豆乳ジンジャーココア

緑川えりこ

豆乳ジンジャーココア

「どうぞ」

初めて私がこの喫茶店を訪れたとき、そう言って喫茶店のマスターだという彼が出してくれたのは、ホットココアだった。ふわふわした湯気と共に甘く優しい香りが私を包み込んでくれる。


現在就活真っ只中の斎藤さいとう優愛ゆあは、今届いたばかりの「今回は採用を見送らせて頂きます」というメールを見て、はぁ、と深いため息をつく。

もうこれで何社目だろうか。数えるのも嫌になる。「誠に残念ではございますが」「ご希望に添えず」の言葉の行き着く先は『不採用』だ。

優愛が今まで受けた就職希望先は30社。今届いたメールで30連敗が確定した。

同級生たちは、次々と就職先が決まっていった。

私だけどこからも採用がもらえないのではないかという焦りが優愛の心をざわつかせる。

「いらっしゃいませ」

ざわざわした心を落ち着かせようと、優愛は、彼のいる喫茶店へと向かった。

「マスター」と呼ばれている彼は、笑顔で優愛を迎えてくれた。

相変わらず、ふわっと笑う人だな。

彼は『マスター』と呼ばれているが、まだ27歳だと言っていた。

細身でスラッとした身長にシンプルなお店の黒エプロンがよく似合う。さらに端正な顔立ちをしているため、女性のお客さんからもかなり人気があるようだ。

この前も、連絡先を聞かれているのを目にした。

「優愛ちゃん」

彼の低く優しい声が私の名前を呼ぶ。聞き慣れた名前のはずなのに彼が呼ぶと、なんだかくすぐったい。

「ココア、入れようか?」


この喫茶店に初めて来たのは3年前。大学1年生になったばかりの頃だった。

地元を離れ、上京したての私は、不安でいっぱいだった。

知らない土地での一人暮らしは上手くやっていけるだろうか、友達はできるだろうか。

そんな不安や緊張を溶かしてくれたのが、マスターの入れてくれたココアだった。

その日から、マスターの入れてくれるココアは、私の中でお守りのようなものになっていた。

友達と喧嘩したとき、生まれて初めてできた彼氏にフラレたとき、そんな時は決まって彼の入れてくれるココアを飲みに行った。すると、心に溜まったドロドロとしたものが溶けていくのだ。


「どうぞ」

優愛の目の前に差し出されたココアからは、ふわふわと優しい甘さが店いっぱいに広がっていく。

その甘さの中に、今日はピリッとした匂いが混ざっているのに優愛は、気がついた。

「マスター……、これ」

「気付いてくれた?実は、今日のココアはジンジャーココア」

ピリッとした匂いの正体はなんと生姜だった。

「飲んでみてよ」

「いただきます……」

優愛は、思わず目をつぶる。

少し飲んだだけだというのに、安心する温かさに包まれる。

ココアの甘さが脳と身体に染み渡っていく。

ほぅ、と思わず息が漏れた。

「どう?あったまった?生姜には身体をあたためる効果もあるからね」

ココアの優しい甘さの中に、少しピリッとした生姜がアクセントになって、なんとも優しい味がした。

先ほどまで感覚がないほど冷え切っていた指先や足にじんわりと温かさが戻っていくのを優愛は、確かに感じていた。

それに、これは。

「マスター、これ、牛乳じゃないですよね?」

「うん、今日のココアは豆乳使ってるんだよ。

豆乳は、女性ホルモンのエストロゲンと似た働きをしてくれるんだよ。自律神経を整えてくれたり、肌を綺麗にしてくれたり。優愛ちゃん、なんだかいつもより疲れてるみたいだったから」

マスターの嫌らしさのない純粋な優しさに優愛の目にぷくりとした粒が浮き上がる。その粒は次第に大粒に変わり、頬を次々と流れた。

時々、嗚咽を漏らしながら泣く優愛をマスターは何も言わず落ち着くまで側にいてくれた。

幸いだったことに、優愛の他に今日はお客さんはいなかった。

「私、今日で30社落ちたんです」

優愛は、心の中に溜まったモヤモヤを少しずつ、ぽつり、ぽつりと口にした。

「不採用の通知を受け取る度に、社会から『お前はいらない、お前はこの世界に必要ない』と言われてるみたいで。

エントリーシートもありきたりなことしか書けなくて、私は、今まで何をやってきたのか分かんなくなっちゃって」

「優愛ちゃん。優愛ちゃんがここに最初来てくれた時のこと覚えてる?

そん時、すっごいキラキラして見えたんだよね。不安とか緊張はあるって感じだったけど、これから始まる大学生活になんだか凄くわくわくしてるみたいだった。

落ち込んで、ココア飲みに来ても、飲み終わったあとはまたキラキラした優愛ちゃんに戻ってて。

優愛ちゃんは今何をするべきかちゃんと分かってる人だよ。そしてそれをちゃんと、やれる人。

先の見えない未来って確かに怖い。でも、楽しい未来がくる!って決めて、今を楽しんでたらきっと楽しい未来が来るよ。ここに、最初来たときみたいにね」

マスターはそう言って、悪戯そうに片目をつぶってみせた。

優愛は、身体だけでなく、心まで温かくなっているのに気がついた。

それは、きっとこの豆乳ジンジャーココアだけのおかげではないことも気付いていた。

「さぁ、これを飲み終わったら、パワーアップした優愛ちゃんの誕生だよ!なんたって、今日のは豆乳ジンジャーココア!」

豆乳ジンジャーココアに僕の恋心も入れて。ふれふれ、僕の好きな人。

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豆乳ジンジャーココア 緑川えりこ @sawakowasako

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