09 : リタ (Impact)





   嫌な予感、胸騒ぎ。





 最悪の事態がリタの脳裏を過ぎり、それを否定するために何度も何度も首を横に振った。

 頭がズキズキ痛む。

 冷や汗が止まらない。



 三人力を合わせて悪魔の『核』ごと破壊し、消滅させることができた。

 だがあの化け物を打ち倒したことに対する喜びや達成感なんてものは微塵もない。


 ただ、真っ白な空間に浮かび上がったカサンドラの後姿が意識に焼き付いて離れてくれなかった。


 目を閉じて意識を奪われていきそうな孤独で寂しい、何もない空っぽの空間。

 抵抗も出来ずゆらゆらと浮かび、ただ流されるだけだった自分を――あの世界から助けてくれたのは間違いなくカサンドラだ。

 いくら輪郭が朧気でハッキリとした姿をとっていなかったとしても、彼女の姿を見間違えるはずがない。


 リナとリゼと一緒にカサンドラの眠っている学園に戻る最中、緊張で胸が張り裂けそうだった。

 

 一刻も早く彼女のところまで駆けつけてお礼を言いたいと思う。

 だがその反面、”もしもいなかったらどうしよう”という嫌な想像だけが先走るのだ。


 普通に考えれば、お怪我をして意識を失ったカサンドラを学園に置いて来たのだから。

 彼女は未だあの部屋で寝ているか、もしくは起きて自分の脚で動き始めたのか。

 それは分からないが、少なくとも学園のどこかに彼女はいるはず。


 なのに、不安で不安で仕方なかった。


 彼女が金の光と共に自分達の世界に色を取り戻してくれた時、確かに彼女の姿が溶けて消失したのを見たからだ。

 夢の中のような不安定な世界なのに、そこだけやたらと鮮明で、幻想的で――その癖、信じがたい程リアルで。


 まるで彼女が本当にこの世界からいなくなってしまったような喪失感を覚えた。

 手を伸ばしても届かないんじゃないかと、怖かった。


 きっとそれは姉妹も同じだろう、だからずっと険しい表情で暗い夜道を、瓦礫を乗り越え駆け抜けていったのだ。


 聖女の力が覚醒して、それで悪魔を斃せたという一連の流れに対する関心はこの時すでに”どうでもいい”程度の話に成り下がっていた。


 気持ちばかり、焦りが積もる。

 しかし――学園にようやくたどり着いたかと思いきや。





   『彼女達が、あの悪魔を打ち倒した”聖女”である!』




 なんて、注目を一斉に集めるような声が夜空の学園下に轟いた。



 何故か自分達三人を指して『聖女だ』と大騒ぎし、勝手に喧伝する人間がついてきていたようだ。

 自分達のことに手一杯でなりふり構っていられなかったが、ここにきて自分達の行為が牙をむく。


 悪魔を斃すのは自分達の役目だ、あれを放っておくことはできない。

 その力があるなら、立ち向かっただけ。


 悪魔は斃さなければいけない存在であったから、そうしたまでのこと。

 決して他人から褒め称えられるような行動ではないと思う。


 そう言えば、あの悪魔――


 王子ではないということにホッとしていたが、あれは一体何だったのだろう?

 今でも混乱して、よく分かっていないリタである。


 困惑する自分達を取り囲むように、学園に集っていた大勢が堰を切ったように自分達目掛けて押し寄せてくる。

 今まで息を潜めていた静寂の時間が嘘のように、真夜中にも拘わらず歓声が響き渡り、狂乱の様相を呈していた。


 そりゃあ、自分が逆の立場で命を助けられた側なら、この喜びようを見せるのも分かる。

 だがこんなところで足止めを食っている場合ではないのに、と焦りが募る。


 彼らから伝わってくるのは喜びと感謝の気持ちで、そこに他意はない。

 だからこそ厄介だ。

 お礼を言って押し寄せてくる人の波を突き飛ばしたり追い払ったりするような真似は自分には出来ない。


 その感謝の気持ちを『迷惑だ』と叫ぶことは、彼らを傷つけることになるのではないかと、勢いに圧倒されるだけだ。

 隣で渋面を作るリゼは完全に苛立ちを隠しきれていないし、気が付けばリナの姿は傍からいなくなっているし。


 一体どうしたらいいのだ、とリタは周辺をぐるりと囲まれ途方に暮れていた。


「す、すみません!

 あの、私達用事があって……通してもらえませんか!?」


 リタが声を張り上げても、彼らの歓声に掻き消される。

 今まで伸し掛かっていた恐怖、プレッシャーから解き放たれて皆が浮き足立って高揚しているのだ。


 こんな風に大勢から注目を浴びる経験も乏しく、騒ぎをおさめる方法をすぐに思いつけなかった。

 あまりの騒々しさに、耳を覆って蹲ってしまいたくなる……





 その時だった。 



 全く何の前触れもなく、突然星々の瞬きが煌めく深夜の街をヴァイオリンの音が引き裂いたのである。

 普通の音色ではなく、思いっきりでたらめに弓を引き、耳が壊れるのではないかというかなり不快な音。


 ギィィィ、と。巨大な化け物の断末魔に似ていた。


 狙ってこんな歪つな音を立てる事も難しいだろうと言う、大音量のヴァイオリンの音が学園の校庭全体に響き渡った。


 流石に浮かれておおはしゃぎしていた人達も、自分達の鼓膜に直接の危険を感じて耳を押さえて顔を顰める。

 一体誰だ、何の音だ、と。


 皆が騒音の主を探したが、リタはすぐにその人の姿を発見することができた。

 困惑して固まる人垣を押しのけ、彼女が姿を見せてくれたから。



「……クレア様!?」



 見覚えのあるヴァイオリンを手に持って、にこりと微笑む美しい淑女。

 さっきの酷いダミ音はあの『魔法のヴァイオリン』が発したものなのか? と、ぎょっとした。



 というか何故彼女がそれを持っているのかもよく分からない。




 クレアは視線を集め、大きく息を吸い込んだ。

 ――険しい顔で彼らを諫める。



「一所に留まり身を震わせていた私達と違い、彼女達は長い戦いを終えた後なのですよ。

 疲れていることが何故分からないのです?



 ――彼女達に感謝しているというのなら、まずは静まりなさいな」




 玲瓏とした美しい声だが、その厳しい口調に誰もが口を噤む。


 実際に自分達の姿は――学生服のままではあったが、煤けて破れている箇所もあったし『ボロッ』という擬音が相応しい様な有様であった。

 リタは上着をカサンドラに掛けたのでブラウス姿で、初夏とは言えこの時間帯は風も出て寒々しく見えただろう。




「全くだ、お前らも揃いも揃って煩いぞ。

 ……凱旋! って顔をしてるわけでもないのに、お前らが追い詰めてどうするんだ」


 三つ子をさして高らかに『聖女の再来』と誇らしげに盛んに伝え回っている黒甲冑の騎士達。

 彼らの背中を後ろから軽く蹴りを入れる中年のオジサンの姿に、リタはあっと軽く声を上げた。


 どこかで見た事があると思ったが、忘れるはずもない。

 クレア救出時に駆けつけてくれたロンバルドの私兵隊長、いや、物凄く失礼なオジサンだ。


 名前は確か、



「フランツさん! 良かった、無事だったんですね」



 隣に立っていたリゼが目に光を取り戻しながら、彼の傍に駆け寄った。

 この異常時だ、見知った人物がいてくれると安心できる。



「当然だろ、見くびるな。

 ……リゼも、妹も――お前らこそ、よくやってくれたなぁ。



  はは、お前らが聖女とか、似合わな過ぎて笑ったわ」



 フランツは相変わらず飄逸とした態度で。

 リゼとリタの頭を同時にポンポンと叩いた。


 その扱いの軽さが、逆にホッとさせてくれる。





 まだ周囲はざわざわと興奮を抑えきれない騒然とした様子を呈していたが。


 バツが悪そうな顔の騎士達が、皆を宥めるように校舎の方へと誘導し追いやって行く。

 フランツの睨みもかなり効いたようでリタは驚いた。

 騎士団にまで顔が利くのか、このオジサン。



 騎士達は集った大勢の注目を集めさせたのとは逆に、勢いは窄んでいたが――クレアの叱責に我に返ったところを見ると、完全に善意の行動だったのだろう。

 浮かれてしまうのはしょうがないが、正直クレアの制止は有り難かった。



 ようやく人が集っていた事で発生していた狂った雰囲気から解放され、ホッと人心地着く。

 遠巻きに自分達に向けられる視線は気になるが、間近にまで迫られて取り囲まれるより遥かにマシである。




 人の大波がざぁっと引いていくと、少し離れたところにシリウスとリナが立って何やら話し込んでいる様子が見えた。

 リナの姿が見えないと思っていたら、シリウスが彼女を連れ出していたらしい。


 こういう場面でいの一番に彼に労ってもらえるリナが羨ましいと一瞬だけ思ってしまった。

 丁度、シリウスに正面から抱き締められているような格好に見えたからだ。


 そんな自分の一瞥に気が付いたのか、クレアは申し訳なさそうな顔をこちらに向ける。



「ごめんなさい。

 ラルフはお父様に話があるからとヴァイル邸に向かったの。

 この場にあの子がいない事を申し訳なく思うわ」


 まるで自分がラルフに物凄く会いたがっているようではないか。

 街ですれ違った時から彼の姿を見ていないので会いたいと言う気持ちはあるけれど。


「いえ!?

 クレア様が謝られることでは……!

 こんな時ですし、皆さんお忙しいですし!?」


 慌てて手を大きく横に振ってリタは泡を食う。

 彼が無事ならそれで何より、今は混乱した状況の中での状況把握が一番大事だと思うのだ。


 皆それぞれやらなければいけない事もあるのだろうし。

 全てが突発的に予期せず起こったことで、打ち合わせも出来ないままパニックに突入した。


 未だに――あの巨大な黒い魔物を自分達がどうにかした、という事実が信じられない。

 全て夢の世界の話のようだ。


 各々が最善と思った行動をしているのだ、リタが我儘を言って良い場面じゃない。


「まぁ、リタ。

 以前お願いした事を忘れたのかしら」


 クレアがヴァイオリンを片手に持って、空いた方の手でリタの肩に手を添えてきた。

 自分よりも背が高い、すらっとした美女ににこやかに微笑まれてドギマギするリタ。


 性差があるからそっくりとは言えないが、顔の造作にラルフの面影があるせいだろうか。


 どんな深刻な話をされるのだろうと緊張するリタだったが……


「私の事は姉と呼んでほしいとあれ程お願いしたのに。

 こんな時にまで他人行儀な呼ばれ方で、私は少し寂しいわ」


 彼女は儚ささえ感じさせる愁いを帯びた表情で、小さく吐息を落とす。


「ええええ!?」


「………。」


 この期に及んで、チラチラと視線だけで声に出さずこちらを見つめる彼女の視線に耐え兼ね、リタは引きつった表情で声を上げた。

 彼女にはこの場を鎮めてもらったという恩もある。


「ええと、お姉さま……?」


 すると彼女は、暗がりでも分かる程パッと顔ばせを明るくした。


「……!

 ……ふふ、貴女達が無事で本当に良かった。

 何処も怪我をしていないかしら」


「私は大丈夫です」


 自分達は、大丈夫。

 ここまで走って辿り着くことが出来た事が証明だ。

 体力も残っていたし、身体機能に異常はない。


 ただ、今もなお視界の端に映るリナを見て複雑な想いに駆られるだけで――





 が、そんな想いも彼女リナの蒼褪めた顔に気づいた瞬間、あっという間に霧散する。

 こちらを振り向き、フラッと身体を傾けたリナ。

 嫌な予感が再び一気に膨らんで弾け飛ぶ寸前だ。


 自分の心臓の音が煩い。




「………リゼ、リタ。


  ……どうしよう……」



 呆然と、力無く。


 シリウスに支えられるようにして、ようやくこちらを振り返ったリナの顔は真っ青を通り越して白い。

 彼女はポロポロと涙を零し、手の甲で何度も目の縁を拭っていた。

 必死に泣き止もうとしているのに、我慢できず嗚咽が漏れる。


 リナの目に生気がなく、震える彼女の姿にリタも愕然とし何を言えば良いのか分からなかった。



「リナ、どうしたの?


 ……シリウス様、リナに何を言ったんです?」



 末妹リナの著しい消耗ぶりがまるでシリウスのせいかと言わんばかりに強い眦で詰め寄るリゼに、彼は肯定も否定もしない。

 口を真一文字に結んだまま、沈痛な面持ちでリナが倒れないように支えていた。


 ゆっくりと頭を左右に揺らし、リナは真っ青な唇を震わせた。



「――カサンドラ様が何処にもいらっしゃらない……

 誰も知らないって……」




 もしかしたら、という想い。

 そんなことがあるはずがないという望みが砕け散る。


 杞憂であって欲しくて、彼女の姿を確認したいからここまで急いで帰って来たのだ。



「嘘。……嘘ですよね?

 もう、こんな時に冗談なんて笑えませんよ」


 シリウスがこの場で嘘をつくなんてありえない。意味のないことを彼は嫌う。

 分かっているのに、一縷の望みに縋りたくなる。


 なんでそんなくだらない冗談を言うのか、と言わんばかりに彼に食って掛かるリタの声は上擦っていた。



「――……。

 学園内を捜索している最中だから断言はできない、が。

 傍についていたアレクが言うには”目を醒ますと消えていた”そうだ。

 ……。


 今、生徒会室にアーサーとアレクが待機している、が……

 双方ともに、とても見ていられる状態ではない。

 カサンドラの捜索を続ける必要がある」


 視線を外したシリウスの話す内容は、いつもの彼のように淡々とし落ち着いたものだった。

 冷静に見えるが、その声は掠れ小さく、彼の混乱や憔悴ぶりを表しているかのようだ。







   あの時、融けるように”消えた”カサンドラの後姿が何度も何度も蘇る。







   夢の世界の話じゃなかったの!?







「――私、探します!」






 リタは知らず、怒鳴るように叫んで走り出していた。




  



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