02 : ライナス (Fanatic)


 自分の『兄』は、とても怖い人だと昔から思っていた。


 不愛想で、剣の腕も自分が敵うことのない程優れており、子どもの頃から自他ともに厳しく、鉄拳制裁が多々あったことが強く印象に残っている。


 そして将軍であるダグラスに仕える姿も、昔から変わらない。


 もしもダグラス個人を崇める宗教が存在していたとするならば、彼は狂信者と呼ぶにふさわしいと常々思っていたくらいだ。


 ライナスの出身であるローレル家は元々男爵位だったが、兄のバルガスが家を継いで間もなく子爵家に陞爵しょうしゃくされるという栄誉を冠した。

 爵位は国王が定め与えるものであるが、ダグラスの一存が大きく入っていたことは自分の目から見ても明らかだ。


 今も昔も、彼は常にダグラスのために粉骨砕身し誠心誠意仕える、まさに家臣の鑑であった。


 そのような主君に絶対服従する厳格な兄の姿を目の当たりにして来た弟のフランツは、空気に馴染めず家を飛び出して傭兵稼業に身をやつしたことがあるくらいだ。


 流石にローレルの血を汲む彼が奔放な真似を繰り返すことを兄は容認しなかったけれども。

 まさに草の根を分けて探しあて力づくで連れ戻し、無理矢理嫁をあてがおうとしたことが思い出される。


 幸い弟は好いた女性と結婚することができたようだが、逆にそれが首根っこを兄バルガスに掴まれているようなものかもしれない。

 バルガスを怒らせたら幸せな一家庭などあっという間に木っ端みじんである。


 ぶつぶつと文句を言いながらもロンバルド家の兵士指導役におさまり、絶対嫌がるだろう学園の剣術講師まで引き受けさせられたことからもよく分かる。



 自分にとっても、フランツにとっても近寄りがたい兄。


 そんなバルガスが、数日前珍しく自分を屋敷に招待してくれた。

 大変珍しい事態だったが、彼も理由なく人に斬りかかったり罵倒するような人間ではない。

 ごく普通の兄弟として語り合う席を用意してもらったようなものだ。


 食事の席ではバルガスも最初の内は機嫌が悪くなかったように記憶している。




「それで、ジェイクが何やら変な宣言をしたと耳に挟んだが?」


 ひえっ、と。喉の奥が縮み上がる。

 弟子の――いや、目付対象の不始末、監督不行き届きを糾弾されるのかと生きた心地がしなかった。



「あー……

 そうだなー」


 ライナスはワイングラスを片手にだらだらと冷や汗を流す。



 自分達が揃って話す共通の人物の話題と言えば、ジェイクが一番多いだろう。

 特に学園生活で彼がどうしているのか、という話を時折バルガスは聞きたがった。

 根掘り葉掘り聞かれるので、自分の目付け役としての姿勢を責められているようにも感じたものだ。


 面倒で屋敷に足が遠のき、誘いを断ったこともある。

 しかしそんな自分に業を煮やし、全く予告なく学園に直接やって来るという荒行をやってのけたバルガス。

 二度と学園に立ち寄って欲しくない、と。

 今回は招待に応じたわけだ。


 ジェイクに悪い虫でもついたのかということを確認したいようだが、大変話し辛い内容である。

 しかしながらこの場で自分が誤魔化したところで、既に学園中は騒ぎになっているのだ。



 ライナスは――自分はここに噂の真偽確認に呼び出されたのだと、悟った。

 


「いやー、ははは。

 ジェイクが何やらとんでもないことを言い出したって言うのは聞いた!

 庶民を嫁にするとか、ははは。

 まぁ……その、ほら、あれだ!

 兄貴、そうガキの惚れた腫れただの青臭い話なんざ気にしないでくれ!

 あいつだってその内現実って奴が見えるようになるからさ」



 ジェイクが教え子の一人――あのリゼという少女を好きなのだと言うことは、もはや公然の事実として周囲の誰もが既に分かっていた事である。

 だが、いきなり教室の中で彼女を嫁にする宣言をしたと聞いた時は眩暈に襲われフラッとしたものだ。



 事実か否かと本人に聞いても、『あいつ以外絶対嫁にしねぇ』と聞く耳持たず。

 遅れてきた反抗期のような事を言うものだから、一体どうしたものかと頭を悩ませていたのだ。


 なんだかんだで周囲の希望には文句を言いつつも逆らわなかった彼が一切の説得を受け付けない。

 そんな事実にライナスの胃に穴が空く寸前だ。






  いや、知ってた。

  お前が彼女の事を好きなのは、よーく知ってた。

  十何年来の付き合いだと思ってるんだ、馬鹿が。

  だが、彼女の身を慮って自分を抑えていたんじゃなかったのかオノレは!

 




 そんな雷を落としたい気持ちにかられたくらいだ。


 彼が好きだと宣言したリゼ、彼女のひととなりは良く知っている。

 フランツも滅茶苦茶気に入って可愛がっている、努力と根性の申し子。


 しかしロンバルド家の進退に関わる事、それをバルガスが快く容認するはずもない。


 これは一時の気の迷いなのだと気を宥めなければならない、とライナスも必至である。


「そうか。

 事実か、あいつが……ねぇ」


「へ? あ、そ、そうか?

 兄貴の事だから無理矢理……遠ざけでもするのかと」


「ふん。女一人あてがっておけば満足するなら、好きにさせておけ」


 下手に遊び歩かれるよりはマシだろう、とバルガスは左程気にした様子も無かった。

 意外だ……。

 甚だ、意外だ……。


 兄はこんなに寛容な人間だったか?




 ここで無理矢理好いた相手と引き離すのは得策ではないことは、彼も承知しているのだろうとホッとした。

 若さゆえ、どうしてもその場の勢いで間違った選択肢を選んでしまうことはあるだろう。

 好きだと言う気持ちが抑えられないこともあるかもしれない。反対すればするほど燃え上がる、例のアレ。


 人生で最も意固地で多感な時期に大人の価値観を押し付けてしまえば、丸く収まるものも収まらなくなる。

 

 少なくとも、手に手を取って駆け落ちされるよりは、多少目こぼしして情熱が下火に落ち着くのを待つべきだ。

 意外にもバルガスが自分と似たような考えの持ち主であることに驚いた。


 下手に方々を遊び歩くより、確かにマシかもしれない。


 だが今のジェイクの熱量を考えれば、落ち着くのは一体いつになることやら。

 我慢していた期間も長い。


 はぁ……。

 愛人で囲うのでさえ関わらせたくないというのに、正妻にするのは本当に勘弁していただきたい。

 リゼの事が気に入らないわけではなく、むしろ逆だ。


 ロンバルド家の今の事情を知って、自ら関わりたいなんて言う女性が果たしているのだろうか。


 相手を不幸にしかねない選択を彼がしてしまった、ということにも驚きを禁じ得ない。





 豪勢な食事が並ぶ大きなテーブルの上。

 中央に立つ燭台の明かりが、ゆらゆらと揺らめいている。

 


「もう一つ、お前に聞きたいことがある」


「何だよ、改まって」


 ぐいっと、赤いワインを喉に流し込む。

 彼の切れ長の鋭い目に見据えられると、この歳になっても怖く思ってしまう自分が嫌だ。

 三つ子の魂何とやら、か。





「王子の婚約者――あのレンドールの娘の事だ」




 ドキッとした。


「……彼女が何か?」


 今まで殆ど会話に出てきた事のない女子生徒の出現に、息を呑む。

 彼女を嫌っていることを知っているので、率先して話題に挙げたくないと言うか。


「彼女に、何らかの瑕疵はないのか。

 些細な事でも良い。

 学園から追い出せるようなネタの一つでもないものか」


 問われるまで全く考えた事の無かった話に、ライナスは切り返しに困って言い淀む。

 兄が真剣に眉間に皺を寄せて考えている現象に、背筋が凍える。


「俺はその婚約者さんを実際に見た機会は殆どないから、何とも。

 ただ……

 蹴落とせる隙があるかと聞かれれば、無い……んじゃないか。

 全く話にならないと思う。


 前評判とは打って変わって、周囲の評価はすこぶる高いらしいし。

 ……俺の受け持ってる講義じゃ、少なくとも悪く言う奴はいない。

 ま、生粋のお嬢様とあいつらじゃ、接点もないだろうから正確なことは分からんよ」


 ははは、と無理に明るく笑った。

 実際は接点が無いどころか、密かに憧れを抱いている生徒も少なくない。


 ――高嶺の花どころか、断崖絶壁の岩肌に咲く一輪の花。



 美人だから男子生徒に人気があるのかと言われれば、それだけではない。


 彼女の友人であるリゼは言うに及ばないが、ジェシカも彼女の事は何故か一目置いているようだし。一時いっときはカサンドラをジェイクの嫁にできないものかと大変な勢いで食って掛かってきたくらいだ。



 ロンバルド派に属する人間として、バルガスが地方貴族のカサンドラのことを良く思っていないのは理解しているつもりだ。

 下手に大きく力をつけた地方貴族を彼は殊の外嫌っている。


 王子を篭絡したレンドール家が中枢に割り込んでくることを警戒している、それは政治的な話に疎い自分でも何となく感じていることだ。


 王子の嫁として相応しくない理由を挙げて、できれば早々に貴族社会からも追放したい――という思惑もあるのだろう。

 自分達にとって都合の良くない妃が立つのは歓迎しないはず。


 だが生憎、カサンドラを陥れるのは冤罪でも吹っ掛けないとまず無理だと思う。

 その冤罪さえ、誰も信じないだろうし庇う人間の方が多いはずだ。


 バルガスの前で、敵対陣営の令嬢のことを殊更褒めるような事は言えないけれども。


 自分の受け持っている生徒達がカサンドラの事を憧憬の眼差しで見ているのは知っていた。

 将来の王妃――要は騎士団に入って守るべき対象が嫌な人間でなかったことに安堵している。

 最初は非難ばかりだったはずなのに、ジェイクが普通に彼女と仲が良いことも大きいのだろうか。


 ジェイクだけではなく、シリウスとラルフとも普通に親しくしているのは他の生徒にとっては結構衝撃的な話だと思う。

 馴れ馴れしいという意味で親しいわけではなく、明確な距離を保った上で目立った衝突もなく。程々に付き合っている。


 また、彼女のせいかどうかは知らないけれど、険悪で一触即発としか言えなかった女生徒陣の空気も随分変わったという。カサンドラが上手く取り持っているようだ、と風の噂で聞いた。

 まぁ、女子の世界はよく分からない。


 取り立ててカサンドラが大きな事を実行したというわけではないのに、彼女は王子の婚約者という立場以外の側面でも頼られているとも。


 

 取り巻きを引き連れているわけでもない、どちらかというと孤高というタイプだろうか。

 しかし孤立とは正反対、多くに慕われている――らしい。


 平民である特待生とも仲が良く、商人や地方貴族の娘とも気兼ねなく接する反面、有力貴族の娘を蔑ろにするような事もない。逆に相手を立てるような人物である。

 自分の立場を翳して相手を威圧し味方を増やすようなやり方をするようなら、それに乗じた悪評を広めるのも難しくはないのだろうけど。


 良い意味で近寄りがたい。


 彼女なりに複雑な立場を理解しているのだろう、とライナスは想像する。

 王子の婚約者としての品位を保つよう心掛けつつ、必要以上に周囲に迎合することもなく敵を作らない立ち回り。

 本人は王子に対して大変一途な性質タチだと聞くし、男性問題をでっちあげることも無理だろう。

 どういう方向から突っつこうとしても非難に値する要素が出てこない。


 仮に冤罪を仕掛けても、大勢がそれを疑い彼女の無罪を主張するだろう。


 最初は我儘で高慢で鼻持ちならない勘違いした田舎貴族の娘だと、周囲も彼女の存在を疎み、侮っていたはずだ。

 

 その事前の噂さえ、何かの陰謀ではないかとささやかれる程度には十分信用されていると思う。

 


 だから――いくらバルガスが策を弄しようとしても、彼女の学園での立場を脅かし追い出すなど実現困難な事だと思えた。

 何せ次期当主予定のジェイク本人が、カサンドラのことを王子の婚約者であることを完全に容認しているのだ。


 もはや協調路線以外採りようがない状況ではあるまいか。


 折角皆奇跡的に上手く歯車がかみ合っているのだからこのままそっとしておいてやって欲しい、と自分なんかはそう思う。


 兄に不穏なことを考えて欲しくない、とライナスは思う。


 尤も、自分の進言を真面目に聞いてくれるようなバルガスではない、逆効果かもしれないから黙るしかないけれど。

 どういう未来が自分達ロンバルドにとって都合が良いのかだけを、彼は考えている――そんな彼の内心は、もはや自分には想像もしたくなかった。



 リゼのことと言い、王子の婚約者殿の事と言い。

 ただ学園で剣術指導を行うだけの講師役を引き受けただけのはずなのに、まさかこんな胃を痛める事態に遭遇するとは思わなかった。


 一番弟子のジェイクが入学するからと二つ返事で引き受けたのが良くなかったのか。

 ……まぁ、それ以上に目付け役としてジェイクの暴走を許してしまった自分には、何も言う権利はないかもしれない。




 元々、兄と会話が弾むなんて経験はない。

 しかしあまり自分にとって聞きたくない、不安を煽るような会話ばかりというのも夕食が不味くなる一方である。


「お、兄貴。

 その飾りボタン結構派手だけど、そういう趣味だっけ?」


 質実剛健を地で行くバルガスにしては、袖口に留まる金の飾りボタンは珍しく思えた。


「ああ、これか。

 ……別に趣味ではないが……変なところに目をつけるな」


 奥方もしくは娘からの贈り物か、選んでもらったものか、と彼の反応から推測する。

 あまり家族というイメージの縁遠い兄だが、趣味でないものを普段使いにする程度には気に掛けている。人間らしさがあることにホッとした。



 四十路に近いオッサンが身に着けるには、少々目立つ大きなボタンだ。



 良く見ればローレル家の紋章が刻まれている。


 炎を象るシンプルな模様はライナスも気に入っていた。

 今は兄に代替わりしたので、その紋章を使う機会は自分にないのだけれど。





 



 ※









 ――眼前には、血まみれで横たわっている一人の女性。




 ザァッと、全身から血の気が引いた。

 彼女の指の間から見える飾りボタンは、つい最近見たことがある。



 そして交わした会話が思い起こされ、自然と全身が打ち震えた。



 まさか。



 まさか………




 この女性ひとをこんな目に遭わせたのは……



 

 確かに兄はどこか行き過ぎた忠誠心を持つ人間だったと思う。

 ロンバルド家にとって面倒で厄介な問題も兄が陰に日向に動いて来た。彼はロンバルドの”暗部”そのものだったのかもしれない。


 仕える主のためと言えば、どんなことだって喜んで実行するだろう。




 だが、だからと言って……



 こんなことを、していいはずがない。



 今すぐにでも、彼女が手に持つボタンを掴み取って兄の姿を探しに行きたい。

 そして突きつけ、糾弾したい。





 だがしかし、状況がそれを許さない。


 何の前触れもなく、突然巨大な魔物が出現し、混乱を極める現状では自分の役目を放り投げて駆け出す事など許されない。







「兄は……兄は、何と言うことを……」






 口元を厚い掌で覆い、ライナスは呆然と立ち尽くす。










    一体、王子に何と報告すればよいのか。



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