10 : アレク (Apology)
カサンドラがいなくなってしまった。
この現実に、アレクはひたすら動揺していたのが、時間が止まってくれるわけでも戻ってしまうわけでもない。
壁掛け時計の秒針が刻む音に従うように、世界は同じ方向に向かって時間を進めているのである。
兄であるアーサーは、カサンドラの姿が見当たらないと言うことに大きなショックを受けたようだ。
それは無理もない話なのだが、皆が目を醒まし徐々に騒がしくなっていく事実から目を背けることも出来ない。
生徒会室にはひっきりなしに多くが押し寄せ、混乱ぶりを表していた。
この事態の後、どう対応するべきなのか――
学園長達や、魔物達と戦っていた騎士や兵士、結界を維持していた魔道士達も途方に暮れているのだろう。
誰かが陣頭指揮をとって皆を導く必要があった。
今はまだ命が助かった事に安堵して喜びに浸っているものの、次第に自分達の置かれた状況に気づいて焦燥感、そして命の危機とはまた違う絶望に襲われるだろうことは想像に難くない。
アレクが通って来た街並みを思い出しても、とても普通の生活が出来るとは思えない有様だった。
悪魔を斃して全てが解決、めでたしめでたし、なんて物語のようにはいかない。
起こった物事に対する事後処理が必要だ、これは『現実』なのだから。
しかしこういう時に頼りになるだろうアーサーは完全に打ちひしがれた様子で、サロンから一歩も出ようとはしなかった。
バタバタと周囲が慌ただしく駆け回る中、彼はカサンドラのいなくなった部屋で立ち尽くし、全く動けない状態である。
勿論、夜通し魔法を使っていたという疲労も重なっているのだろう。
とても彼にこの先の事を頼める状況ではなかった。
「……学園長、動ける者を集めよ。
今後の方針を話し合う必要がある、学長室を借りても良いか」
有難いことに、彼にとっては全く理解できない状況であるにも関わらず。
父である国王がアーサーやアレクを庇うように前に出、群がる人々を一瞬で落ち着かせてくれたのだ。
「勿論です、陛下。
どうか聖女と共に我々をお導き下さい」
呆然として動けない兄、そして同じく思考が停止状態のアレクをそっとし、喧騒から遠ざけるように彼は堂々とした口ぶりで皆を引き揚げさせたのである。
……父に対する記憶は、実は余り鮮明に残っていない。
だけどこんなに大きな背中だったかなぁ、とアレクが狼狽えてしまう程彼はこの混乱した状態で一切動揺を見せることはなかった。
足音が廊下の向こうに遠ざかって行くのを聞き終えてから、アレクはホッと胸を撫でおろす。
そして再び、アーサーの傍に駆け寄って彼に声をかけることにした。
正直に言えば、放心状態の兄の姿を見る方が辛いのだけど。
いつまでもこのままというわけにはいかないだろう。
兄がここにやってくるまでは、アレクがこんな風に心が掻きむしられるように呆然としていた。
だが自分よりも激しい衝撃を受けている人間を前にすると、自分がその呪縛から解き放たれるというものだ。
一歩引いて冷静に――という程心穏やかではいられないが、大きく深呼吸をする。
ドキドキと心臓の音が煩い。
「兄様、大丈夫ですか?
しっかりしてください」
「………。
一体、何故……どうして、こんなことに……」
彼は信じがたい、と言わんばかりに額に手をあてて何度も首を横に振った。
「き、きっと姉上は皆が気を失っている間、どこかに行ってしまったのですよ。
その内、帰ってきます。
ええ、そうに決まってます」
無理矢理自分に言い聞かせながら、懸命に兄に訴えかけた。
「本当に、アレクはそう思う?」
しかし自嘲と共にそう返す彼の言葉に二の句が継げなかった。
そうであって欲しい、という願望を口にしただけだったから。
根拠なんてどこにもない。
あの光の中の出来事が片時も頭から離れない。
コンコン、とサロンに繋がる扉がノックされる。
もしかしたらカサンドラが戻って来たのではないか!?
と、二人は顔を見合わせ、扉の前に急いで駆け寄った。
「あ……シリウスさん」
しかし生憎、扉を開けた先にいたのは難しい表情をしたシリウスの姿だ。
彼も疲労の影を色濃く残し、サロンに入るなり部屋をぐるっと見渡した。
「カサンドラは……いないようだな、その様子だと」
期待していた人物ではないと分かった後、兄は大きな溜息を落とす。
そのまま彼に背を向けて、覚束ない足取りで――近くのソファに座り込んでしまった。
両の掌で顔を覆い、肩を悄然と落としたまま全く反応が返ってこない。
とても他人とまともに話が出来る状態ではなかった。
シリウスも察したのだろう、悔しそうに唇の端を噛む。
「お前が傍についていたのではなかったのか」
ぼそぼそと、力の無い声でシリウスは言う。責めている口調ではなく、この現実が全く信じられない、と言った様子である。
「はい、確かに僕が近くにいました。
でも悪魔が崩れ落ちると同時に気を失って」
「そうか……。
私も正確な時間は分からないが気を失っていたようだ。
右も左も、見渡す限り真っ白な場所で身動き一つとれなかったのだがな……。
『あれ』は本当にカサンドラだったと言うのか?」
やはり、自分や父王だけではなく他の人間もあの場所に飛ばされていたのか。
きっと今までは皆、あの場所で記憶を消され、巻き戻った世界に再び強制的に連れて行かれていたのだろう。
同じ時間軸、同じ世界を、何度も、何度も……?
改めて、馬鹿げていると思う。
遣る瀬無い憤りに拳が震えた。
「僕も同じなんです。
あの場所で、姉上が光って……溶けるように、消えていなくなってしまいましたよね?
目を醒ました時、既に姉上の姿は見当たりませんでした」
「一様に意識を失っていたのだな、例外はない……か。
私も良く分からんが、カサンドラが何かをした事は間違いないように思えるな。
問題は今現在、彼女がどこにいるかだ」
「……見つかります……よね?」
縋るように、シリウスの顔を見上げた。
だが、縋るのに都合の良い相手ではない。
適当にいい加減な慰めでこの場を誤魔化すよう、宥めることはできない人である。
困ったような顔のまま、彼は眼鏡のブリッジに指を掛けた。
何も言えない、言い淀む彼の渋面にアレクは絶望に突き落とされた気がした。
「まずは、情報を集める必要がある。
……皆、今日の件は断片的な事しか知らないはずだ。
カサンドラやフォスターの三つ子に何があったのか?
話は、それからだ」
シリウスに肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
「しっかりしろ。
ここは――お前の姉が、救った世界だろう!?」
彼の言葉が心を大きく揺さぶる。
アレクはその場に膝から崩れ落ちた。
※
何度逆行してやり直しても、容赦なく兄は『悪魔』になって聖女に倒されてしまう。
仮にそうでない展開になったとしても、関係なく世界は当たり前のようにカサンドラの入学式前日に戻ってしまう。
今度こそ、兄が殺されませんように。
そんな祈りとともに過ごす三年間はとても長くて、心はどんどん摩耗していった。
助けて――!
手を伸ばし、切に願った。
様々な意味を乗せた、アレクの魂の叫びだ。
兄が殺されるのは嫌で、干渉できないまま傍観するしかない自分が嫌で。
閉ざされた世界で生き続けることに限界を迎えようとしていた。
この世界は『救われた』のか?
確かに聖女が悪魔を斃したというのに、兄のアーサーはこうして生きている。
そしていつもならあの白い世界に放り出された後、時間が逆行して最初からやり直しになるはずなのに。
こうして皆が正しい記憶を持ったまま、現世に帰還することが出来たのだ。
今までに無い展開、未来だ。
皆から失われるはずの記憶は保持され、時間も戻らないのなら世界は呪縛から解き放たれたことになる。
それを知っているのは自分達、ごくわずかな人間だけれど……
ようやく世界のシナリオという運命の楔から、アレク達は自由になったのだ!
だけど。
この世界を救ってくれたであろう、『カサンドラ』がいない事がとても信じがたく、堪えがたい現実だった。
彼女のお陰で皆が未来へ進めたとして、本当にこれが”救い”なのだろうか?
※
シリウスが生徒会室を一度退出した後、しばらく。
重苦しい沈黙の中、アレクはただひたすら「どうしたらいいのか」ばかり考えて頭を抱えていた。
前向きに、能動的に何かをしなければ。
だが、身体が全くついてきてくれない。
感情が酷く鈍磨していき底なしに気落ちしていく状況の中、再び自分達を呼ぶ声が聴こえた。
一瞬期待しかけ、視線だけ扉に向かう。
「――失礼します」
緊張した声は、とてもカサンドラのものではない。
未だにカサンドラがいたはずのソファの近くから動けないでいるアーサー、そしてアレク。
自分達の様子を目の当たりにし、彼女は大きく息を呑んだ。
真剣な面持ちで、こちらに歩み寄って来る。
彼女の傍には、先ほど退出したばかりのシリウスも付き添っている状態だ。
「カサンドラ様がどこにもおられないとお聞きしました」
シリウスと一緒に再び部屋にやって来たのはリナだった。
あの巨大な悪魔を退治した『聖女様』というには彼女の表情は硬く強張っていて、とても偉業を達成した直後とは思えない。
「本当に、いらっしゃらないのですね」
彼女はがっくりと肩を落とし、半分涙ぐんでいた。
「あの、僕は本当に状況がよく分かっていないんです。
他の二人は……?」
「リタは、カサンドラ様を探すと言って……
あてもないのに、周辺を探し回っているのではないでしょうか。
リゼは別の場所で深刻な事態が生じたと聞き、そちらに向かっています。
せめて私だけでも、あの時起こったことをお伝えしたいとこうしてお伺いしました」
カサンドラがいないと知って、リタはいてもたってもいられず駆け出してしまったというが、その様子は容易に想像がついた。
他の場所で問題が起こってリゼが向かったというのは少々気にかかる。
しかし今は思考に全く余裕がなく、リナの言葉に食い入るように耳を傾けていた。
「申し訳ありません!
王子の心を徒に乱すようなことはできないと、この時まで黙っていた事をお許しください」
リナは悲鳴に近い声を上げ、自分達に訴えてきたのだ。
切羽詰まった様子のリナ。
『あの時』何があったのか……?
アーサーはよく分からないと言わんばかりに首を傾げる。
だがアレクはピンとくるものがあった。
「姉上は体調不良ではなかった、大怪我をしたのですね?」
制服にべったりとついていた大量の血。
傷口こそ塞がっていたが、あれは刺し傷。
そしてその後のライナスの反応から察するに……
アレクの想像は、決して的外れではないのだろう。
「……怪我?
キャシーは怪我をしていたのか?」
「はい。
カサンドラ様が体調不良で臥せてしまわれたので、アレク様をお呼びした――とお伝えいたしました。
ですが、本当は、違うのです。
あの時……――」
胸の辺りで手を組み、リナは懺悔するように真実の景色を伝えてくれた。
放課後、学園の生徒が皆帰路についた頃。
既にアーサーやシリウス達も王宮へ発っていたはずの時間帯に、それは起こった。
カサンドラは廊下ですれ違ったリゼに『王子に呼び出された』と伝えた後、校舎裏へと向かったそうだ。
だが王子は校舎にいないということを知っていたリナは、呼び出しなんておかしい、と不審に思ったのだと言う。
約束事に行き違いが生じるのは世の常だが、王子がカサンドラとの約束を忘れて先に帰宅するなんてありえない話だ。
胸騒ぎを感じ、不審に思ったリナ達は校舎裏へ様子を見に行くことにした。
辿り着いた時には――
ある一人の男が、カサンドラの腹を剣で貫いているというショッキングな光景が広がっていたのだ。
彼女は息も絶え絶えの様子で、事切れる寸前のように見えた。
我を忘れて駆け寄ったリナ達は、カサンドラを救うために聖女へと『覚醒』してしまった。
聖女の力でカサンドラを癒し、傷口を塞ぐことはできたが彼女は決して目を開ける事は無く。
血塗れ状態のカサンドラを何とか生徒会室併設のサロンに運び込み、レンドールの屋敷に迎えを呼んだ、と。
だから着替えを持って来いと指定されていたのか、とアレクはこの段に至ってようやく得心がいった。
どうしたものかと三人で途方に暮れていたところ、今度は突然『悪魔』が蘇ってしまい街の様子が一変した。
「王子が悪魔になったわけではない事に、私は安堵しました。
ですがカサンドラ様のご様子をお伝えすることを躊躇い、伏せてしまったのは他ならぬ私です」
アーサーの心を乱したくない、というリナの気持ちはアレクにも分かる。
シナリオとは違い、悪魔になったのは兄ではなかった。
しかし、皆それぞれ状況が分からず正しい判断が難しい状況にあったのだ。
カサンドラが何者かに刺されてしまった、大怪我をした――そんな事を聞かされたアーサーが我を忘れてしまう事態になったら?
とても冷静に学園の結界の維持に注力など出来なかっただろうし、被害が今以上に大きくなったかもしれない。
ただでさえ悪魔というキーワードが具現化してしまった世界の中、アーサーの心を徒に乱したくなかったのだろう。
「………。」
兄は何かを堪えるように、目をぎゅっと閉じている。
「その後の事は……本当に、私にも分からないのです。
悪魔の『核』を壊す事が出来れば、全て解決するのではないかと。
――三人で力を合わせて砕きました。
でもすぐに世界が壊れて、真っ白い世界に放り出されて……
巻き戻ってしまう、もう駄目なのだと覚悟しました。
世界が
「そう、か。
……キャシーが、聖女覚醒のきっかけに……」
聖女の力は『愛』によって、目覚める。
愛、か。
異性間の恋愛という”愛”の範疇を飛び越えて、もっともっと広い概念を指している言葉だったのだろう。
カサンドラの危機、それを救うために彼女達は目覚めてしまった。
リナの謝罪の声だけが響く。
譫言のように何度も「ごめんなさい」と謝るリナを止めることも出来ず、シリウスも顔を伏せていた。
彼女の謝罪を遮るように、兄はようやく言葉を発する。
「リナ君。
……彼女が私に”呼び出された”場所へ案内してくれないだろうか。
万が一の可能性でしかないけれど、彼女の行く先を示すものが残っているかもしれない。
ここにいても、キャシーが戻ってくれることがないような気がして……」
生きているのは奇跡、それこそ女神の御業としか言いようがないだろう。
彼女達が覚醒しなければ、間違いなくカサンドラは命を落としていた。
――リナはアーサーにとって何より重大な事実を、敢えて今まで黙っていたのだ。
心から悔い、彼女は泣きそうな顔で謝罪の言葉を繰り返す。
だが悪いのは、リナではない。
カサンドラを刺した犯人ではないか、リナだけが謝っている状況なんておかしな話だ。
アレクは、下手人を知っている。
暗澹たる思いのまま、アレクは彼らの後をついていった。
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