03 : デイジー (Missing)
その日の夕刻、デイジーは王都に住む知人の家に招待されていた。
同じレンドール地方出身の女性だが、あまり面識は無い。
自分が王立学園の生徒でカサンドラのことを良く知っていることもあり、そのことをもっと聞きたがっている雰囲気を常に感じる。
彼女は先代エルマー子爵のお嬢さんで、中央の高官と結婚して長く王都に住んでいるのだとか。既に成人済みの子どもを持つ、有閑マダムとでも言うべき女性である。
ディナーに誘われた以上は断る理由もなく、馬車に乗ってお屋敷に向かっている道中のことであった。
車窓に掛かるカーテンを開け、ゆっくりと時を刻む街並みを眺めていたデイジー。
――――。
突然、空が真っ暗に変じた。
数秒前まで空は橙色の黄昏だったはずなのに、目瞬きをした僅かな隙に漆黒の闇に覆われたのだから吃驚して言葉を失う。
「え? ……な、何……?」
おろおろとその場で挙動不審になる。
わけがわからないなりに、現状はとてもおかしくて不穏な事態が迫っているのだと気づき動悸がする。
大きな衝撃音が聴こえた直後、ガクン、と馬車が大きく左右に揺れる。
濃いブラウンの長い髪が大きく乱れ、デイジーは背もたれで強かに肩を打ち付けた。鈍い音が狭い車内に響く。
それを痛いと感じている余裕もない。
馬車が思いっきり傾いているではないか。
デイジーは何とか扉を押し開き、外に顔を出し――ぎょっと青い目を丸くする。
馬車から這い出るように脱出し、場の光景を見て愕然としたのだ。
とても信じられない、数分前と全く異なる、見覚えのない景色が目の前に広がっていた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
デイジーの乗っていた馬車の前輪の片方が、ありえない形にひしゃげているのが分かった。
とてもこれ以上乗り続けることが出来ないのは明らかな惨状だ。
大きな煉瓦が飛んできて、車輪にぶつかってしまったようだ。
もしも窓ガラスを突き破っていたら、今頃自分の頭は……と、デイジーはぞっと背筋が寒くなった。
だが自分を気遣ってくれる御者も、この突拍子のない事態に激しく動転する。
「ああ、馬が……!」
空から降ってくる『黒い影』の群れに怯え、暴れる馬を何とかなだめようとする御者。
だが、街中は混乱を増し、皆羽の生えた魔物から少しでも遠ざかるよう走り出す。
誰かがパニックで駆けだした先に助けがあるのかと勘違いしたその他大勢の人々が、わぁっと追って駆けだしていく様はおよそ現実的ではない。
嘘でしょう?
悲鳴が聴こえ、建物が倒壊する音が聴こえる。
周囲は、闇が包む。
街灯の『光石』の弱弱しい光が、その闇を懸命に押しとどめているようでさえあった。
「………カサンドラ様は……」
この異常な事態に真っ先に脳裏に浮かんだのはカサンドラの姿である。
彼女の別邸に近い場所であることは分かっていたが、正気を失って走り出す人の波を横切ったり逆らうことはデイジーにはとても難しいことだ。
空を覆い尽くす黒い羽根。
――王城に聳え立つ巨大な双角の魔物……!?
必死の想いで、デイジーは記憶にあるレンドール別邸へ向かって駆けだしていた。
運動神経が良いわけでもない彼女にとって、馬車なら五分もかからず辿り着ける彼女の家まで辿り着くのはとても大変なことであった。
突然大きな瓦礫が上空から落ちてきて行く手を遮られた時は、本当に死んだと思ったほどだ。固く目を閉じたが、しりもちをついただけで済んだのは運が良かったとしか言えない。
何とか息せき切って駆けつけた彼女の屋敷の外壁の一部が、見るも無残に崩落している。
そしてカサンドラ達の名を叫びながら周囲を探し回っているメイドを見つけて、デイジーの足先が急速に冷えていく。
「あの! 失礼いたします、カサンドラ様はご無事ですか?」
カサンドラの名を懸命に叫び呼び続けるメイドの腕を掴んで、デイジーは必死の形相でそう問うた。
「それが……
カサンドラ様のお姿が見当たらないのです。
その、ナターシャさんやフェルナンドさんの姿も……
皆、混乱していて、何が何やらわからないのです!
……通学に使用している馬車があるか確認に来たのですが、そちらもこの有様で」
彼女が困惑し、外棟の建物を指差した。
本来厩舎と繋がり、馬車を待機させてあるはずの空間が何十年も経った後の襤褸家のように崩れ落ちているではないか。
いや、良く見ればこの建物だけではない。
広大な屋敷内、東の一角が完全に潰れ崩れ落ちてしまっている!
太い円柱だけが辛うじて残っている有様だ。
唖然とする他ない、一体どんな群れの規模で襲撃を受けたと言うのか。
「先ほど魔物が襲ってきたのを、兵の方々が追い払ってくれたのですが……
もう……分かりません! 何をすればいいんでしょう、どこに逃げればいいんですか?」
魔物は尋常ならざる力で暴れ回ったのだろう。
そこには魔物の死体だけではなく、傷つき蹲る人の姿まで!
思わず口を手で覆い、恐怖に震えた。
「カサンドラ様は、アレク様は、どちらにいらっしゃるのでしょう」
わぁぁ、とメイドは顔を覆って泣き叫ぶ。
彼女を宥めながらもう少し詳しく話を聞いてみたが、どうやらカサンドラは今日、屋敷に帰宅していないらしい。邸内が少し慌ただしかったので、何かトラブルがあったのかも知れないが――よく分からないと彼女は俯いた。
詳細を知っているはずのメイド長や家政が姿を見せず、もしかしたら皆建物の崩落に巻き込まれたのではないか、と。
こんな状況で、カサンドラの所在が分からないということにデイジーは大きな衝撃を受ける。
まだ学園に残っているのかも知れない……
いや、トラブルに巻き込まれたとしたら学園外の可能性も高い……?
淡い期待を抱き、デイジーはスカートの裾を翻して走って来た道を戻ろうとした。
しかし行こうとした先で大勢の悲鳴や何かを殴打する陰惨な音が響き、とてもその道を突っ切る自信は無かった。
非力な自分があの魔物と一対一で出くわすなんてことがあったら、腕の一本くらい簡単にもがれてしまうだろう。
仮にカサンドラを見つけることが出来たとしても、守ることはできない。
盾にもなれないだろう。
「……誰か、誰か……助けてくれる人を探さないと」
デイジーは物陰に隠れ、遥か上空を漂う黒い魔物達を見上げる。
ただ力の強い男性というだけでは、魔物に対して本当に無力だ。
何人かで徒党を組んで一体の魔物を押しとどめることが出来るかどうか、それでも子供達を逃がすだけで精一杯。
不安で怖くて、どうしようもなく足が竦む。
そんなデイジーの視界の端に、パアッと赤い光が弾けた。見間違いかと目を凝らしたが、断続的に魔物を焼く
魔法を使って魔物達を退治している集団、恐らくは騎士がそこにいるのだろう、とデイジーは咄嗟に理解した。
彼らが戦っているということは、当然この近辺の比ではなく魔物の物量も多いはず。
しかし自分一人ではカサンドラを助けるどころか、探し出す事さえ不可能に近い。
助力を乞おうとも、自分の命さえどうなるか分からない
だが騎士達なら、きっと――カサンドラの安否を気遣い、助けてくれるはずだ。
だって彼女は未来の王妃なのだから。
何を差し置いても探し出してくれるに違いない。
デイジーは決死の覚悟で、魔法弾が上空に飛び交う方向に向かって駆けだした。
こんなに走ったことが今までの人生であっただろうか。
よろめき、人や物にぶつかりながら駆けずっていた。
カサンドラが無事か、どこにいるか、それだけしか頭に無かった。
デイジーにとって、カサンドラは『特別』な人になっていたのだ、と。
縺れる足を前に踏み出しながら思い出す。
学園に入学するまでは、彼女の取り巻き、側近として彼女の役に立てるよう努めなさいと言われて心の底から憂鬱だった。
現状を見ればそうするしかないと分かっていても、到底乗り気になれるわけがなかった。
彼女のことはどうしても好きになれなかったし、こんな女性が婚約者なんて王子はきっとがっかりするだろうな、とも思ったものだ。
それを言動に出したことはないが、口さがなく彼女を悪く言ったことがないだけだ。心の中では、そんな風評に頷くことしか出来なかった。
一緒に学園生活を過ごしたこの一年余り、その認識は今では大きく違えている。
彼女はすっかり変わってしまっていたし、想像していたような事態は何一つ起こらなかった。
取り巻きになるどころか、彼女自身がそれを善しとしなかった。
もしかしたら、デイジーを周囲の視線から逸らすよう逃がしてくれていたのかもしれない。矢面に立たずに済むように。
代わりにカサンドラは、いつも一人で大勢の視線に晒されていたと思う。
デイジーは彼女の事を尊敬している。
彼女がここまで”今まで”を改めて変化する事が出来たのは、全て王子のためなのだろうと思い至ったからだ。
カサンドラはどこからどう見ても王子の事が好きなようで、婚約者同士というよりは恋する乙女状態。
余程彼の事が好きなのだろうな、という想いが伝わってくるようだった。
二人の関係性がちっとも進んでいないように見えてヤキモキしていたし、親密とは言えない双方のやりとりはデイジーを常にハラハラさせていた。
――好きな人のためにここまで自分を変えることが出来るなんて、凄い人だ。
実際に王子はパーフェクトな完璧超人としか表現できない、煌めく一番星のような存在である。
彼に選ばれる事を国中の女性が望んだとしても、彼の配偶者として隣に並び立つのはさぞや大変なことで、プレッシャーも大きいだろうなと思わざるを得ない。
生半可なお嬢様では彼に庇護してもらえる対象にはなれても、隣に”立つ”のは難しいだろうな、と。
今までの自分の評判が彼の足を引っ張ることになると思ったのだろう、カサンドラは変わった。
誰かの力を借りるでもなく、彼女は思い描く理想の王妃像に少しでも近づけるように振る舞うようになった。
視線の先に、常に王子の事を置きながら。
そんな彼女を同じ教室からじーーっと観察し続けて一年以上。
彼女の健気な姿を見ていたら、王妃候補だからどうだ、レンドール地方の発展だ、権力基盤だなんだ、という最初の使命感はいつの間にか消失していた。
応援せずにはいられない……!
王子が何を考えているのか、ただの地方貴族に推し量ることは到底出来ない。
傍から見ているデイジーには彼の態度がもどかしくてしょうがなかった。
常にニコニコ優しいけれども、果たしてカサンドラの事をどう思っているの!? と。
出来る事なら胸倉を掴んで揺さぶりたいくらいには、気になって気になってしょうがなかった。
いや、そんな事は想像でもしてはいけないと分かっているけれど。
以前のカサンドラを知っているから、余計に彼女が王子のためにと過ごす一途な日々を外野から眺めていると消化不良感だけが残ってしまう。
彼女の学園生活の評価において足を引っ張る”前評判”がでたらめだ、嘘だと言ってフォローできれば良かったのだろうけど。事実は事実、それを知っている人も多いわけで。
彼女は誇張ではなく、型に填まった高慢で傲慢、人を見下していともたやすく命令を下せるようなお姫様だったのだから。
美人なのにどこか意地悪そうな雰囲気を纏う容姿もその噂の補強に一役買った。
意地の悪い先輩女子達から『親の
枕を涙で濡らさんばかりに悔しがったものである。
彼女はとにかく、寛容で忍耐強い人だと感心している。
どんな事を言われても気にせずスルーし、逆に相手を気遣うようなこともある。
常に誰かと行動を共にし一人で何も出来ないお嬢様でもなく、ちゃんと自分の意志で行動できる芯の強さも持っている。
生来のプライドは山のように高いはずだが、侮られるような事態に遭遇しても常に平常心。品位を落とすようなことはしなかった。
とにかく人間関係に気を配り、周囲と軋轢を生じさせないようにずっと立ち回っていたように思う。
他人を拒絶することなく、話しかけられれば誰とでも――それこそ平民貴族問わず自然な会話が出来る彼女の姿はとても頼もしかった。
そしてデイジーのことも気に掛けて、頻繁にお茶会に誘ってくれたものだ。
周囲に大っぴらにせずとも、常に彼女はデイジーを特別扱いして接してくれたのだ。
自分の事を友達だと言ってくれたカサンドラの役に立ちたい。
何とか彼女が誰からも、いや、王子からも完全に受け入れられ認められる王妃様になって欲しい……!
それがこの学園生活を通して見ていた、デイジーの大きな夢であった。
『おはよう、キャシー!』
学年が変わったあの日、王子の嬉しそうな声を忘れることはないだろう。
彼女の想いがようやく正面から受け入れられたのだと思うと嬉しかった。
自分のことでもここまで喜ばないんじゃないかというくらい、喜んだし大興奮したものだ。
陰ながら応援している人の喜ぶ姿を見る幸せを知ってしまったデイジーである。
王子と睦まじい様子でも相変わらず終始控えめなカサンドラ。
廊下で王子と話をする彼女を見る度にニヤニヤしていた事を、カサンドラは知らないままだろう。
出来る事なら、卒業まで――いや、その後もずっとその姿を見ていたかった。
折角彼女の想いが実ったというのに、いきなり現実が変容した。
未来が見えなくなり、突然この場だけ戦禍に巻き込まれたような様になっていることに絶望しか覚えない。
もしも彼女の身に何かあったらどうしよう。
家さえ簡単に崩れ落ちるような威力の衝撃波が、街中いたるところを襲っていく。
逃げ場がなく、直撃した人達のことを考えると涙が零れてくる。
※
誰でもいい!
カサンドラ様を、一緒に探して!
景観が良く、デートスポットとしても広く市民に使われる中央広場。
騒乱の限りを尽くす交戦が繰り広げられ、本当に夢ではないのかと呆然と立ち尽くす。
赤髪の青年が、剣を凪ぐ姿が目に入る。
ああ、と声が漏れた。
知っている人影を見つけ辛うじて幹が残っている樹の影に駆け込んだ。
「カサンドラ様が! ご自宅におられなかったのです!
ジェイク様!」
あらん限りの力を振り絞り、デイジーは声を張り上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます