カツ丼と夕暮れと

青海啓輔

第1話 カツ丼と夕暮れと

 僕は毎月、給料日には必ずカツ丼を食べ、ビールを飲む。

 これは僕にとって、ささやかながら一ヶ月を生き抜いたお祝いだ。

 端から見たら、ありふれた夕食に見えるだろうが、僕にとっては、このようにカツ丼を食べて、ビールを飲む時間は至福であり、また奇跡のような晩餐なのだ。


 その日、僕はビルの屋上にいた。

 高校を卒業して、安月給に耐えながらも、15年間働いてきた清掃会社が先月、倒産した。

 それから、再就職活動をしたが、ビルの清掃以外に職歴が無く、スキルも学歴もない35歳に近い男を採用してくれる会社は無かった。

 別に職種をえり好みすること無く、手当たり次第条件に合う会社に応募したが、ほとんどが書類選考で落とされ、まれに面接に進んでも最後はお決まりの、今後の活躍を祈念されて終わる。

 そんなことが繰り返されると、自分が世の中から必要とされていないことを思い知らされ、またわずかな貯金も底をつき、来月の家賃を支払う当ては全くない。

 このままだと、来月中にはアパートを追い出されるだろう。

 この世の中は、僕の僅かな居場所ですら、許してくれないのだ。


 僕は物心着いたときは、既に児童養護施設にいた。

 僕の一番最初の記憶は、暗闇と冷え冷えとした殺風景な部屋だ。

 実際にそういう部屋だったのかは知らない。

 だが、僕の記憶にあるのはそんな風景だった。

 僕は父親の顔も母親の顔も知らない。

 まさか自然発生したわけはないのだから、生物学的には父親と母親がいたのだろうが、赤ん坊の時に、児童養護施設の前に置かれていたそうで、手掛かりすら全くない。

 だから、僕にとって、実の親というのは、存在しないも同然だ。

 せめて明晰な頭脳か、運動神経、端麗な容姿のどれかが授けられればまだ良かったが、天はそのどれも僕には与えなかった。

 それどころか、僕はそのどれも周りの人よりも劣っていた。

 だから、僕は小学校、中学校といじめられるか、誰からも構われないかのどちらかで過ごし、高校はアルバイトをしながら通信制の高校を卒業した。

 僕には取り立てて何の能力も無かったが、愚直に学校に行くこと、課題をこなすこと、働くことだけはできた。

 だから、通信制の高校を卒業後に就職した清掃会社でも安月給に耐えながらも何とか働き続けることが出来た。

 だが、それさえも僕は失い、やがて僅かな居場所すらまもなく失おうとしている。

 街を流れる音楽は無責任だ。

 日々生きるだけで、精一杯の僕にとって、愛だの恋だの勇気だの未来だの頑張れだのというフレーズはかんに障る。

 いや、ちょっと違う。単にそういう歌を素直に良いと思える人たちが、羨ましいのだ。

 僕はなぜ僕は僕なんだろうといつも思う。

 僕以外の誰かに産まれたかった。

 例えば、街を歩く僕以外の誰かに。


 そして、唯一感触が良かった会社から、不採用の連絡が来た時。

 僕の中の何かが切れた。


 僕は財布の中に僅かに残っていた小銭をかき集めて、チェーン店のカツ丼を食べた。

 最後の晩餐だ。

 といってもお金が足りず、ハーフサイズしか買えなかったが。

 僕が児童養護施設にいた時、一番の楽しみは月1回に出るカツ丼だった。

 カツ丼を前にして、蓋を開ける瞬間。

 僕は何よりも幸福を感じた。

 そして卵と良く絡んだカツ。

 大体4切れか5切れくらいだが、僕はいつも時間をかけてゆっくりと食べた。

 少しでも長く味わいたいからだ。

 ハーフサイズは、カツが3切れしかなかった。

 カツが最後の一切れになった時、僕の目からは自然と涙が出た。

 最後の一切れは少しずつ時間をかけて食べた。

 この一切れをいつまでも食べ終わらなければいいのにと思った。

 だが、当たり前だが、すぐに無くなってしまった。

 いよいよだ。

 僕は覚悟を決めた。


 その日の夕方、僕はビルの屋上にいた。

 そのビルはかって清掃をしていたことがあり、ビルの構造をよく知っており、簡単に屋上にいくことが出来た。

 これまで人にはなるべく迷惑をかけたくないと思って生きてきたが、最後だけは許して欲しい。

 もっとも誰かを巻き添えにしないようにだけはするつもりだった。

 夕陽は美しかった。

 こんなに夕陽が美しいと思ったのは、初めてだった。

 だが、僕は明日の朝を迎えることは無い。

 夕陽を顔全体に浴びながら、何となく笑みが出た。

 何がおかしいのか、自分でもよく分からなかった。


 僕は柵を乗り越えた。

 下は帰宅を急ぐサラリーマンやOL等がせっかちに歩いていた。

 何をそんなに急いでいるのだろう。

 みんな帰る場所があって羨ましい。

 きっと意識すること無く、明日の朝日を浴びるのだろう。

 僕は明日の朝日を見ることは無い。


 僕はビルの先端に立った。

 ほんの少しの勇気だ。

 一歩、踏み出せば、苦しいことばかりだった、この人生にサヨナラできる。

 僕は覚悟を決め、目をつぶった。


 その時だった。

 勢いよく腹が鳴った。

 さっきカツ丼を食べたのに。

 そこで僕は我に返ってしまった。

 足がガタガタ震えていた。

 僕は手を見た。

 まだ動く。

 また、腹が鳴った。

 僕は死のうとしているのに、まだ腹が鳴るのか。

 僕は驚いた。

 頭の中では死にたいと思っているのに、僕の体はまだ生きたいと願っている。

 僕には友人もお金も能力も、何も無かったが、僕の体の組織だけは、僕の意志に従って従順に動いてくれた。

 僕はそんな僕の体でさえも裏切るのか。

 手はまだ動く。腹も減る。

 僕はもう一度、下を見た。

 今度はとても怖いと思った。

 そして、僕は自分自身の本心を悟った。

 僕は死にたくなんかないということ。

 明日の朝日が見たいと言うこと。

 明日の夕焼けが見たいということ。

 そして、また春になれば咲く、あの美しい桜に染まる街を歩きたいということ。

 

 生きていれば、きっとまたカツ丼を食べられる。

 幸いにして健康ではある。

 僕は自分の本心がわかってしまった。

 僕は死にたくなんか無い。

 いいのかい?僕は生きていて。

 きっとこれからも大していいことなんか無いぜ。

 それに応えるようにもう一度、腹が鳴った。

 僕は柵を内側に乗り越えた。


 その次の日、僕は日雇いのアルバイトをした。

 大家には恥を忍んで、家賃を待ってくれないか、お願いしたら快く聞き届けてくれた。

 ちょっと意外だった。

 それどころか、別の清掃会社を紹介してくれた。


 そして僕は今日を生きている。

 相変わらず給料は高くないが、それでもこれまでの清掃の現場経験を評価してもらい、チーフという役職を与えられた。

 月に5,000円の役職手当も付いた。

 僕は給料をもらうと、必ずカツ丼を食べてビールを飲む。

 カツ丼は並で無く、上だ。

 僕はいくらカツ丼が好きでも、食べるのは月1回にしている。

 カツ丼を食べるのは、月1回の特別な日。

 僕は生きている限り、生きてやろうと思っている。

 僕が死ぬのは僕の体が僕を見放した日。

 その日までは僕は生きる。

 何があっても。

 僕は僕自身に誓った。

 

 

 

  

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カツ丼と夕暮れと 青海啓輔 @aomik-suke

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