07 : アレク (Disappearance)


 窓の外で巨大な黒い影――人類が『悪魔』と呼び怖れた双角の化け物が崩れ落ちていく。


 断末魔の咆哮が昏い闇をつんざき、空気を振動させる。


 白い光が忌まわしい存在を”斃した”のだと、アレクはすぐに理解した。


 いつもはあの悪魔は自分の兄であり、アーサーが姿を変えたものだったはず。

 自分は何度もこの三年間の記憶を持ったまま、延々と繰り返している。

 その度に力なく頽れ、顔を覆って泣いていた。

 聖女の活躍を喜び、快哉を上げる街の人達の姿に悔しい想いしか抱けなかった。

 苦しかった。


 抜け出す事の出来ない、煉獄の鎖を常に足に巻きつけられたような不自由。

 今まで自分の干渉できない『世界』で、傍観者でしかいられなかった自分。


 あの斃された化け物は、兄ではない。

 ようやくその点と点が断絶された事を自覚し、拳を握り固め叫びたくなる瞬間が訪れた。


 悪魔になってしまった人間が元々の物語と違うのなら、それは全く違う世界に繋がるのではないか。

 歪んだ三年間という時間軸から、解放されるのでは!?



 そんな風にアレクが考え希望に胸を膨らませたのは残念ながら、束の間のことであった。





「…………っ!? そ、んな……」



 地面が大きく揺れた。

 巨大な魔物が地面に倒れた時よりも、もっともっと凄まじい地響きを立てて大きく不安定な状態に置かれ戸惑うアレク。


 何かに捕まっていてもまともに立っていられることが出来ず、アレクはその場に膝をつき何とか近くの柱を手で掴んだ。


 この地響きには覚えがある。

 ザーッと血の気が引き、眩暈に襲われた。


 世界がゆっくり、ゆっくり、黒から白へと変色していく。

 白い光一面、周囲の景色全てを塗り替え飲み込み、浸食し――



 その光の眩しさに耐え切れず目を閉じ、意識を失うことになる。

 気が付いたら、目の前に『入学式前日のカサンドラ』が立っている場面に逆行してしまう合図だった。


 数えるのも億劫な程、アレクはこの白い光に積み上げてきたはずの三年という時間を何度も何度も奪われてきたのだ。

 いっそ皆と同じように記憶を全て失くしてしまった方がどれだけ楽になれることだろう。


 時間が巻き戻っていることに気づかなければ。

 この世界の誰もが、永遠に三年間でひっくり返る砂時計の中で停滞した繰り返しの時間を続けていくだけで終わる。

 知らなければ、皆と同じように永遠に疑問も苦しみもなく、決められた物語をなぞることが出来ただろうに……






    自分だけ、この記憶を持ったまま 戻らなければいけないのか。

  



 覚悟はしていたことだ。

 何もかもが上手くいくことはなく、失敗して自分だけ記憶を保持したまま逆行してしまうかもしれない……

 兄と再会できたことも、父と再会できたことも全て元に戻って、真っ新な状態になってしまう。



 ――ああ……  カサンドラは?



 次に出会うカサンドラは、一体『誰』なのだろう?

 前回、自分が喚び寄せたという異世界の知識を持つ彼女カサンドラは?


 次に会った時にも、同じ彼女でいてくれるのだろうか。

 世界を救うと言う望みを叶えることに失敗し、そのまま異世界に帰ってしまうのか? もう二度と会えない? もう一度、自分と一緒にやり直してくれる?

 記憶は、持ってる?

 また……最初から?



 それに、次も主人公も三人いるのだろうか。




 次に入学してくる聖女の卵が”リナだけ”だったら。

 ――悪魔を斃したリタとリゼは   何処へ行ってしまうのだろう?



 様々な想いが胸を塞ぐ。






  ――クリス、何処だ!?

    何処にいる!?


    クリ…………ど………





 手を伸ばせば触れることのできる傍にいたはずの父の姿が真っ白な光に埋め尽くされ、見えない。

 声も次第に遠くなって聞こえなくなる。


 溶けていく、世界が皆の記憶を全部、全部を呑み込んで真っ新に洗い流していく。 

 上も下も左右全て漂白され切った白の世界に、アレクはうつぶせに倒れていた。




”姉……上………”



 同じ部屋にいたはずの彼女の姿は、白い光に上書きされてどこにも見えない。

 手足の感覚も朧気だった。



 激しい虚脱感に襲われ、指の先も動かせない。



 もはや重力も感じることなく、ふわふわとあてどもなく真っ白な世界に意識だけたゆとわせていた。



”………?”



 ゆっくりと瞼が落ちていき、そのまま意識を手放し巻き戻る寸前。

 突然、パッと視界が開けた。




  色の無い世界 自分以外誰も見えない空間 



 『彼女』は、しっかりとした足取りでアレクの視界に飛び込んできたのだ。

 何も見えないはずなのに、彼女は眩くって。

 白一色の世界に、輝いて見えた。


 ただ――

 その輪郭は幽鬼のようにはっきりとせず。彼女自身に霧が纏い、霞んで見える。




 金色の淡い光に包まれた彼女が、真っ白な世界の中自分の前に歩み出る。

 ゆっくりと両のかいなを見えぬ何者かに向かって掲げたカサンドラ。彼女の後姿に手を伸ばそうとした。


 だけど自分の手は指先さえもピクリとも動かない。


 上下左右、全く感覚のない世界に漂う自分。

 だけどその虚無としか表現のしようのないだだっ広い世界の中で、彼女は確かに光り輝いていた。


 はっきりとしないぼやけた輪郭だったが、あれは間違いなくカサンドラだ。




 視界がマーブル状に混濁し、世界に色が蘇ってくる!

 自分の腕に、足に、徐々に感覚が戻って行く。


 だがはっきりと輪郭を取り戻す景色の中に溶けだし、反比例するかのように彼女の存在がすうっと薄くなる。



 まるで蜃気楼。

 手を伸ばしても、空を掻く。


 指の先は、彼女に届かない。



 





   「姉上――――!」






 必死で叫んだ。

 彼女がそのまま、何処かへ行ってしまうのではないかという焦燥感に衝き動かされたからだ。


 視界が、聴覚が、触覚が、アレクの意識に紐づけられ、戻ってくる。

 アレクにとっての現実が再び帰って来たのだ。



 勿論、こんなことは今まで何度も繰り返した三年間の中で、一度も無かったことだ。

 世界全体が真っ白に塗りつぶされていった後、目が覚めたら始まりの日に戻るという絶望を何十回も繰り返してきた。





  ※




「――ん……? ぅ……」



 意識が戻る。


 自分が生徒会室併設のサロンに倒れていた事を思い出すや否や、ガバッと立ち上がった。

 両手をついて身体を起こした後、よろめきながらカサンドラが休んでいるソファの背もたれに手を掛けたアレク。


「姉上、大丈夫ですか?」


 ついさっきまで、姉は意識を失った状態で横たわっていたはずだ。

 傷は完全に塞がっていたが、腹部を血にまみれにする彼女の痛々しい姿が網膜に焼き付いて離れない。


 だがしかし、アレクは愕然とその場に立ち尽くす。

 目覚める兆候さえなかったカサンドラが、忽然と姿を消していた。

 彼女の腹の上に被さっていた誰かの制服のブレザーだけ、残っている。


 確かに彼女がいたことを証明するかのように、袖をソファの縁に垂らしていた。

 その空しい光景を前に、アレクは膝を落とす。


 頭を抱え、そして彼女がいるはずの場所に覆いかぶさり低く呻いた。



「クリス、一体今、何があった?

 突如白い場所に放り出されたかと思ったら……

 ……カサンドラ嬢の姿が浮かび上がり、すぐに見えなくなってしまった。



  彼女は一体どこに行ってしまったのだ?」




 顔を蒼白にし震えるアレクに対し、同じタイミングで意識を取り戻した国王は遠慮がちにそう問うた。

 彼もまた狐につままれたようなぼやけた感覚で、夢と現の境界に未だに佇んでいる。


 呆けた眼差しの国王。

 いるべきはずのカサンドラが消えてしまった事に彼も困惑しているようだった。


 気を失って昏々と深い眠りに就いていただけ?

 ならば自分達があの空白の世界に押し込められた時にカサンドラが目を醒まし、何処かに歩いて向かったのかもしれない。


 時間の流れさえ不確定、不思議な『逆行前』にのみ出現する空間。


 恐らくあの感覚を知っていたのは今までアレクだけ、もしくはリナが覚えているかどうか、というところだ。

 しかし国王の言葉から分かるように、彼もまた巻き戻る寸前の記憶消去の”場所”に送り込まれたのは間違いないだろう。

 そして……

 父もまた、アレクと同じようにカサンドラの姿を見たのだ。


「………わかり……ません」


 彼女がどこに行ったのか分かる人がいるのなら、自分に教えて欲しかった。

 自分の脚で歩いて行っただけなら、きっとこの街のどこかにいるはずだ。

 まだ学園内にいる可能性も考えられる。


 不安だ。


 探しに行かないと……。

 きっと彼女は、何処かにいるはずなのだから。


 だってカサンドラが自分達を置いていなくなってしまうなんて考えられない。

 考えたくない。


 頭の中で自分に言い聞かせるのに、身体が思うように動いてくれなかった。


 異常な事態だ。

 強制的に過去へ戻される空間に連れていかれたはずなのに、アレク達は未だに『現実』の先を記憶を持ちこしたまま時間を過ごせている。

 国王はカサンドラの事を覚えている、アレクがクリスであることも知り、再会した時に分かち合った喜びを共有しているのだ。

 

 皆と過ごした世界と連続した、地続きの世界。

 悪魔を斃した後なのに巻き戻らなかった、奇跡が起きた果てに自分達はこうして存在しているのだ。


 もしもこの世界を残してくれたのが、あの時のカサンドラの起こした金色の奇跡なのだとして。

 彼女の姿が見えないという事実がどう結びつくのか考えるのが怖くて思考停止してしまう。



 探して、 探して

 カサンドラがいなかったら、と思うと怖くて足が竦む。



 巻き戻らなかった世界、後は未来という先へ進むしかない。




   誰かが欠けても 

   二度とやり直す事が出来ないということだ。





 ふと、壁掛け時計を視界に入れた。

 悪魔が消えたというのに相変わらず外は真っ暗だと思っていたが、何の事はない。

 時計の針は十二時を指しているが、恐らく夜中の十二時なのだろう。


 空を覆っていた重苦しいべっとりとした闇はいつの間にか払われ、雲の隙間から姿を現わした月の光が優しく大地を照らし続けている。

 悪魔が蘇って半日も経っていないというのに、たったそれだけの時間でも外は阿鼻叫喚の有様だった。


 過去の被害の甚大さは途方もないものであったのだろうと思うアレク。

 だがそんな遠い過去に想いを馳せたところで、現実の状況に変化が訪れるわけではない。


 ここで右往左往している暇があったら、カサンドラの行方を探さなくては。

 彼女は自分達を助けてくれたのだ、と思う。


 あの時消えゆくはずだったこの世界を留め、逆行を止めてくれたのは彼女なのだろうと思う。




 『兄様を助けて!』




 自分がそう願った果てに、彼女は別の世界からアーサーを救うために喚ばれて現れた。

 どうしようもないどん詰まりで希望のない世界、何度も聖女に倒される兄を見るのが嫌で。

 そんな世界を見続けるしか出来ない自分が情けなくって。


 自分が未来を変えることができないなら、誰かに救って欲しかった。


 自分が助けを求めたらしい”彼女”は、普通の女の子。

 彼女が自分の今まで見てきたカサンドラではないと確信が持てるまで時間がかかった、ちょっと価値観が変化したかな? 程度のお姉さん。


 とてもアレクが望んだように神に与えられた偉大な力で状況を打破していくような存在ではなかったけれど。

 この一年、カサンドラの存在に自分がどれだけ励まされ、救われてきたのか――彼女は知ることはないだろう。





 重苦しい沈黙を裂くように、バタバタと慌ただしく隣の部屋の扉が開く音が聴こえた。

 静まり返った部屋の中、靴音が妙にくっきりと耳に訴えてくる。







  「――…キャシー!」




 扉を開けると同時に、飛び込んできた人物にアレクは息を呑んだ。

 あの斃された悪魔の依り代が兄ではないとさんざん聞かされていたが、無事な姿を見てようやく実感が湧いた。


 アーサーは聖女に倒されるという物語から、ようやく解放されたのである。

 何度目かは分からない、繰り返しの果てに自分達はその未来に辿り着くことが出来た。


 だが彼はとても命を救われ希望に溢れたとは思えない、鬼気迫る表情で部屋の中に圧し入って来たのだ。

 カサンドラの名を呼ぶが、当然それに応える者はこの部屋にはいなかった。



「アーサー、お前も無事だったか」


 まさかここに父王がいるとは思っていなかったのか、アーサーは僅かに動揺した様子を見せた。

 が、アーサーは父に食って掛かるように詰め寄る。

 切羽詰まった様子は、彼の焦りをそのまま示していた。


 こんなにあからさまに動揺している息子を見るのは初めてだったのか、国王は表情を強張らせた。



「陛下、私の事はどうでもいいのです。

 ……ここにキャシーが、カサンドラ嬢が休んでいると聞いています。

 彼女は、何処へ?


 ……アレク、キャシーは一体どうなってしまったんだ?」




 今にも掴みかかりそうな勢いの兄を見ていると、彼女の消失がやたらとリアルに感じられる。

 どこかにいるんじゃないか、という淡い期待を打ち砕かれていく気がして――頭が壊れそうだ。




「ここにいないとしたら、学園内のどこかに?

 いや、でもそんな様子は無かった……


 第一、あのキャシーの幻は、本当に幻だったのか……?」


 アーサーは俯き、ぶつぶつとそう早口で呟き続ける。

 彼もまた、あの光景を見た直後で混乱状態にあるのかもしれない。



「アレク、君は知っているのか?

 彼女がどうなってしまったのか。

 ――お願いだから教えて欲しい」


 自分の命や世界の危機、逆行現象なんて、今の彼にとっては些末なことなのかもしれない。


 ただ一人の女性の姿がいない、その事実だけで頭が一杯のようだった。






「わか……りません!

 僕だって! 僕だって知りたいです!」






 悲鳴と同時に、嗚咽が漏れた。


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