、脂汗を浮かべて横たわるリタの姿であった。
船酔いなんかする気配もないと、海上生活を楽しんでいる様子のリタに一体何が…
「全く、アンタって…本当何考えてんの?」
「うう…ごめんなさい」
すっかり体調を持ち直したらしいリゼが、呆れと怒りの両方の感情を顔に表している。
リタの傍で腕組みをする姉にひたすら謝罪を繰り返しているのが、異様な光景だ。
生じた事態の内容が全く予想がつかず、ライナスは警戒態勢に入る。
「リゼ、一体何があったんだ?」
「ライナスさん…もうホント、信じられないんです」
リゼは腰に手を当て、苦々しい表情で何度も吐息を落とす。
恥ずかしそうに、顔を覆うではないか。
「この子、甲板に落ちてた珍しい魚を焼いたらしくって。
それ食べて…あたったんですよ。
あり得ますか?」
低い声で、背中を丸めて寝転がる妹を見下ろすリゼ。
自身が船酔いした時、散々からかわれ「しょうがないなぁ」とリタに同情されていたことを思い出したのだろう。
その視線には容赦がなかった。
え? 魚…焼く? どういうことだ?
「い、言わないで、リゼ…
美味しそうだったから、つい…!
ああっ、お腹痛い、これ、駄目な奴!」
「しっかりしなさい、大丈夫だから!
リタは
「子ども時代の呼び名はやめて…!
リナはまだ…?」
「もうすぐ来てくれるでしょ、ちょっと待ちなさい。
…なんでこんなことに…」
「ご、ごめんってば! おかしいな、ちゃんと焼いたはずなのに…!」
「私達、海の魚なんて食べたことないでしょ!?
毒でもあったんじゃない?
もっと考えなさいよ」
再度薬草を煎じてきたリナが、パタパタと急ぎ救護室の薄っぺらい扉を開ける。
「リタ、大丈夫?
はい、お腹が痛いならこれを飲むといいんだって、お医者さんに教えてもらったの。
苦いけど頑張って飲んでね」
「あ、ありがと…」
震える手で、何とか薬の入った器を掴んで起き上がるリタ。
彼女とライナスの視線が合う。
絶望的な表情で、リタは呻いた。
「ごめんなさい…
王子には、王子には内緒にしててください…!」
懇願する少女の姿を見て、ライナスは頷くほかない。
まさか聖女が…なんて報告したところで、王子の悩みの種が増えるだけではあるまいか。
いや、逆に緊張がほぐれるかも? いやいや、まさか。
とりあえず一人の女性の懸命な訴えを聞き入れ、ライナスはこの件は飲み込んでおくことにした。
部屋の端で、ドン引きしながらリタを見守っている騎士にも口止めはしておかないと。
あの日、白き光で悪魔を打ち倒した三人の聖女――
その姿を知っているから、疑いようもなく彼女たちが『特別』な存在であるとライナスは理解している。
だが、高貴さとは程遠い珍道中。
敵に襲われる心配よりも、彼女達がケルンで何かしでかさないかの方がよっぽど不安になってしまうではないか。
いかなるトラブルも起こすべからず――
秘めた誓いは、聖女ら自身の手によってあっさり破られたのである。
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