空白の二年 ―彼女が消えた世界―

四季こよみ

<外伝>空白の二年 ―彼女が消えた世界―

01 : アレク (Sleeping Sister)





 金色の淡い光に包まれた彼女が、真っ白な世界の中自分の前に歩み出る。

 ゆっくりと両のかいなを見えぬ何者かに向かって掲げたカサンドラ。彼女の後姿に手を伸ばそうとした。


 だけど自分の手は指先さえもピクリとも動かない。


 上下左右、全く感覚のない世界に漂う自分。

 だけどその虚無としか表現のしようのないだだっ広い世界の中で、彼女は確かに光り輝いていた。


 はっきりとしないぼやけた輪郭だったが、あれは間違いなくカサンドラだ。


 色が戻って行く景色の中に溶けだすように、彼女の存在がすうっと薄くなる。











     あの日彼女カサンドラは、この世界から消えた。


     たくさんのものを残して。













    ――――――――――――――――――――――――――――




         空白の二年 / 彼女が消えた日 



              悪役令嬢の運命打破論。 外伝



    ――――――――――――――――――-----------------...........










 突然、王城に聳え立つ巨大な黒い双角の影に、アレクは嘗てない絶望を感じて顔を青く染めていた。

 今まで『悪魔』を実際に遠目で見たことは幾度もある。

 何度も何度も、あれが兄の変わり果てた姿なのだと後に聞かされ、一体何回「違う!」とかぶりを振ったことだろうか。


 そんな空虚な記憶が脳内を過ぎり、顔を覆った。


 リゼにカサンドラが休んでいる場所を教わり、生徒会室へ向かう。


 カサンドラに学園で起こった沢山の話を聞いていたから、とても身近に感じていた場所である。

 実際に自分がそこに足を運ぶことになるとは思わなかった。

 学生としての立場ではなく、倒れた姉の様子を見に行くために――

 しかも、間近には破滅の象徴が猛威を振るい、世界を暗黒に染めているのだから。


 全く生きた心地がせず、よろめくあしどりで運動場を越えて真っ直ぐ歩く。


 何がなんだか分からない、という混乱に頭が真っ白状態で何も思いつかないアレク。

 一際豪華な造りの入り口の扉を開き、広い生徒会室の内扉をノックもせず開いた。



「……姉上……」



 声は掠れ、震えていた。

 ソファの上に横たわっているカサンドラの存在に少しだけホッと安堵した、が。

 元々綺麗な白い肌の彼女だが、今はまさに血の気が失われているとしか言えない、真っ白な顔に愕然として駆け寄った。


「アレク様」


 そんな自分の顔と同じように青い顔のリナと視線が合う。

 互いに、僅かな間交叉させた視線は言葉にならない感情を全て伝え合うことが出来たのだと思う。


 窓の外で暴れる黒い巨大な影、そして空を覆い尽くす闇の帳。

 上空から延々と産み落とされる魔物達、街が壊れていく音と混乱を極める怒号、悲鳴。


 何度も何度も繰り返してきたことだから分かる、絶望。

 虚脱感にアレクは感情の無い虚ろな目のまま、俯いた。



「私……行かないと………」



 そうぽつりと呟いて部屋を出ていくリナは、何て強いのだろうかとアレクは固く目を閉じた。

 世界がこうなってしまった以上、どのみち自分達に未来なんか無い。

 それは彼女もよく分かっているはずだ。


 どうせ世界が”巻き戻る”と分かっていて、理解していて、それでもこの惨状を食い止めるために足を向ける彼女の心は本当に強いと思った。

 普通の女の子だったら、この現実に堪えられずにずっと頭を抱えて蹲っているだけかもしれない。


 良い方向に皆が進んでいると思っていたから、余計に落差が激しい。

 いきなり全ての過程も時間もすっ飛ばして、この現象が起こるなんて……




「姉上」



 物言わず静かに横たわる彼女の手を両手で握りしめ、アレクは縋るように跪く。

 足の長い柔らかい絨毯に膝を立て、唇を噛み締めた。



「何が……何が、いけなかったんでしょうか。

 どうして僕達は、兄様を助けられなかったのですか?」



 カサンドラの反応は無い。

 まるで死んでいるように動かない彼女の顔に不安に襲われる。

 じっとカサンドラの寝顔を見つめるアレク。


 美人ではあるが性格がキツそうとしか思えない、派手な外見のお嬢様のはずの姉だが――

 意識を失って寝ている時の彼女の顔は、ただただ綺麗だな、としか言いようがない。顔色の蒼白さを除けば、流れる金の髪、長い睫毛、桜色の薄い唇、それら全ての印象を合わせ、美しいと思う。


 顔から視線を下ろすと、彼女のお腹の上に誰かの制服のブレザーが覆いかぶさっていることに気づいた。

 横になっている姉は普通にブレザーを着たままなので、他人のものであることは間違いない。恐らく三つ子の誰かの制服を掛けてもらっているのだろう。


 そう言えば、着替えを馬車の中に置いて来てしまった。

 全く頭の中から飛んでいたことに、自分の慌てぶりが出ているようで苦笑しか浮かばない。


 ……何だか全てに現実感が無く、まだ悪夢を見ているようだ。

 もう一度目を開けたら、いつも通りの日常が広がっている――そんな希望は当然実現することなく、昏睡状態のカサンドラが視界に広がるだけだ。



「……え? 血……?」



 カサンドラの白い制服の端に、赤黒い汚れがついている。

 慌てて彼女に掛けられたブレザーを剥ぐと――腹周りに多量の血が流れた跡がある。


 既に乾いてしまっているけれど、間違いない。

 本来真っ白いはずのブレザーを摘まみ、裾を持ち上げる。

 ずしりと重たい多量の血液が流れた痕跡に、アレクは全身を震わせた。


「姉上、申し訳ありません。

 失礼します」


 これだけの血を流すということは、一体どんな深い傷を負わされたのだ!?

 アレクは我慢できず、衝動的に彼女の血まみれのブラウスを掴む。若干の躊躇いを無視し、そこにあるだろう大きな傷口を想定していたアレクだったが。


 不思議な事に、カサンドラの腹は全くの無傷状態だ。

 逆にブラウスに染みこんだ血液が肌に付着しているだけという不思議な現象が起こっていることに、アレクは怪訝顔になる。


 カサンドラが意識を失ったままなのは、これだけ多量の出血をしたからだろうとは予測できる。

 三つ子達が着替えを持って来て欲しいと依頼してきた以上、彼女達はカサンドラが血まみれだったことは分かっていたはず。


 普段の状況であればとてもできたことではないが、恐る恐るカサンドラの臍周りに指先で触れる。

 温かいぬくもりが伝わってくることに安堵しつつ、どこも異常が無いか血の塊、付いた粉を払うようにして確認した。


 全く綺麗な、傷一つ見当たらない白い肌……?

 


 だが――制服に、貫通の跡がある事に気づいて大きな動揺が走った。


 この血を多量に吸った制服を戻すのも気が引け、三つ子が掛けてくれたブレザーをそのまま腹の上に掛ける。



 殆ど論理的な思考が出来ない、半ば錯乱状態であった。




   なんだこれ!?




 だが目の前で死んだように眠るカサンドラを見ていると、自分もしっかりしなければという想いが湧いてくる。

 回らない頭を必死でアレクは動かした。


 この状況、恐らくカサンドラが何者かに刃物か何かで刺された事は間違いないことだと思う。

 穴の開いた制服、そして多量の血痕がそれを物語る。


 シリウスに忠告を受けていたというのに、それを未然に防げなかったことが悔しくいきどおろしい。



「だけど、おかしいな……」



 だが傷口一つ見当たらないことに、アレクは首を傾げざるを得なかった。



 傷一つない、滑らかできめ細かい肌は。

 まるで奇跡が起きて、治癒されたかのような……



 そこまで連想すれば、答えはすぐそこだ。

 きっとカサンドラはシリウスが言っていた癒しの力で助かったのだろうと当たりがついた。失った手足を元通りに治すことができる力なら、臓器にまで達した刺し傷くらい癒すことが出来るのかもしれない。


 どう考えても死を免れない惨状を綴る痕跡、しかし傷一つない綺麗な体。

 他に説明がつかない。

 少なくとも、刃物が刺さったような切り口が残っているのだから貫かれたのは事実のはず。


 ……癒しの力は、聖女の力……。





 そしてリゼの顔、リナの様子を思い出す。


 彼女の内の誰か、もしくは複数がカサンドラを『聖女』の力で命を助けてくれたのか。つまり、目覚めてはいけない力に目覚めてしまった。


 『聖女』覚醒という条件が満たされた結果、悪魔が封印を解かれて復活した。


 インターバルの短さにこそ違和感を抱くが、流れとしては今までの仮定と矛盾しない。

 予想外だったのは、愛する人が恋人ではなく大切な友人だったとしても力が目覚めてしまうことだ。


 愛……か。

 友情もまた、広義な意味ではそれに含まれるのだろう。


 そこまでカサンドラが三つ子に大切に想われていたことは嬉しいけれど、アレクは言葉を失う。

 それがきっかけで兄であるアーサーが悪魔になってしまったのだとしたら、何と皮肉なことであろうか。




 神様なるものが本当にいるなら、そいつに嘲笑われている気持ちだ。




 兄を助けるために今まで一生懸命だった彼女が、自ら危険に晒されたせいで三つ子を聖女へ目覚めさせてしまったのだから。

 もしもカサンドラが目を醒まして事実を知ったら、どれほど悲しみに暮れる事だろう。



 アレクは聖女が悪魔を倒せるかどうかについては、あまり不安に思っていない。

 かつてリナは、一人であの化け物に立ち向かって見事に打ち倒していたのだ。

 何度も、何度も……


 兄を斬り、殺した。


 だからこの先、悪魔が倒された後に残されたカサンドラの事を思うと、言いようのない深い哀しみに襲われるのだ。

 仮に世界が巻き戻らない方法が見つかったとしても、その世界に兄はいない。




 ……嫌だ。




 自分がしっかりしなければ、と自覚しているのにその気力が萎びていくのが分かる。

 助けて欲しかった人が今まで通り倒されてしまう未来は見たくなかった。


 明るい未来がすぐそこにあると大きく期待していたからこそ、落胆は激しい。

 立ち直れる自分が想像できない。


 やっと自分も、この世界の一員になれた気がしたのに。

 自分の声が皆に届いたのに。


 その結果がこれでは……




「姉上……どうしたらいいんですか、姉上……」




 アレクは彼女の体に縋りつき、何度も何度も力なく問うた。

 彼女はまだ、目覚めない。


 リゼが言うには、指先が動いていたし、目覚める兆候はあったようだが。



「ん……?」


 彼女の掌に、何かが握られていることに気づいた。

 誰かの、飾りボタン……? 男性のもののようだが、これは一体……?






 窓の外では、一層騒乱が激しくなり、真に迫って来る。

 外の騒ぎとは隔絶したように感じるのは、こうやってパニックに陥る世界は”慣れっこ”だからかもしれない。


 あの悪魔が兄の変化したものと考えられることに死にたくなるほど辛いけれど。

 実際に魔物が襲ってきても魔法を使えるアレクにとっては油断さえしなければ後れを取る相手ではない。

 カサンドラを後ろに庇いながら戦うことになるケースは初めてだが、この身に換えても守ると決めている。





 もしも窓ガラスを割って魔物が急襲して来ても、全て追い払わなければ。

 こうして姉の傍で身を案じ続けるしか出来ない、落ち込み嘆くしか出来ないよりも――

 そういう物理的な危機に身を置いた方が幾分マシだろうな、なんてアレクは自嘲した。






 徐々に学園内が騒々しくなってくる。

 魔物ではなく、人間達が恐怖に震えながら学園内に駆け込んできているようだと気づいた。





「失礼します、カサンドラ様、アレク様!

 こちらにおられますか!?」



 急に忙しなくなってきた学園内。

 大きな声が生徒会室の方から聴こえ、アレクは何とか正体を保って立ち上がる。



「――何でしょうか」



 まさか人間の声真似をする魔物がいるとは思えないが、ここまで来たら何でもありだ。

 この混乱に乗じて自分達を攻撃してくる人間がいないとも言い切れず、アレクは警戒を強めながら鋭い声でそう問うた。



「私はこの学園の剣術講師をしているライナスと言う者です。

 王子の指示を受け、こちらの安全を確認するために参りました」


「え!? に……じゃない、王子ですって!?

 ……王子がこちらにいるのですか!?」


 アレクはあまりの報せに完全に浮足立った。

 急いでサロン内から扉を開けると、真剣な眼差しでこちらの様子を伺う大柄の男性が立ちはだかる。


 その重量感のある精悍な体つき、どう見ても武芸に秀でた人間としか思えない油断ない視線の配り方。


 学園では選択講義で剣術を学べるのは勿論アレクも知っている。

 そして腕の立つ人間が招聘され、未来ある学生達に指導をするのだ、と。


 放課後、彼は学園内にいたか近くにいたのか。

 それは分からないが、本職の剣士が傍にいてくれるのは大変心強い。


 それに何より、王子……?

 聞き間違いでなければ、王子と言ったはずだ。


「はい。

 王子はシリウス様と共に、学園の結界を維持するために尽力しておいでです。

 魔道士達を呼び寄せ、この場所を市民達の避難誘導先にされるのだと」


「そ、そう……なんですか……」


 へなへなと腰が砕けそうになった。

 兄が生きている。


 ……生きている……!


 それだけで涙が零れ落ちそうになって、慌ててごしごしと目を擦る。


 絶望から希望へ変わった瞬間だ。



「王子はカサンドラ様がご無事でいらっしゃるか、大変心配されておられました。

 ……カサンドラ様はお休みですか?」


「まだ目を醒ましていません」



「心配ですね。

 何でも、突然体調不良で倒れてしまわれたとか……


 ですがシリウス様達が力添え下さる以上、恐らくこの場が王都で最も安全な場所になるでしょう。

 学園内にいらしたことは幸運なのかもしれませんね。

 どうか状況に変化がない間、お二人ともこの場に留まっていてください」



 ライナスは眉尻をさげ、サロン内に入ってくる。


 一定以上距離を保ち、ソファに横たわっているカサンドラの様子を確認した。


 すぐに表情が翳る。


「……血の匂い……?」


 本職だからこそ誤魔化せない事もある。

 彼は突然顔を顰め、カサンドラの傍に寄った。流石に触れることはしないが、かなり険しい表情で見下ろしていた。

 いくら固まっているとは言え相当な出血量だ、気づかれるのも無理もない。



「……アレク様。

 これは、一体……」



 彼が指をさしているのは、腹の上に置かれたカサンドラの手。


 指先が動き、少し緩んだ彼女の掌から見知らぬ飾りボタンが覗いている。

 先ほどアレクも気になったものだが、ライナスの顔色が変わったのは見て取れる。

 彼は食い入るように、じっとそれを凝視していた。

 カサンドラの指が邪魔で全貌は見えないが、それでも判別がつくには十分だったのだろう。




「ローレル家の……紋章? 何故そんなものをカサンドラ様が?」





 みるみる内に蒼褪めていくライナスの声は、完全に消え入った。

 逞しい体躯に似合わない声の様子は尋常ではない。



 このボタンの持ち主を彼は知っているのだろうか?








 しばらく互いに声を出せない。


 無機質な秒針の音が耳に障る。

 



 外の緊迫した空気、魔物達との闘い、行き交う怒号。


 それとは切り離された世界に放り出された心境だった。


 

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