12 : アレク (Letters)
ひんやりとした夜風が肌を撫でる。
誰も一言も話さないまま、黙々と足を前へ出し続けていた。
リナに案内され、アレク達はカサンドラが襲われたという現場へ向かっている最中だ。兄のアーサーの頼みをリナが断れるわけもない、強張った顔のまま目的地へと進む。
今更襲われた現場にカサンドラがいるとは思えないが、いなくなってしまった姉をこの部屋でずっと待ち続けてもしょうがない。
この半日の彼女の足跡、痕跡を辿りたいと言う兄の気持ちも分かる。
正直なところ、アレクはあまり気が進まなかった。
ソファの上に横たわっていたカサンドラのずっしりと重たい、血に塗れた制服の事が脳裏にまざまざと蘇るからだ。
あの出血の有様で彼女が生きていたことは奇跡なのだと実感させられる。
「こちらです」と先導してくれるリナの表情はずっと昏く険しいままだ。
アレク以上に、現場を目の当たりにした彼女は近づきたくない場所なのだと思う。
だが兄は青ざめた顔のまま、絶望を全身に纏い――『校舎裏』へと向かった。
アーサーの両肩には夜の闇とは違う真っ黒な暗黒がずっしりと重たくのしかかっているように見える。
真夜中、もうすぐ夜が明けるという時間帯だが校舎内のいたるところで明かりが灯っているのは不思議な光景だ。
だが騎士達がしっかりと市民達を見守っているのか、それとも見張っているのか外に出て騒れる輩は見当たらなかった。
皆疲弊しきっているし、高揚が過ぎれば次第に現状に打ちひしがれ始める。
離れ離れになってしまった家族は無事なのか、と気になることも多いだろう。
だが騒めくだけで実力行使に出て暴れ出す者がいないのは幸いなことだ。
……この微妙な”静けさ”も、嵐の前か。
きっと夜が明ける頃には、騎士達でも御しきれない騒ぎが至る所で勃発することは火を見るより明らかである。
今後どうするかを父や学園長たちが話し合っているとは言え、王都の機能が完全に破壊された街を以前の威容そのまま復興させるのは遠大な時間がかかると思われた。
「………っ……」
鬱蒼と茂る樹々の隙間を抜けた先、古びた修練場――
その近辺の剥き出しの地面に、皆一斉に視線を向ける。
外壁に近い樹の真下に、とても隠しきれるものではない大量の血痕がそこに遺されていたからだ。
月明かりの下ということもあり、鮮明に視界に入らないことは運が良かったのか。
黒く変色した血の沁み込んだ地面は、そこで何があったのかを物言わず語っているかのようでアレクは口元を押さえる。
「……。」
兄であるアーサーは”何か”があった痕跡の残る場所へ、ゆっくりと近づく。
辛うじてその場に踏みとどまっているものの顔色の悪さに一層拍車がかかって、アレクはそんな彼の姿を見ていられなくて視線を逸らす。
何も言えない。
リナも、そして彼女を支えるシリウスも悔恨の表情を浮かべて地面に視線を落とすのみだった。
「私の知らない場所で、キャシーが……」
肩を、背中を小刻みに震わせる兄の心中を推し量ると、居たたまれないどころの騒ぎではない。
かける言葉を欠片も見つける事が出来ず、ただ夜風に吹き晒される自分達。
「……?
これ――」
あまりにも生々しい惨状から少し離れた茂みの上に、ぽつん、と誰かの学生鞄が放り出されていた。
こんなところに鞄……?
首を傾げかけたが、なんのことはない。
これはきっとカサンドラの鞄だろうとあたりをつけ、アレクは急いでそれを拾い上げた。
皆同じデザインの鞄だからパッと見ただけでは誰のものかなんて判別は難しい。
もしかしたら別の生徒の失せ物という可能性も思考を過ぎったが、すぐに否定できると思った。
この学園は王子やシリウス達の結界魔法のお陰で何とか建物全景を事件以前と同じ状態で保つことが出来ている。
壁も壊されていないので、瓦礫の散らばる街の世界は全く分からない。
要はこの場所だけ、放課後から時が止まったまま。
学園壁際に逃げ出して来る生徒もいなかったのか、踏み荒らされた様子もない。
仮にここに逃げ出した人間がいたとしても、この多量の血痕に気づいたら一目散に逃げて行きそうだ。
慎重に鞄を開けると、カサンドラが愛用していた扇が鞄の手前のポケットにしまってあるのが見える。
間違いない、これは姉の鞄だ。
何か手掛かりになるものは……
と、アレクは丁寧に中を検める。
サロン内で姉の服を捲ってしまった時もそうだが、やはり後ろめたさに襲われながら。
しかし肝心要の兄は完全に魂が抜け落ちたような放心状態、そしてリナは今にも泣きだしそうな感情を堪えるように手を顔で覆っている。
疲労も重なっているだろう、ふらっと倒れそうになる彼女を支えるシリウスに協力してもらうのも気が引けた。
真っ先に、一通の封書が指先に触れる。
それを引き抜き、月の光に透かすように頭上に掲げた。
チラっと周囲の様子を伺った後、手早く封筒の中身を広げて確認する。
渋面になってしまうのは、差出人が兄の名になっているからだ。
開いてざっと眺めると――リナの証言通り、王子の名でカサンドラに話があるから校舎裏の修練場まで来て欲しいと記してある。
「兄様、すみません。
こちらの手紙に見覚えはありませんよね?」
「――……手紙?」
細く長い吐息を落とす兄に、恐る恐る声を掛ける。
彼は前髪を掌で掻き上げ、悲嘆に覆われる
彼はアレクから手渡された手紙をざっと一瞥し、唇を噛んだ。
「私が書いたものではない。
……だが、確かに筆跡は似ている……」
「兄様の字、王宮に行けば”参考にする”機会はいくらでもありそうですよね。
元々お手本のように綺麗な字ですし、真似しやすかったんでしょうか」
普段王宮内で文官達の手伝いもしているという兄だ。
当然彼の書いた文字は王宮内に散らばるように積み上がっているだろう、筆跡を真似ることは難しくない。
ぐしゃ、っと兄は偽物の手紙を握り潰した。
ただの偶然や事故、突発的な事情があってカサンドラが事故に巻き込まれたという可能性はこの段階で消えた。
明確に、彼女を陥れるために準備されていた。
「………。」
許せない、と。
兄は険しいという表現を越え、憤りにその蒼い瞳を染めていく。
今までアレクは兄が怒る姿を見たことが無かった。
幼い頃から優しい兄だったから。
何より、自分が何度も悪魔にされて倒されてきたのだと聞いても怒ることはなかった。
母やクリス――家族が殺されたと知らされた時も、その後の事を考えて押し黙る、そんな忍耐強い彼である。
それが今、明確な憎悪に支配されようとしているのだ。
背筋にぞぉっと恐怖が走る。
普段怒らない彼が怒ったら、一体どうなってしまうのだろう。
下手人がバルガスだと、アーサーが知ったら?
間違いなく彼は兄の手によって復讐されることだろう。
きっと彼だけでは収まらないだろう、ローレル家一族郎党全てを断罪するという結末になるかもしれない。
そうなれば当然ロンバルド――ジェイクに対しても溝が出来、亀裂が走ることは必至だった。
彼のしたことを庇うことは絶対に出来ないが、ライナスやフランツ、それに彼の傘下の家にも累が及ぶとなったらジェイクも黙っていられないと思う。
既にボロボロに崩れ去った王都内で、力を合わせるどころか……
友人同士互いに争う可能性を想像するだけで、絶望しか感じない。
……そんな心配をせざるを得ない程のアーサーの憤りに触れ、アレクは怖かった。
半端な事で終わることはない、それは当然の事なのに。
…………兄が……
あの優しく、思いやりに溢れ、慈悲深かった兄が!
カサンドラがいないということ、そして彼女を傷つけたという事実を前に――憎しみや怒りに染まってしまうことがとても悲しかった。
全てが悲しかった。
ああ、今まで何度も何度も ”負の感情” に呑み込まれ悪魔に乗っ取られてきた兄という現実がアレクの脳内を焼き尽くしていく。
彼の怒りも恨みも正当なものなのに、こんな兄の姿を――救われた世界で見なければいけない現実がただただ、哀しい。
リナやシリウスが絶句し言葉も失う程の兄の怒気に、アレクは再び視線を落とした。
もし、ここにカサンドラがいたら。
自分のことで兄がこんなにも怨嗟の念に蝕まれている様を見たら、一体なんて言うんだろう。
助けて、助けて、とアレクは何度も心の中で呟く。
兄の本質がこの場で変容していく恐怖に苛まれていた。
「……もう一通……?」
カサンドラの鞄の中から、もう一通覗いているのが見えたのだ。
手に取って、その宛名を確認したアレクは思わず声を上げる。
「姉上が書いた手紙!
……兄様、これ……!」
アーサーは自分が握りつぶした手紙を地面に放り投げ、アレクがカサンドラの書いたものだという手紙に手を伸ばした。
とても重要な招待状を直接手渡されたかのように、戸惑い震える指で彼は受け取る。
青い双眸を揺らし、彼は――その手紙をゆっくりと開いていく。
手紙にはアレクも心当たりがあった。
カサンドラが兄に熱烈な恋文をもらったようで、尋常ではない程興奮していたし狂喜乱舞の勢いだったカサンドラを思い出す。
まぁ、アレクとしてはアーサーがカサンドラの事を本当に好きなんだろうなぁ、という想いは常日頃から実感しているもので。
胸の内を告白するような恋文が兄から発射された事に「信じられない」とは思わなかった。勿論、あの兄が! と、吃驚はしたけど。
果たしてカサンドラがその手紙に対して、どんな返事を書いたのかは当然アレクも知る由はない。
しかしアーサーに負けず劣らず律儀な姉のことだ、アレクが進言したように同じ熱量分の返事を書きしたためる姿は容易に想像できた。
きっと顔を真っ赤にして書いていたはずだ。
ハートマークは流石に使用していないだろうが。
だがアーサー当人を前にすると恥ずかしがる様を見てきた、直接渡すのは難しいのだろうな、とも。
書いたはいいものの、直接渡せずヤキモキしていたに違いない。
この一年、ずっとカサンドラの様子を同じ屋敷の中で見て過ごしていたのだ。
二人のやりとりは、嫌でもアレクに伝わってくる。
見つけた手紙が彼女のお気に入りの封筒に入っていた、ということも特別な手紙である証拠だ。
とっておきの、普通の用件にはまず使わない可愛らしいお手紙は……カサンドラ渾身の”お返事”なのだ。
話があるから 一人で 人気のない場所に 来て欲しい
カサンドラが容易くこんな罠に引っ掛かってしまった理由も分かるではないか。
彼女はこの手紙をアーサーに渡したくて渡したくて、でもあの照れ屋な性格から中々渡せなくて。
……二人きりで話がある、と王子に呼び出されたことできっと舞い上がってしまったのだ。
勇気を出して渡せる場面に巡り合えたと、深く考えることなく誘いに乗って。
それが……運悪く、彼女を害するための罠だった。
のこのこと呼び出されて殺されてしまうところを、すんでのところで三つ子に救われた。
そしてその覚醒がきっかけで、悪魔が蘇るなんて連鎖的な反応が起こってしまったということなのだろうか。
「兄様……?」
先ほどまで、今にも復讐を遂げたいと憎悪に感情を染めていたはずの兄。
だが、いつの間にかそんな恐ろしい”憤り”の感情が鳴りを潜めてしまったように感じる。
どうかしたのだろうか。
アレクが兄の顔を見上げると……
アーサーは目の端から一筋の涙を頬に伝わせ、ぎゅっと唇を噛み締めている。
じっと手紙を読み進める兄。
柔らかい銀の月明かりに照らされ浮かび上がる兄の姿は、こんな時に甚だ不謹慎ではあったが。
息を呑む程凄絶で美しささえ感じ、胸に迫るものがあった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
アーサーは小さな溜息を落とした後、手紙を丁寧に畳み封筒の中に入れ直す。
涙の跡も乾いている。
決然とした、精気の漲る佇まいに戻る兄の姿。
アレクは安堵のあまりその場にへたりこんでしまう。
「……。
アレク。それにシリウス、リナ君。
……今まで呆けていて、使い物にならずに申し訳なかった。
少し、頭が冷えた。
キャシーは私が、必ず見つけ出す。
――同時に、彼女が帰る場所として相応しい国に建て直さなくては」
彼はその手紙を大事そうに抱え、踵を返す。
その足取りに迷いはない。
「兄様、待ってください。
大丈夫ですか? 急に態度を変えられて、一体何があったんです?」
『悪意の種』などなくとも彼単独で悪魔にでも成り代わりかねない憎しみを、彼は胸の内に抱いていた。
だがその憎悪は祓われ、アーサーは正気を取り戻したように見える。
何が起こればここまで感情を転換できるのか、アレクには疑問だ。
こんな事態を作った下手人を探し当て、恨みを晴らすことしか考えられないような思考が狭窄していたというのに。
カサンドラの想いの詰まった手紙を読んだのなら、逆にもっと哀しみ憤りを増すのでは?
兄は小さく、アレクにだけ聴こえるように囁いた。
「………。
私は――……」
キャシーが”愛している”と言ってくれた
”私”のままで在りたい。
それが兄の出した結論だった。
彼らしいとも思え、アレクは泣きそうになった。
本当は憎しみや怒りでどうにかなってしまいそうだろうに――
あくまでも ええかっこしいな兄だ と。
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