34 : リナ (Candidate)
リナはその日の朝、自分が作った朝食を運んでいた。
今まで誰かに作ってもらったご飯ばかり食べていたが――
最近は自分で用意する。
異世界の人間を呼び戻す召喚魔法、その研究のための施設に籠りきりでボーッとすることが増えるようになった。
人間、何かストレスを発散する手段を持たないといけないのだと気付き、好きな料理で気を紛らわせているわけだ。
誰かの目を気にせず三つ子だけで過ごせる空間も久しぶりで、リナはようやく落ち着いた生活を取り戻せたと心底ほっとしている。
「おはよう」
食堂に入ると、座ったまま机の上に突っ伏して寝ているリタと。
辞書のように分厚い魔導書をぶつぶつ小声で読みながら目を据わらせているリゼの姿が目に入る。
「リタ、あんたさっさと起きなさい!」
リゼの拳が、軽くリタの頭を小突く。
いや、本人は軽いつもりだったのだろうな。
ゴンっと痛そうな音が聴こえ、
「いったぁぁぁ!」
頭を押さえて上半身を跳ね上げるリタの絶叫が響き渡った。
「あ、ごめん。ちょっと力の加減が…疲れてるのかも。
ごめん、痛かった? 大丈夫?」
珍しくリゼも平謝りだ。
デカいたんこぶができている。
…このたんこぶでどうやって聖女様衣装を着るんだろう…
上手く衣装係が隠してくれるのだろうか?
「ねぇリゼ、お願いだから、今日は騎士団の方に行ってストレス発散してきてくれない!?
有り余るエネルギーを私に向けないで!?」
「そうは言っても、もうちょっと調べたいことあるし」
「私もリタの意見に賛成よ。
お風呂の中で沈みかけるのは、心臓に悪いから辞めて欲しいわ」
二人の前に朝食を配膳しながら、リナも苦笑した。
怪しげな文言を小声でぶつぶつと諳んじながら、そのまま意識を飛ばしてお湯の中に沈みかけていたという笑えない事態。
「そうねー、じゃあ昨日書いたノート、皆に渡してもらえる?」
そんな風にのんびりと流れる朝食風景に、一石…いや、岩石を投げ入れてきたのはリタだった。彼女は突然真顔になって、リナとリゼの二人を交互に見遣る。
「あのね…これ、どうしようかなって迷ったんだけど…
聞いちゃった以上は、二人にも…知っててほしいって言うか」
「何よ、改まって」
リゼも不穏当な空気を感じたのか、少しだけ真面目な顔になる。
「……もしかしたら、私達の誰かが…
王子の結婚相手になる可能性があるとか…ええと…」
彼女の爆弾発言に、和やかな時間など綺麗さっぱり、木っ端みじんにされてしまったのだ。
※
『あくまでもそういう話が下の方で噂されてるってだけみたい!
王子の前で、そんな話を大っぴらにする人はいないだろうって話で…』
リタは懸命に問題を矮小化しようとしていた。
だが、リナは彼女の心配事が決して杞憂とは限らない…と、何となく分かってしまった。
自分たちは必ずカサンドラを連れ戻す。
そんな決意や意気込み、実際に現在それに向けて突き進んでいるわけだ。
だが現実の話に差し戻すと、サンドラが帰ってくる保証なんて神でもない自分たちにはできないわけだ。
いくら彼女が戻ってくると訴えたところで、鵜呑みにして引き下がることはないだろう。
今は『王子』という立場だけど、学園を卒業したら王太子になってしまう。
学園の扱いがどうなるのか今は措置が分かっていないが、近い内に王子が立太子するのは間違いない事実だ。
その時、結婚相手がいないというのも王族としていかがなものか?という話になるだろう。
この国は聖女の血統を継ぐ一族ということが広く知られている。
しかも直近、悪魔なる恐ろしい存在を倒した聖女が国を救ったわけだ。
覚醒した聖女との組み合わせになれば誰もが納得してしまう…はずだ。
勿論自分たちもそうだし、王子にもそんなつもりは毛ほどもないだろう。
しかし自分たちが三家の跡継と結婚という流れになったら!
他の誰が王太子妃に相応しい女性と言われることになるのか?
どんな醜い争いが起こるのか?
考えただけでゾッとする。
混乱しか生じないだろう。
もう聖女でいいんじゃない?
三人もいるんだし?
すごく安直だが、家臣の視点から考えれば、全く問題ない。
女神さまはいつも私達を見守ってくれているさ、ハハハ、という呑気な声さえ聞こえてきそうだ。
聖女の自由意思を尊重してくれるならありがたいが、それも結構微妙な話なのだ。
――王族貴族がコントロールできない聖女の存在って、結局危険なものだから。
結婚相手は自由意思、じゃあ今度はどんな自由を求める?
望めばいくらでもワガママが通るなら、それって――
かつてエリックが懸念していた通り、厄介極まりない『もう一つの権威』になっちゃうってことで。
国から望まれているのに、嫌だからしませんって罷り通るものなんだろうか?
国の体制に大きな影響を与えるのではないか?
個人の幸せよりも、国としての対面を重要視する。
それが貴族社会の構造に他ならないのだから。
聖女がそれに逆らってよいものなのか?
…今はカサンドラがいなくなって、月日も浅い。
だが、いずれそんな話が生じるだろう。
無用な心配を、リゼやリタにさせたくない。
そして王子も、カサンドラの帰還を考えることだけに集中して欲しい。
それなら、自分の採れる方法は…
リゼから預かっているノートを持ち、王城のある場所に向かって急ぐ。
魔法の研究施設は幸い悪魔の破壊活動の影響が少なかった場所で、王子たちの尽力も有り使用可能な状態になっていた。
ネックは施設のある場所で、北側の奥。
正門からかなり遠い場所にある。
回廊を早足で進み、研究部屋の重々しい扉まで息を切らせ辿り着いた。
「おはようございます…」
静かに入室すると、少し不思議な光景が広がっていた。
採光の少ない部屋のあちこちには、色んな書物や巻物、そして何に使うのかわからない不思議な器具が散乱してるのだが。
角っこの長椅子の上に、誰かが横になっている。
遠目から見ても分かる、シリウスだ。
そしてシリウスの傍で、静かに分厚い本を眺めているのは…王子である。
「あの」
驚いて声を出そうとした瞬間、王子が顔を上げて「しっ」とジェスチャー。
リナも口を掌で塞いで声を押し殺した。
『疲れているんだ、少し休ませてあげて欲しい』
王子にヒソヒソ声で頼まれ、無言で頷くほかない。
『最近、クラウス侯に色々詰められているのもあるしね…』
そう言えば少し前、新しい宰相が誰なのかを聞いて驚いたことを思い出す。
レンドール侯爵――つまり、カサンドラのお父さんだ。
まさかレンドールという遠く離れた場所に住む侯爵が、クローレスの宰相になるんて、どういう話になったのかと不思議に感じていたのだが。
シリウスの話を聞いた限りでは、とても有能な男性だそうだが、少し表情が曇っていたのを思い出す。シリウスは宰相補という立場で彼と多くの時間を過ごしていると言うが…
胃が痛いって言っていたのは、冗談ではなかったのだな…
彼の中にもカサンドラの周辺に対する罪悪感があるわけで、自分から望んだ状況とは言え気が抜けない毎日だっただろう。
仮眠をとりつつも、眉間に浮かぶ皺が彼の現状を表しているように見えた。
『――私は失礼するよ。
あまり根を詰め過ぎないようにね、リナ君』
椅子から静かに立ち上がり、軽く手を振って王子が研究室から出ていく。
頭を下げて彼の後姿を見送ったリナ。
以前のような悲壮感、切羽詰まって追い詰められたような雰囲気はしない。
彼はどれほどこの状況に落ち着くまで辛い状況だったのか、想像するだけでも心が塞ぐ。
しばらく、その場に座り込んでシリウスの様子を伺っていた。
うるさくして起こすのもしのびないので、リナは膝の上に本を置いて、前傾姿勢で調べ物を続けていた。
人間の「気配」を「ピンポイントで」追跡できるような魔法って、この世にあるのだろうか?
探知対象を条件化をするのが一番手っ取り早いと思うのだが、それを上手く術式に当てはめて構築できないのがもどかしい。
人間が想像しうる範囲のことは、魔法を使えば実現可能――それが魔導士たちの常套句であり、魅力なのだと聞いたことがある。だが実際には多くの制約があって、本当の意味での自由を人間が手に入れるのは難しい。
どれだけ頑張っても、人の手では時間の概念を操ることはできない、とか。
空間移動は、普通の魔法の概念からはみ出た理論で、少なくとも精霊魔法の範疇にはないだとか…
とりあえず昔、考えられて途中で放棄された魔法理論の中に、使えるものはないか総ざらいで探しているところだ。
聖女の力は、精霊とは異質でどちらかといえば神域に近い作用。
他の魔導士には無理でも、自分達なら奇跡を起こしてみせる。
「ん……ん?」
どれくらい時間が経っただろうが。
長椅子の上で横になっていたシリウスが僅かに身じろぎ、上体を跳ね起こした。
急な動作で眩暈でも起こったか、座り込んだまま額を掌で押さえている。
「――寝てしまったか、今何時だ、アーサー…」
眉間のあたりの指先でほぐしながら、シリウスがやっと視線を上げた。
寝起きの彼は、本当に動き出しが遅い。
「…! リナ?」
ようやく焦点が合ったのか、彼はぎょっとして顔を強張らせる。
チラッと壁掛けの時計を見て、もう一度大きな吐息を床に落とした。
「すまない、寝ていたようだ。
…起こしてくれても良かったんだが」
「まさか。王子も心配されていましたよ」
「はぁ、この程度で情けない」
彼は気まずそうに視線をズラす。
…このまま、別の仕事へ向かうのだろう。
「シリウス様!
あの…お願いがあるんです。聞いてもらえませんか?」
彼は眼鏡をかけ直し、やっぱり唖然とした表情。
寝起きに畳みかけるように声がかけられ、混乱しているのかもしれない。
「なんだ、藪から棒に。
珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」
少し声が上擦っているのが分かる、まるで信じられないものを見るかのような態度。
誰かに何かを頼む…というのは、苦手だ。
特に今の立場になってしまってからと言うのも、自分の言動がどこまで許されるものなのか分からず、迷うことも多かった。
自分の事を前から知っている人達はいつも通りに接してくれるが、世間様はそうはいかない。
――誰かがしないといけない役割なら…
「シリウス様。
私達の知らないところで、勝手なお話がされることもあるようです」
「勝手な話?」
「…王子の結婚相手を、『聖女の誰か』にしてはどうかという話だそうですよ」
「――!」
シリウスの切れ長の瞳が、一層細くなる。
その鋭い視線、リナは慌てて両手を振った。
「悪気は…ないのでしょう。
むしろ、そうお考えになるのは一人の家臣として、当然の考えなのかもしれません」
これから、この王国の安寧と平穏を願うのであれば…
事情を全く知らない第三者から見れば、妥当な結論であることは分かる。
もしも自分が聖女ではなく、未だにセスカ領の村の片隅で聖女の話を聞いたなら。
きっと王子との結婚なんて物語のように素敵な話だと、そんな話題でもちきりになっていたことだろう。
一度渦中に放り込まれた身としては、とんでもない話であるが。
「王子のお相手は、カサンドラ様が良いです」
「そのつもりで、皆が話を進めているだろう?」
「今すぐにカサンドラ様を喚びもどすことはできませんよね。
その間、王子は婚約者が不在ということになります。
…それに…カサンドラ様が必ず帰還されることを、私達は証明することができないのです」
今ここに、彼女が戻ってきて欲しい!
望んで奇跡が起こせるのなら、世界の壁を超えて彼女に姿を見せて欲しい!
「王子も、そんな話を多方面から触れてしまうことになっては、さぞかし不快なことだと思います。
…私は王子に、雑音に耳を貸して欲しくありません。
私のお願いは――もしカサンドラ様がご帰還されなかった場合…
『私』が結婚相手になるという話にして欲しいということです。
それなら、聖女を推される方にご納得してもらえますよね?」
「…リナ」
「カサンドラ様が戻られること、私も信じています。
ただ、そういうことにしておけば、周囲の方も安心してくれますよね?」
無用の諍いを起こしたくない。
「何故、お前が進言する?」
シリウスは憮然とし、一層険しい視線を向けてくる。
手放しで賛成してくれるとは思っていないが…やはりリナの心がチクチク痛い。
「それは…ジェイク様やラルフ様に、こんな話を知られたくないと言いますか、その。
シリウス様が一番、冷静に対応してくれそうだと…」
パッと思いついたリゼとリタの相手の顔を思い出すと、どうにもそんな話がありますというだけでもややこしい話になりそうだ。
ラルフは納得したら受け容れてくれそうな話であるが、当のリタが世界の終わりのような表情をしていたので…
この場合、一番冷静に対処してくれそうな相手がシリウス。
他の二人にそんな心痛を味わわせたくないと言う意味で、リナ。
この組み合わせがスムーズではないかと考えただけだ。
「万が一、カサンドラが戻ってこなかった場合は、お前がアーサーと結婚するのか?」
「それは…! 実は良い案を思いつけませんでした。
そうなってしまったら、修道院に行くしかないですよね…」
絶対にカサンドラを喚び戻すのだ、そんな事態は杞憂。
そうは言っても、一時でも自分が王子のお相手候補というのは僭越が過ぎるし、言っていて顔が青ざめる程とんでもない話だ。
リナのこの結論は、見ようによっては退路を爆破するような選択。
だが外野を安心させ、王子の婚約者候補についての水面下の無用な争いを避けるため。自分が名乗り出るのが最善だと思ったのだ、が。
「――っ!?」
むにっ。
リナは突然に両頬を指で抓まれ、大混乱状態に陥った。
恐る恐る視線を正面に向けると、かなり不服そうに眉間に濃い影を刻んでいるシリウスと視線が合ってしまう。
突然の蛮行に、リナは悲鳴を押し殺した。
「…私の方が冷静でいられるとは、どういう意味だ。
この感情を当の本人に侮られていると思うと、腹が立ってしょうがないのだが?」
すぐにパッと指を離されたものの、頬がジンジンしている。
「いえ、それだけじゃなくって、リタやリゼにはお願いできないことというか、その…」
「…私に対し、一人で抱え込まずに誰かを頼れと言った癖に、自分は勝手に自己完結するとはどういう了見なのだ、リナ。
私もそうだが、アーサーもお前にそんな風に気を遣って欲しいなど思わん。
問題が起こったなら、皆で解決するべきなのだろう?」
何かがキッカケに、今の仮初の穏やかな時間が壊れることがとても怖いと思っていた。
王子は、本来ならカサンドラを奪還することだけを考えて動きたいはずなのに。
一つ所に集中できない立場で、一番もどかしく感じていることだろう。
やっと未来への展望が見え、歯車が回り始めたのに何も知らない外部に心を乱されたくない。
それがリナの切実な思いだったのである。
自分がそうだと言えば終わる話なら…
シリウスだって、もめごとを回避することのメリットを考え、肯定してくれるだろうと思っていた。
「とは言え、アーサーの婚約者問題は、王家側の事情。
お前達だけで勝手に判断し、暴走されても話がややこしくなるな。
この件は私が預かっておく、お前は心配しなくていい」
「…はい、ありがとうございます」
カサンドラに対しての熱量が、国民全員同じものじゃない。
それがすごく悔しくてしょうがないのだ。
自分たちも、世界も、彼女がいたから今の未来に進むことが出来たのに…
それを知らない人はカサンドラのいない世界が日常になってしまって、真実を知っている自分たちだけが――彼女の不在にここまで重たい感情に潰されかけている。
もし…この世界に危機が訪れたら、貴女はまた助けに来てくれますか?
そんな益体もないことを考えてしまいそうになるくらい、リナは辛かった。
今度の王子の婚約者の話のことだって、そうだ。
世界が、カサンドラを忘れていく…
彼女との関わりが薄かった人達から、徐々に今の世界に慣れていく。
指の間から、さらさらとカサンドラの痕跡が流れ落ちてゆく。
嫌だ。
一刻も早く、彼女に戻って来て欲しい。
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