第十一章 セーントリッヒ諸島
真っ赤な頬を見られたら、さぞ心配されるだろうと思っていたのだけれど、私の部屋に戻るとカイトさんはいなかった。拍子抜けしたと同時に、何があったのか探られなくて済むと安堵したわ。
お手洗いにでも行っているのだと考え、私はソファに腰を下ろしながら先程の事を思い出す。
何故あの香りが公爵から香って来たのか――例えば、コロンだとするならば話は早いのだけれど、どう考えてもそんなに綺麗なものではない。どこか毒々しくもあり、不快でもある、そんな香りだった。要は、あまりいい香りではないということね。
時間を忘れて考えていたのだけれど、結局正解らしい正解は浮かんでこず。
ソファに体を預けて時計を見やると、一時間が経過していた――カイトさんはまだかしら? ここ最近は私との時間をここまで空けることがなかったから、少し心配に思う。
もう国に帰った? ――それはないわ。彼の荷物はまだここにあるもの。
それに、あんなに私を愛しているのに、一言もなく帰る訳がない。愛想をつかしたならまだしも――こんな悪女に愛想をつかさない訳ないけれど、彼は変わっているもの。私に断りなくいなくなったりしないわ。
――たぶん。
私はそっとソファから離れ、扉を少し開けて廊下の様子を伺う。もちろん、見張りは立っていた――その顔は忘れもしない。下手したら国王と面会出来無いところだったのだから。
「この前はよくもやってくれたわね」
「何の事でしょう」
嫌味を込めて言ったのだけれど、見張りは何とも思っていないようだった。嫌味が効かない人は嫌いよ。つまらないから。
でも、これを言ったらどう思うかしらね?
「国王とは結局会えたから良かったものを」
「え?」
見張りの顔色が変わる――まぁ、その表情で許してあげるわ。
「カイトさんはどこへ?」
「――執事と話があると」
「そう」
こんなに長時間も何の話があるというのかしら? そんなことまで見張り如きが知っている筈はないから、顔を引っ込めて扉を閉めた。
久しぶりの一人の時間。しかも拘束具もない――自由だわ。
束の間の幸せを感じていたら、すぐに嫌な事を思い出す。私今、魔法が使えないのだった。何も出来無いわね。
公爵に啖呵を切られてしまっては、私がこの国から出て行く方法も皆無。
「あの国にも行けないわね……」
魔法を使う為に必要な魔力――それを手に入れるためには、セーントリッヒという国に行かなければならない。私が持っていた魔力はその国の魔法使いから分けて貰ったものだから。もう一度分けて貰わない限り魔法は使えないの。この国でも魔法を使えれば、自分の中で魔力を生成出来るのでしょうけれど。
――でも、完全に詰んだわ。
そっと頬に触れる――叩かれた光景を思い出すと、今更ながらに苛立ちが沸き起こる。
元々気に喰わなかった公爵が今回の件でより一層気に喰わない存在になったというのに。こんな事では意趣返しも出来無いわ。
「絶対仕返ししてやる……」
言葉にすると、ふつふつとまた怒りが沸いて来て、その先の事も思い出す。
――追い出される時に見えた、公爵の顔。
そういえば、あんな公爵の顔は初めて見たわ。自分で私の頬を叩いておきながら、叩いた手を見つめて驚いているなんて……まるで予想外の事でも起きたかのように。
自分でやっておいて、予想外な訳がないわ。何だったのかしら?
それにしても、一人だからってブツブツと独り言ちているのは気持ち悪いわね。カイトさん、早く戻って来てくれないかしら? ――と思っていると、バンッ! と勢い良く扉が開いてカイトさんが戻って来た。
「フローリア! 準備してくれ!」
「準備?」
「今から出かける!」
カイトさんは、執事に指示をして身支度をさせながら、私に近寄って来る。
随分急だこと……。
「どこへ行くの?」
「セーントリッヒ諸島だ!」
「え」
思ってもみない棚から牡丹餅に私の目が煌めく――でも、一つ問題があった。
「でも、公爵の許可がないと――」
「それなら、もう俺が取った! 早く!」
「え、ええ」
まさかだわ。こんな事が起こるなんて。ニヤける口元を誤魔化すように咳払いをしてから身支度を始める。
三十分程で身支度を整えると、息つく暇もなく馬車に乗り込み、そこでようやっと落ち着けた。
何故こうなったのか、準備中はカイトさんも執事に指示を出したり、部屋を行ったり来たり忙しなくしていたから聞けなかったのだけれど、やっぱり理由は気になる。
「ねぇ、カイトさん」
「ん?」
「何でセーントリッヒに行く事になったの?」
「本当はお父様が行く予定だったんだが、倒れたんだ。お兄様は別の外交中でいないらしいから、急遽俺が行く事になった」
なるほど、その連絡がきたから一時間もの間、戻って来なかったのね。
「国王様は大丈夫なの?」
「ああ。心配いらない」
「そう……」
以前見た時はお元気そうに見えた気がするけれど、いつ何が起こるか分からないわね。
「でも、どうして私も一緒に?」
「一緒にいたいからに決まってるだろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
聞いた私がバカだった、って思ってもおかしくないわよね?
そもそもこれは外交になるから、着いて行くなんて妻のようなものじゃない……そこは不本意だわ。でも、今回ばかりは感謝しなきゃね。行きたかった国に行けるのだから。
でも、急に決まった事だし、私が同行しても本当にいいのかしら? だって、まだ他国の人間よ? 相手からすれば何故私が来たのか疑問に思う筈だわ。
「先方には私が行くと伝えてあるの?」
「妻が同行するって伝えてある、大丈夫だ」
大丈夫の意味、知っているのかしら?
「嘘を伝えて大丈夫な訳無いわよね?」
「バレなければいい」
「バレたら相手は不快に思うのではないかしら?」
友好関係だって危うくなるわよ?
「だから、バレないようにセーントリッヒでだけでいいから妻でいて欲しい」
もう何を言っても無駄だわ。
一瞬でも夫婦になれる事にそんなにも嬉々とするかしら?
かなり強引な手ではあるけれど、仕方が無いわね――この手がなければ外交に同行させて貰えなかったでしょうしから。
今は割り切ってあげるわ。セーントリッヒに行けるのだから。
でも、バーラン王国からすればセーントリッヒは隣国。近いと思うけれど、ヴィシュバルド国から行くとなれば、馬車でどれだけ急いでも半日以上はかかるわ。長旅になりそうね。
それにしても、あれだけ啖呵を切った公爵がカイトさんの一言で私の外出許可を出すなんて……よっぽど、バーラン王国にご執心なのかしら。そこまでの魅力があるような国には思えないけれど――
身支度が出来ると、公爵が早急に用意した馬車に私達二人は乗り込む。
「え?」
肩に重さを感じて目をやると、カイトさんが私の肩を枕代わりにして眠っていた。
この人はいつも呑気ね。さすがに呆れながら溜息を吐いた。でも、確かに長旅を考えれば、眠るのが正解なのかも。そんな事を思いつつ眠れない私は、流れて行く景色を暫く見送っていた。
***
「――リア」
声が聞こえる。どこかで聞いたことのある声。ふわふわとした感覚がまだ抜けない。肩を誰かが優しく叩いていて――
「フローリア、着いたぞ」
「え?」
その声にハッとして目を覚ます。どうやら私もいつの間にか眠っていたみたいね。
「着いた」と言う言葉に夢見心地の感覚は吹っ飛んで行った。
「セーントリッヒ諸島だ」
カイトさんが指差す先――窓の外を見てみると、普段は見られない光景が広がっていた。
箒に乗って飛び回る人々。黒服に黒い帽子。まるで、絵本に出てくる夢のような、メルヘンな世界が広がっていた。
――セーントリッヒ諸島。
小さな島国が集まって出来た複合体の国で、大陸からかなり離れた海上に存在している。その為、大きな橋を渡る必要がある。
その国には公爵や国王のように主君がおらず、皆が平等に暮らしている自由の国。貧困差も少なく争い事も少ない比較的平和な国だが、ひとたび戦争が始まるとその特殊な魔法の力によって巨大な力を発揮する為他国から一目置かれている。その為友好国も多く、その一部にバーラン王国とヴィシュバルド国も含まれている。
他国には存在しない魔法という力が何故存在しているのかというと、諸島の海底にある大きな石が関係していると言われている。その石には、特殊な力が込められており、それがいつしか魔法と呼ばれるようになった。その石の真上にあるセーントリッヒ諸島に住んでいる人々はその影響を受け、魔法を使えるようになったのではないかと言われている――本で読んだのを要約するとこんな感じかしら。
「さ、降りるぞ」
「ええ」
カイトさんが手を差し出してくれる。私はその手を取って、一緒に馬車から降りた。カイトさんが降りて、続いて私も降りる。
いよいよだわ。ここでまた魔力を補給出来れば、ヴィシュバルド国へ帰った時に魔法を使って公爵の鼻を明かせる筈――早くあの魔法使いと会わなければ。
「どうした? なんだか嬉しそうだな?」
そう聞いて来る貴方の顔も嬉しそうだけれど。何かあったのかしら?
「え? まぁ、そうね。滅多に来ない国だから」
私何か変な顔をしていたかしら? 慌ててカイトさんから顔を逸らして、両頬を両手で隠すように包み込む。
私が前回やって来たのだって、かなり昔よ? 子どもの頃。外交なんて殆ど行かせて貰った事無いから、懐かしくもあるし、楽しくもあるわね。くどいようだけれど魔力も欲しいし。カイトさんの目的は外交の代理でしょうけれど、私の本題はそこなのだから。
「行こう」
「ええ」
またカイトさんが手を差し出してくれて私はその手を取る。もう手を繋ぐ事にも何の抵抗もなくなってしまったわね。そんな事を思うと、少し口元が緩んだ――ダメよ、こんな事では。気持ちを切り替える。
カイトさんといると、いつもの自分が分からなくなる。私が着いて来た理由はついさっき考えていたばかりなのに。
三角型の屋根、レンガの壁、上げ下げ窓、空に届きそうな程の高さに囲まれた小さな庭。私は、そのどれもが物珍しくてカイトさんに手を引かれながらも上空を見上げていた。建物の上の方でも窓を開けている人と箒に乗っている人が会話しているのが見えて、楽しそうだと思った。
「私にもあれだけの魔力があれば――」
小さく呟いた本音。そうすれば、魔法の力で公爵の秘密を簡単に暴ける筈だわ。そして、証拠を突きつけてぎゃふんと言わせてやるのよ。
いえ、そもそも魔法の力を使って直接攻撃出来ちゃうわね。叩かれた頬のお返しにお尻ぺんぺんでもやってやろうかしら?
「何か言ったか?」
すぐ隣にいるのだから、私の独り言ぐらい聞こえて当り前よね。カイトさんに問われて、少し肩が跳ねた。
「何でもないわ」
「そうか?」
カイトさんは不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。私は顔を逸らし、表情を読み取られないようにした。悪女なのに、こんな子どもっぽいところ見られたくないもの。
「こっちだ」
「ええ」
門をくぐると、大きな庭園が広がっていた。
庭師さんが箒に跨って、木々の手入れをしているところとか、魔法を使って花に水をやっているところが目に入る。
――そうよ、この光景! 私が覚えているのはここだわ!
この秘密基地のような場所が大好きだったと思い出す。
庭園を抜けると、大きな建物があって、そこにこの国一番の魔法使いが住んでいるのよ。私はその人から魔力を分けて頂いたの!
思い出すと目が煌めき始める。足取りが軽くなる。早く早く早く――
「どうした?」
「え?」
「何か早歩きになっていないか?」
言われて気がつく。カイトさんを追い越して先頭を歩いていた。
「――そんな事無いわ」
気持ちが急いていた分、足取りも早くなっていたのね。一つ咳払いをして誤魔化すと、カイトさんの隣へ戻った。
「ふっ」
聞こえてきた声に隣を見ると、空いている手で拳を作り、それを口元に当てながら笑っている。
「何?」
少し睨みを利かす。けれど、カイトさんは気にも留めない。反応が悪いったら。
「こういう所ってわくわくするよな」
確かに、子どもの頃に来た時はわくわくしていた――その頃の思いが未だに残っているのかも。
悪女に成り下がった私にも一応純粋さは残っていたということ?
「そうかしら?」
「ああ。フローリアだって、顔に出ているぞ?」
「気のせいよ」
いつものように冷たくあしらったけれど、ちゃんと誤魔化せたかしら?
「まぁ、いい――でも、妻役は忘れないくれ」
耳元で囁かれた後ウィンクをされると、心臓が跳ねた気がした。
きっと気のせいよ――
「ここだ」
カイトさんが前方を指差す。その先を辿ると、大きな建物が
「どうした?」
「――何でも」
少しずつ純粋だった頃を思い出していると知られたくなくて背を向ける。
「俺何かした?」
「何もしてないわ」
「だったら、何でこっち向いてくれないんだ?」
少し悲し気な声が背後から聞こえて来るけれど、どう接していいのか分からない。
その時、背中に暖かいものを感じた、と同時に目の前にカイトさんの腕が見えた――抱き締められた。
不意の事に心臓が跳ねる――さっきから何なのよ。
「これじゃあ、夫婦に見えないぞ」
「――分かっているわ」
「本当か?」
カイトさんは私を抱き締めながら、頭に頬を擦り寄せて来る。
もうくっついていたいだけでしょ。
「分かっていると言っているでしょ。離れて」
「ああ」
不本意な声が聞こえてきたけれど、ちゃんと離れてくれた。
だから、私も妻を演じなければね。
「え?」
カイトさんと並んで歩き、彼の腕に自分の腕を絡める。
「フローリア……」
何だか喜んでいるようだけれど、前を向いて下さいね。魔法使いさんが見ていますよ。
「前を向いて。見られてるわよ」
「ああ。フローリアと夫婦として見られているなんて感慨無量だ」
あまりそういう事を言うと、バレるわよ?
使用人と思われる魔法使いが並んでいる場所まで来ると、その中の一人に「バーラン王国のバーランご夫妻ですね。ここで暫くお待ちください」と止まって待つように指示される。
「フローリアにこんな所で待たせるなんて――」
「いいから」
カイトさんは憤っていたけれど、中に入るには何か許可がいるのかもしれないわ。
暫く待っていると、杖突き姿の
――この方だわ。私に魔力を分けて下さったのは。
腰も曲がって……随分と老けてしまったわね。無理も無いわ。あれから十年も経っているもの。
「長老。今回バーラン王国から外交にいらっしゃった方々です」
「そうか、そうか」
開いているのだか開いていないのだか分からない程の細い目を凝らしながら、私達を見上げてくる。
「私がこの国の長、ネイラン・ゼパルタだ。宜しく」
杖を突いていない手を差し出してくれて、カイトさんが礼をしながらその手を取った。
「バーラン王国から父のバーラン国王の代理で来ました、カイト・キャリーツ・バーランです。宜しくお願い致します」
こういう時はちゃんとしているのね。甘えん坊の彼しか知らないから意外だわ。
「こちらは妻の――」
「妻? 違うでしょう、それは」
「え?」
カイトさんが私を紹介しようとしたら、ネイランさんが即行否定した――何でバレているのかしら? 私何か不自然だった?
ネイランさんがゆっくりと話し始める。
「この建物には魔法がかけられています。護衛のために。偽りがあれば即弾き出されます。本当に奥様でしょうか?」
まさか、この建物にそんな魔法がかけられているなんて、予想外だったわ。さすが魔法の国――早く魔力を分けて欲しいわ。
「――違います」
カイトさんも観念したみたいね。そうよ、最初から嘘の夫婦を演じようなんて、無理に決まっていたのよ。私はほくそ笑んでいた。
「でも、婚約者ではあります!」
それも違うけれど……彼が本気で本当だと思い込んでいる場合はどうなるのかしら?
「貴方は嘘を吐いていない……貴女は?」
「え?」
何て答えればいいのかしら……でも、嘘を吐いたら弾き出されるのよね。それは困るわ。
「私は、婚約したつもりはありません」
「フローリア!」
「貴女も嘘を吐いていない」
「え!?」
大袈裟な反応ね。いつもそうだと言っているじゃない。
使用人の魔法使いがネイランさんに「どうします?」と怪訝そうな顔で問うていた。
隣ではカイトさんが意気消沈中。
「今事実確認が出来たのだから大丈夫だろう。他に偽りはないかい?」
「ありません……」
「はい」
魔力が欲しいという下心はあるけれど、大丈夫かしら?
「そうか。まぁ、例え嘘を吐いていたとしても、何かあれば自動的に弾き出される。覚悟して中へ入るように」
ネイランさんは物騒な事を言い残して踵を返す。その背中は着いて来いと言っているようだった。一応合格って事ね。弾かれない事を願うばかりだわ。
「行こう……」
「ええ」
いつまでも覇気の無い人ね。代理の外交ぐらいしっかりして欲しいわ――さっきまではしっかりしていたわね。せっかく見直したのに。
――それどころじゃないわ。
私は下手したら弾き出されるのではないかと緊張していた。
だが、そんな私の手をネイランさんが取ってくれる。
「緊張しているようだね」
「え、あ、はい……」
「私が怖がらせるような事を言ってしまったからかな。申し訳無い」
「――いいえ」
そう声をかけられると、どこか安心出来た。懐かしいその手に、その声に、触れられたからかもしれない。
隣のカイトさんは少し複雑そうな表情で私達を見ていたけれど――こんなご老人にまで嫉妬しなくても。
「――あ」
――気がついたら、建物の中だった。
ネイランさんのお陰で安心出来たから入れたのかしら?
――私、一応悪女なのだけれど? 本当に入れて大丈夫?
まぁ、入れたのだからこっちのものね。カイトさんが外交をしている隙に魔力を分けて貰わなければ――でも、何だか気が引けるわ。こんな老齢の方から魔力を頂くなんて……他の方に頼むべきかしら? 魔力が手に入るなら私は何でもいいのだけれど。
「お爺様」
そこで頭上から声が聞こえてきた。この声は――
「おお、グラスリーか」
私はゆっくりと顔を上げた。
二階の階段から降りて来たのは、腹違いの妹であり、元私のメイド――そう、あのゲームの主人公であり、この世界で私を悪女にしてくれた彼女。この国に嫁いでいたのね。羨ましいわ。
「お客様です、か……」
ネイランさんの隣に来て私の目の前に立つと、その視線が私を捉える。大きな瞳が更に大きくなったかと思ったら、その瞳には憎悪が浮かんできた。
「何故、貴女がここへ? 良く入って来れたわね」
私に話しかける時だけトーンが違うのは何故かしら?
「久しぶりね」
「馴れ馴れしいこと。もう貴女とは関係無いわ。私はもうメイドでもなく、ヴィシュバルドの人間でもない。今はここで楽しく暮らしているの。なのに、なんで貴女なんかが――」
「別に貴女の邪魔をしに来たのではないわ。偶然よ」
「嘘言わないで! 何しに来たの!? ヴィシュバルドからそう簡単に来れる距離ではないのよ? 何か企んでいるのでしょう!?」
「落ち着きなさい、みっともない」
「誰がそんな口を――!」
私とグラスリーの間に割って入ったのは、ネイランさんだった。
「まぁまぁ、彼女の言う通りだ、グラスリー。落ち着きなさい。彼女は外交で来たんだ。それに、嘘は吐いていないとこの建物が証明してくれている。怒りを鎮めなさい」
「ですが、お爺様――」
「グラスリー、言っただろう? お客様だと」
グラスリーは下唇を嚙み、無理矢理気持ちを落ち着かせているようだった。
さすがにネイランさんには敵わないみたいね。
「――ごゆっくり」
絞り出した言葉とは反対に、私に向けられる視線は鋭かった。
私は耳元で囁いてあげる。
「これじゃあ、どちらが悪女か分からないわね」
――パンッ!
乾いた音が響き、グラスリーが私の頬を叩いたのだと気付く。その瞬間、カイトさんが私の盾になるように立った。
「俺の大切な人に何をするんですか!」
そんなに躍起になる必要はないわ。公爵よりは全然痛くなかったもの。
「大切な人――? まさか、貴方、こんな女を愛しているとでも?」
「そうです。心の底から愛しています」
そう言って真剣な瞳をグラスリーへと向ける。彼女の表情がまた歪んだ。私が誰かに愛されているなんて納得出来無いのでしょうね。困った事実だわ。
グラスリーの視線が下がり、カイトさんの胸元を見る――そこにはバーラン王国の紋章が描かれていた。
「ああ、なるほど。あの悪名高い国の王子と恋仲なんて相性ピッタリだわ」
私に嫌味が吐けるようになるなんて、随分と生意気になったものだわ。この言葉には、眉間を寄せた。
言い返そうと思った瞬間――グラスリーの体が宙に浮かんだ。
「きゃあああ!」
「グラスリー、いい加減にしなさい――部屋へ」
ネイランさんがそう言った瞬間、彼女の姿は宙から消えた――何? 今のも魔法なの? 凄過ぎる……私にもあれくらいの力があれば、公爵への復讐なんて一瞬なのに。
まぁ、グラスリーには良い薬になったでしょうね。私はまたほくそ笑んだ。
「大丈夫か? フローリア」
「ええ」
「そうか、良かった……それにしても何だったんだ、あの人。知り合いか?」
「腹違いの妹よ」
「え!? 妹!?」
カイトさんが大袈裟に驚くものだから、ネイランさんもこっちを訝しげに見ているじゃない。
「妹、と言われましたか?」
「ええ」
ほら。根掘り葉掘り聞かれるのはごめんなのだけれど。私が悪女だとバレて追い出されてしまっては困るもの。
「では、貴女もヴィシュバルド国の――?」
「ええ。フローリア・ミリー・ヴィシュバルドと申します。幼い頃に一度、この国へ来た事もありますのよ」
「ええ、ええ、覚えておりますとも! あの小さかったフローリア様が、こんなに立派になられて……」
ネイランさんは感涙しているようだったけれど、残念ながら立派な人間にはなれなかったのよ。不思議とネイランさんには申し訳無く思ってしまうわね。
「お二人ともどうぞこちらへ。グラスリーは来ないように魔法をかけておきましょう」
久しぶりにいい気分だわ。ちゃんと悪女である自信も取り戻せたし。グラスリーは意外と私にとって必要な存在なのかもしれないわね――私が悪女であるために。
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